日本バプテスト連盟シオンの丘教会のホームページ

牧師室から(2014年度) 


★牧師紹介
 名前 坂田 浩
 年齢 50さい+あるふぁー
 身長 168センチ
 体重 オットセイくらい
 趣味 囲碁と釣り
 好きな食べ物  奥さんの作るもの
 嫌いな食べ物  レバー
 怖いもの おやじ
 簡単な経歴
 1958年熊本生まれ、1988年西南学院大学神学部卒、日本バプテスト基督教目白ヶ丘教会副牧師、横須賀長沢キリスト教会牧師、伊都キリスト教会牧師を経て、2002年4月よりシオンの丘教会牧師、現在にいたる。

★あなたへのメッセージ(2014年)
   
2014年
12月7日
   「神の業が現われるとき」
   
  ルカによる福音書1章57節~80節          

『聖書箇所』
1:57 さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ。

1:58 近所の人々や親類は、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った。

1:59 八日目に、その子に割礼を施すために来た人々は、父の名を取ってザカリアと名付けようとした。

1:60 ところが、母は、「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言った。

1:61 しかし人々は、「あなたの親類には、そういう名の付いた人はだれもいない」と言い、

1:62 父親に、「この子に何と名を付けたいか」と手振りで尋ねた。

1:63 父親は字を書く板を出させて、「この子の名はヨハネ」と書いたので、人々は皆驚いた。

1:64 すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。

1:65 近所の人々は皆恐れを感じた。そして、このことすべてが、ユダヤの山里中で話題になった。

1:66 聞いた人々は皆これを心に留め、「いったい、この子はどんな人になるのだろうか」と言った。この子には主の力が及んでいたのである。

◆ザカリアの預言

1:67 父ザカリアは聖霊に満たされ、こう預言した。

1:68 「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、

1:69 我らのために救いの角を、/僕ダビデの家から起こされた。

1:70 昔から聖なる預言者たちの口を通して/語られたとおりに。

1:71 それは、我らの敵、/すべて我らを憎む者の手からの救い。

1:72 主は我らの先祖を憐れみ、/その聖なる契約を覚えていてくださる。

1:73 これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。こうして我らは、

1:74 敵の手から救われ、/恐れなく主に仕える、

1:75 生涯、主の御前に清く正しく。

1:76 幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、

1:77 主の民に罪の赦しによる救いを/知らせるからである。

1:78 これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、/高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、

1:79 暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、/我らの歩みを平和の道に導く。」

1:80 幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた。
メッセージの勘所
ザカリアは妻のおなかが大きくなっていくのを目の当たりにしながら、何を思って沈黙していたでしょうか。彼は御使いの語る言葉を信じなかった、それ故、口がきけなくなったのですが、しかし、その時まで自分が心の奥底では神を信じていないなどということは思いもしなかったでしょう。でも、神の憐れみは彼の不信仰を打ち破り、彼自身二度目ともいうべき新しい誕生を体験し、神の御業の現れを悔い改めと共に体験していたのです。そして、同じことは、すべての信仰者にもおこりうるのです。
メッセージの要約

祭司とは日本で言えば、神主とか僧侶とかと言えばイメージしやすいでしょうか。

祭司ザカリアは神の言葉を信じなかったため10カ月間言葉がしゃべれなくなりました。神殿で奉仕していたわけですから、神のみ使いが現われても不思議ではなかったとも言えますが、それでも天使を自分の目で目の当たりにしたときザカリアは恐れました。

10カ月間の間に、ザカリアは何を思ったでしょうか。なぜあの時恐れたのだろう、なぜ素直にみ使いの言葉を信じると言えなかったのだろうと自分で自分に尋ね続けていたのかもしれません。

当時、夫婦に何年待っても子供が与えられない時、人々は神様が母の胎を閉ざしておられると見ました。それは子供の与えられない夫婦にとってどんなにつらい日々だったでしょうし、自分たちは神の救いから零れ落ちていると考えていたかもしれません。
そのような中で、妻エリザベトのお腹が大きくなっていくのをザカイアは見て「時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである」と言われたみ使いの言葉に自分の信仰を打ち砕かれる思いだっただろうと思います。

今まで幾度となく唱えてきたアブラハム、イサク、ヤコブ(先祖たち)の神が、この時初めてこの私の神でもあり、この私とも共におられるのだということを身をもって味わい知ったのではないかと思います。

赤子が与えられたのはなぜか。それは78節にあるように、「これは我らの神の憐れみの心による」のでした。「憐れみの心」とは「内臓」という言葉から作られています。驚くべきことですが、それは神様にも痛む内臓があるということを示しているのです。
私の苦しみを、はらわたがよじれるほどに一緒に痛み苦しんで下さる神がおられるということです。

私も母が胆管癌、父が肺がんとなり、観念的でしかなかった死を現実的なものとして感じました。何をしていても腹に力が入らない、家族も気付かなかったかもしれませんが、鬱みたいになって弱くなった自分を経験しました。自分が潰されそうでした。

そんな時頼れるのは、この私もそして両親もご自身の手によって造ってくださった神様の憐れみしかありませんでした。

ザカリアも神の憐れみの心を知ったのではないかと思います。私も確かに苦しんできた。しかし、私は知る由もなかったけれど、おそらく神はこの私の苦しみを一緒に苦しんでこられたのだと。

ヨハネが生まれたとき、周りの人々も喜んでくれました。しかし、彼らとザカリア・エリザベト夫婦の喜びには違いがありました。周りの人々の喜びは跡継ぎができて、一族が絶えないで済んだことに対してでした。しかし、ザカリアとエリザベトの喜びは全く違っていました。彼らは単に自分たちの義務が果たされたということを喜んだのではなく、神が生きておられる、自分たちと共におられるということを喜んだのです。

この10カ月間はザカリアにとってどんな期間だったのでしょう。それは神の恵みとは何か、憐れみとは何かを思いめぐらしていただろうと思います。だからこそ「高い所からあけぼのの光が我らを訪れ」たことに気づいたのです。

この言葉は78節の言葉ですが、文語調ではもっと美しく表現されています。「あしたの光、上より臨み」と。夫婦はそのことを喜びました。

私の両親にも主の憐れみが臨んでいること、あしたの光が臨んでいることが、今、私自身の光となっています。

しかし、ある方にとっては、自分がいま直面しているこの苦しみはいつまで続くのかと神さまを恨めしく思われる方もおられるかもしれません。

しかし、私たちを強くするのは、75節にあるように自分自身が神の前にどう歩んでいるかを問うことです。「生涯、主の前に清く正しく」(75節)あろうとしているのかと。

清く、正しくとは、自分の力では清くも正しくも生きられないと知って、神の憐れみにゆだね切っていくことです。私たちの我力の清さや正しさでなく、私たちの行いの中に神の憐れみが見えるように生きることです。自分自身にそのどちらの道を自分は行くのかを問うていくことこそ大事です。

地上に生きる全ての人のために、神の光がこの世に差し込みました。私たちはその光のもとなるイエス・キリストご自身が再び来られるのを待ち望む中に私たちはいます。
一人一人を神は心に留めてくださっています。はらわたが痛むほどに慮って下さっているのです。曙の光を覚え続けていきましょう。
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2014年
11月23日
   「語り伝えよ 神のみ言葉」
   
       マタイによる福音書10章34節~39節     

『聖書箇所』
10:34 「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。

10:35 わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、/娘を母に、/嫁をしゅうとめに。

10:36 こうして、自分の家族の者が敵となる。

10:37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。

10:38 また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。

10:39 自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」
メッセージの勘所
クリスマスはいのちと平和の主を祝う祭りだと思います。でも、それがどんなにめでたい祭りの最中であっても、御言葉が私たちの命を刺し通す剣であることを忘れてはならないのです。私は信仰を持とうと決心した時、今日の聖書箇所が何より恐ろしかったのです。これが本当なら、とても信仰なんか持てそうにないと本気で思いました。二者択一なのかと。でも家族をほんとうの意味で得るのはイエスに従うことによってなのだというのはまごうことなき心理です。
メッセージの要約
来週からアドベントに入っていきます。
クリスマスは平和の主を祝う時と思っていますが、今日の聖書箇所は「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。」とあります。これはどういう意味でしょうか。

かつてある人から「クリスチャンになりたいがいくら必要ですか」と聞かれたことがあります。私は、「そうですか、クリスチャンになりたいのですか、でもクリスチャンになっても損をすることはあっても得をすることはあまりありませんよ」と言いました。

皆さんもクリスチャンにならなかったほうがはるかに生きやすかったなあと思われたこともあるでしょう。

私はある方の証の言葉で今も忘れられない言葉があります。「私はキリスト者であることは損だということを大切にして生きてきた」という言葉です。
クリスチャンであるために時には誤解され、時には憎しみを買う。しかし、それをすべて承知の上で、あえて損をする生き方を選ぶというのです。

私たちの身近にも損をしていると思う人がいます。例えば母親の役割はまさしく、そのようなものでしょう。感謝されることが少なくても黙々と家族のために仕えてくれています。

またエボラ出血熱の治療のためにはるか地球の反対側へ、しかも見ず知らずの人のために自らの命を顧みずに出て行かれる方がいます。
一方今の時代、言ったが勝ちと言わんばかりに自己主張をしたり、クレームをつけて、損をすることに過剰に反応する人もいます。
何の不安もない幸せな生活を夢見てクリスチャンになるのでなく、損をすることを大切にできる、そんな生き方もあるのだということを信仰の世界は私たちに見せてくれるのです。

クリスチャンになれば家庭が平和になると思って教会に来ているのに、今日の聖書の言葉はなんですかと言いたくなりますよね。自分の家族が敵になるとは。

私が来たのは地上に平和をもたらすためと思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ、そう言わざるを得なかったイエスさまの心のうちはどんなだったのでしょう。

剣をもたらすために来たとイエスはおっしゃった。私ははじめこの剣は人間と人間の間に争いや軋轢を起こすためのものだと思っていました。しかし、この剣は私たちが自分自身や他人を切り刻むためのものではなかったのです。人々はこの剣でもってイエス様を殺害したのです。この剣はまず私たちに向けられるのではなくてイエスご自身に向けられたのです。イエス様がもたらすと言われた剣は、人を殺したり、裁いたりするものではなかったのです。

なぜそのようは事になってしまったのでしょうか。
信仰はどこまでいっても魔法の杖ではありません。
魔法のように、信仰を持てば私たちの生活から問題が消え去るということはないのです。

弟子たちは様々な奇蹟を見せ、自分の目を開いてくれるような言葉を語ってくれるイエスを慕っていたと思います。しかし、彼らは、イエス様を愛していましたが、それと同列にお金も家族も地位も愛していましたし、それをおかしいとも問題だとも感じていませんでした。

私たちも何か捧げるとしても、他者が自分の心の中の価値観や、自分の財産に触れることをかたくなに拒否しているようなところがあるのではないでしょうか。

ある方が献金の祈りでこのように祈られた方がおられます。「私どもの心にあまりにも献身、犠牲の心の少ないことを赦してください。私どもの貪欲の表れでしかないこの貧しい献金を赦して下さい。」

私はその言葉を聞いて自分の中に、人と比較し、自分はこれだけやっているとおごる自分、痛むほどに決して捧げようとしない自分、安全なところにいつも身を置いている甘さをズバッと衝かれて、ドキッとさせられたことがありました。自分の手に入れたものに他者が触れることを赦さない私、貧しさは自分の内側にあることを如実に知らされてしばし声も出ませんでした。

イエス様はもっと献金しろとか、奉仕しろとか決して言われませんが、私たちの信仰がどこにあるかを恐ろしい仕方ではっきりと示される方であります。
私より、父や母を愛するものはふさわしくないと。
私より息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくないと。私にも娘がいますが、この言葉は修正液で塗りつぶしたいです。

自分の十字架を担ってわたしに従わないものは私にふさわしくない。自分ではそうやっているつもり、そういう気になって安心している自分にぞっとします。自分こそまったくふさわしくないものなのだと知らされます。

「私がきたのは地上に平和をもたらすためではなく、剣をもたらすために来た。」
自分の心が自分の大事がものに向かうのは自然な成り行きではありますが、イエスを愛することを通して、まさに自分に与えられているものを、その限界を知らされていくのです。もしわたしが自分の思いだけで娘を愛したら娘を壊してしまうでしょう。
その前にまずイエスに向かわなければいけません。イエスを愛さなければなりません。

プライベートライアンという映画がありました。ライアンの上の兄弟3人が戦争で亡くなってしまった。最後の息子だけは母親のもとに返さなければいけないという特命を受けた5人の兵士が命をかけてライアンを探しに行きます。苛酷な状況の中で捜索に加わった兵士が次々に死んでいきます。やっとライアンを見つけだしたと思ったら、上からの命令でその場所を死守しなければならなくなり、彼らは脱出せずそこで一緒に戦うことを選ぶのです。激戦の中で負傷した捜索隊の隊長がライアンに言うのです「命を無駄にするな」。彼はそう言い残して息絶えました。
時が経ち、老いたライアンは最後に彼に言葉をかけて亡くなった隊長の墓の前で言うのです「私はあなた方の犠牲にふさわしく生きたのでしょうか?」

私たちはどうしようもないような悲しみや虚しさや罪の中からイエスにより贖いだされました。
投げ込まれた剣を私たちはイエスに向けたのです。私たちは自分の願望を手放すことができず、自分が愛しているものを奪われるのではないかと恐れて、神であるイエスを殺したのです。それなのに、イエスはそういう私たちをご自分の命の中に迎えてくださいました。私たちの真実に私たちが目を向けられるように、私たちが本当に望んでいるものは何かを私たちが知ることができるように。

私はイエスの下さった命にふさわしく生きているでしょうか?イエス様も愛します、家族も愛します、お金も愛しますという具合に、イエスさまと他のものと同列に置いていないでしょうか?

詩編40編7節には「あなたはいけにえも、穀物の供え物も望まず、焼き尽くす供え物も罪の代償の供え物を求めず、ただ、わたしの耳を開いてくださいました」とあります。
私の耳を開いてくださったとは、直訳すると「耳を掘りぬいた」となるのです。
それほどに私たちの耳は固く塞がれ、自分の聞きたいことしか聞こうとしないのです。都合のいいことだけ聞こうとする私たち。だからこその剣だったのです。
私たちは自身の強欲さのために他者を苦しめている存在です。
その苦しんでいる人々の声が聞こえないほどに私たちの耳は強固に蓋されているのです。神様にくりぬいていただかなければどうしようもないのです。

このマタイの言葉は、これからも理解するのに困難な御言葉でありつづけるでしょう。平和の主を迎えようとしている中にあって、平和の主は平和とは似ても似つかない生涯を送られ、しかしそれを良しとして担いきり、私たちに平和をくださったことを、今日この時しっかりと心に止めましょう。
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2014年
10月26日
   「忘れずにいるということ」
   
       申命記8章11~20節     

『聖書箇所』
8:11 わたしが今日命じる戒めと法と掟を守らず、あなたの神、主を忘れることのないように、注意しなさい。

8:12 あなたが食べて満足し、立派な家を建てて住み、

8:13 牛や羊が殖え、銀や金が増し、財産が豊かになって、

8:14 心おごり、あなたの神、主を忘れることのないようにしなさい。主はあなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出し、

8:15 炎の蛇とさそりのいる、水のない乾いた、広くて恐ろしい荒れ野を行かせ、硬い岩から水を湧き出させ、

8:16 あなたの先祖が味わったことのないマナを荒れ野で食べさせてくださった。それは、あなたを苦しめて試し、ついには幸福にするためであった。

8:17 あなたは、「自分の力と手の働きで、この富を築いた」などと考えてはならない。

8:18 むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさい。富を築く力をあなたに与えられたのは主であり、主が先祖に誓われた契約を果たして、今日のようにしてくださったのである。

8:19 もしあなたが、あなたの神、主を忘れて他の神々に従い、それに仕えて、ひれ伏すようなことがあれば、わたしは、今日、あなたたちに証言する。あなたたちは必ず滅びる。

8:20 主があなたたちの前から滅ぼされた国々と同じように、あなたたちも、あなたたちの神、主の御声に聞き従わないがゆえに、滅び去る。

メッセージの勘所
待ち望んでいたことがいよいよ実現するという前夜、イスラエルの民の中には異様な興奮が渦巻いていたと思われます。それは無理もないことでしたが、一人モーセだけは違う未来が見えてきていたのでした。それは、彼らが荒れ野での体験を忘れ去り、現状に満足しきってしまうことでした。それは現在が過去と切り離されて、あてどなく浮遊し始めることを意味しました。過去に背を向ける者は、現在もそして未来をも失うということをモーセははっきりと見通しているのです。
メッセージの要約
皆さんにとって贅沢とは何ですか?月に一度、うなぎを食べに行くことなど色々あるでしょう。

聖書の中で言われている贅沢とは、主を忘れる、神を忘れる贅沢と言えます。
神を忘れるという贅沢にイスラエルの民が陥ったとき、イスラエルの民はどうなっていったか、聖書は繰り返し語っています。
だから今日のタイトルにあるように、「忘れることのないように」が繰り返されるのです。

8章には、神がしてくださったことを「思い起こしないさ」と「忘れてはならない」が繰り返しでてきます。
信仰が真に生き生きするためには、過去を思い起こすこと、忘れないということがとても大切なことです。

今も私達が捧げている礼拝自体が過去に向かうことです。礼拝で、神であるイエスキリストの方を向く。イエス様は2000年も前に生きられた方です。また今日のみ言葉はそれよりさらに1000年も前に語られたことです。

申命記はモーセの告別説教です。34章からなっている(34章はモーセの死を描いている)長い説教です。なぜ長いのか、それはそうする必要があったらです。
120歳に近かったモーセ。カナンの地に入っていく人々の中には同世代の人は既にいなくなっていました。一番若い人が、カレブとヨシュアでした。

そこにいた人々とモーセの違いは、モーセだけが目の前にあるヨルダン川を渡ることはできないと神から言われていたということです。
その他の人々はモーセの孫、ひ孫のような世代、彼らは、これから入る地への期待に胸を膨らませていたでしょう。

モーセも彼らも、荒野がどんなに苛酷だったか知っていました。40年の間、危険と隣合わせ、食糧も、マナとうずらが天から降らなければ生きていけなかったのです。主を忘れるという贅沢をすることはできませんでした。

しかしこれからは乳と蜜の流れる土地に入るのです。モーセには見えていました。
今まで持っていなかった様々のものを持つようになる中で、民が神を忘れるという贅沢をし始めることを。

今の彼らの興奮は、彼らの親の時代の興奮と似ています。親たちは、奴隷であったエジプトを出るときに歓喜に包まれ、興奮して出て行きました。しかし何日も経たないうちに、葦の海に追い詰められた時、モーセに「なんで私達をエジプトから連れ出したのか」と詰め寄りました。神が海を二つにわけて、彼らが海をわたったのちも、荒野で食べ物や水がなくなると、モーセに「エジプトの方がよかった、エジプトには肉鍋があったのに」と文句をいいました。またシナイ山でモーセが神の約束を頂いて帰ってくる40日間を待てず、金の子牛の像を作ったりしたのです。

だからモーセは繰り返し語るのです。「忘れてはならない」「過去のことを覚えていなさい」と。
8:11 わたしが今日命じる戒めと法と掟を守らず、あなたの神、主を忘れることのないように、注意しなさい。
8:19 もしあなたが、あなたの神、主を忘れて他の神々に従い、それに仕えて、ひれ伏すようなことがあれば、わたしは、今日、あなたたちに証言する。あなたたちは必ず滅びる。
8:12 あなたが食べて満足し、立派な家を建てて住み、
8:13 牛や羊が殖え、銀や金が増し、財産が豊かになって、
  8:14 心おごり、あなたの神、主を忘れることのないようにしなさい。
   と、モーセは語らずにはおれなかったのです。

命が誰によって与えられているのか、私達は忘れてはいけません。与えられたものということを忘れさるときに、自分の命だけでなく、他人の命も簡単に扱ってしまいます。
いじめの問題も、命が誰によってあたえられているかの根本がわからないからです。
今や、様々な法律が通って、戦争ができる国になりつつあります。
あんなに過去の戦争で尊い命が失われたのに。脅威には脅威を、力には力をの方向になりつつあります。

また今やイスラム国という大きな脅威が現われてきている。しかも戦闘員の多くが先進国からでてきている。豊な国に育っているのに、なぜそこへ行き、人の命を奪ったりするのでしょうか。それはこの世界の未来に希望を見出せないからです。過去の大戦を経て確かに独裁者はいなくなり民主主義が一世を風靡しましたが、その民主主義国家も過去から学ぶことができなくなって、人の命が軽く薄っぺらいものになっているからではないでしようか。

8:14主はあなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出し、
8:15 炎の蛇とさそりのいる、水のない乾いた、広くて恐ろしい荒れ野を行かせ、硬い岩から水を湧き出させ、
8:16 あなたの先祖が味わったことのないマナを荒れ野で食べさせてくださった。それは、あなたを苦しめて試し、ついには幸福にするためであった。

神は試練を与えることが目的ではなく、それを通して、真に幸せとは何かを見出していくためであるといわれました。

8:17 あなたは、「自分の力と手の働きで、この富を築いた」などと考えてはならない。
8:18 むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさい。富を築く力をあなたに与えられたのは主であり、主が先祖に誓われた契約を果たして、今日のようにしてくださったのである。
8:19 もしあなたが、あなたの神、主を忘れて他の神々に従い、それに仕えて、ひれ伏すようなことがあれば、わたしは、今日、あなたたちに証言する。あなたたちは必ず滅びる。
8:20 主があなたたちの前から滅ぼされた国々と同じように、あなたたちも、あなたたちの神、主の御声に聞き従わないがゆえに、滅び去る。

人々が幸いを得るかどうかは、彼らが、知ること、過去に目を向けるかどうかだとモーセはいいます。

東北の沿岸地方には、「津波てんでんこ」という言葉があります。「地震が起こったら迷わず山へ逃げなさい。どんなに大事なものや愛する人がいようともすぐ山へ逃げ、自分の命を守れ」ということです。何度も津波の被害に遭った歴史から生まれた言葉です。それは人々が過去をしっかりと受け止めて、忘れず、命を未来につぐための教訓なのです。

私達は礼拝でメッセージを聞いてもすぐ忘れてしまいます。だからこそ、毎週礼拝で聞いていかなければなりません。
イスラエルの民族の歴史を通して、聖書は主がよくしてくださったことを忘れてはならない、思い起こしなさいと教えるのです。

神はイスラエルの民を愛してくださいました。エジプトには、鳥の頭をした神や色々な神がいました。それらの神々が天候や災害をつかさどっていると考えられたために、人々はそれを祀ったのです。そうしなければ自分たちに災いが降りかかるかもしれないと怖れたからです。入って行ったカナンの地にも様々な神がいました。モレクと言って、子供をいけにえとして奉げるように求める神もいました。イスラエルの人々も豊作を願い、自然災害という苦難をなんとかしてやり過ごすために、そのような神に容易に流れていったのです。
だから繰り返しモーセは語るのです。

8:19 もしあなたが、あなたの神、主を忘れて他の神々に従い、それに仕えて、ひれ伏すようなことがあれば、わたしは、今日、あなたたちに証言する。あなたたちは必ず滅びる。
8:20 主があなたたちの前から滅ぼされた国々と同じように、あなたたちも、あなたたちの神、主の御声に聞き従わないがゆえに、滅び去る。

種明かしをすると、モーセ5書は、イスラエルの民がバビロンで捕囚の地にあったときに編さんされていったものです。ですからこれらすべてをモーセ一人が語ったというのではありません。
ではなぜイスラエルの民は後代に申命記を残したのでしょうか。それは、モーセという偉大な人物の名を借りて、イスラエルの民が主を忘れたがゆえに、どんな悲惨な状況に陥ったかを後代の子孫たちに残さなければならないと感じたからでした。

過去を忘れないように、主を忘れないようにしましょう。
ドイツのヴァイツゼッカーという大統領も「過去を無視し、ないがしろにするものは、未来を失う」と語っています。
私達は与えられている命がどこから来て、どこへ行くのかを心にしっかりと刻み付けていかなければなりません。
今、自分が得ているものすべては神から与えられたものなんだ、それを得たのは自分の力かもしれませんが、それを得るための力も神から与えられたものだということをしっかりと心に留めていきましょう。

お祈りしましょう。
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2014年
10月12日
   「私は何者であるのか」
   
       出エジプト記3章7節~12節     

『聖書箇所』

3:7 主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。

3:8 それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。

3:9 見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。

3:10 今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」

3:11 モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」

3:12 神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」
メッセージの勘所
自分がかつて逃げ出した国へ、初めて人を殺した国へ、現人神が統べる世界最強の国へ帰るように、主なる神はモーセに求められました。モーセは言います。『私は何者でしょう。無に等しいものです。そのようなことができようはずがありません。』彼は齢80になりますが、いまだ自分が何者かをつかめずにいるのです。聖書を読む、それは絶えず『あなたは自分を何者と思っているのか』という問いかけを受けることです。今日、その答えを見つけて帰って下さい。
メッセージの要約
私とは何者かという問いは聖書の中にもいくつか出てきます。

皆さんも色々な経験を通して、この問いを自らに問いかけ、ある程度の答えを見つけておられることと思います。
私とはいったい何者か、その答えをどこから聞くかが大事な時代になりました。

そのことを痛感させられたのは、北大の学生がイスラム国への参加を計画していたこと、しかも人を殺すためというよりも、自分が死ぬために行こうとしたというニュースでした。
今までもバスジャック事件、駅のホームでの無差別殺傷事件、秋葉原の事件、池田小事件などあったことも思い出されます。

私たちは今大きな曲がり角に立たされていると言えるでしょう。どちらへ進むかによっては、破壊的な方向へ行く可能性だってあるのです。

聖書の世界では、「未来」はヘブル語でアハリートと言い、「背後、後ろ」という意味であり、未来は私たちの前にではなく、未来はその人の背後にあるという捉え方をします。私たちの現在は、過去から繋がっており、過去の結果の上にあり存在しているのです。そしてそれが未来へと続いていくものです。だから聖書では、未来を考えるとき、過去の歴史を振り返ることを強調するのです。かつてドイツの大統領だったヴァイツゼッカーが「過去を無視し、過去から学ぼうとしないものに未来はない」といったのは聖書の伝統から出た言葉なのです。

最近隣地の取得のことで、教会のこれまでについて考えました。シオンの丘教会がバプテスト連盟に加入したのが、1983年、それから31年が経ちました。過去の働きがあって今があります。そしてこれから先20年~50年と、私はシオンの丘教会がこの地に立ち続けることを願っています。私たちの子孫がみ言葉に立ち、聖書の真理に従って歩み、またそれを次の世代に引き渡していってもらいたいものです。

さて、過去に既定されている現在と、未来を考えるためにも、まず「私とは何者なのか」を問いたいと思います。

クリスチャンになり、神の子となり、わたしの民(出エジプト3:7)と呼ばれる存在となった私たち。

3:7には「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。」とあるように、この神の民は苦しみや痛みを身に帯びているものとしてあることがわかります。
ですから、神の民になった私たちにも苦しみや痛みが遺伝子として残されていると思います。
だから、同じような苦しみの中にある人を見ると血が騒ぐのではないでしょうか。自分には何ができるかと。

イスラエルの民は、エジプトにおいて痛みや苦しみを体験しました。神はそれを忘れないようにイスラエルの民に求められました。しかし彼らはそれから目をそむけ、この世のもたらす繁栄と安寧に目を向ける過ちを何度も繰り返しました。

私たちはイスラエルの民がエジプトで受けた悲しみや苦しみを引き継いでいるものです。神はイスラエルの民に自分たちが受けた悲しみや苦しみを忘れず、周りの同じように苦しみ痛む人々と連帯していくことを求められたのです。

神の民には一つの特権が与えられています。それは痛みや苦しみについて、神に向かって叫ぶことです。神に向かって叫び訴えることはクリスチャンの特権です。日々の生活の中で言葉にならない苦しみに置かれている人もおられます。その方々は神に向かって叫べばいいのです。叫べない人に神は詩編を用いることを教えておられます。詩編には沢山の神への叫びや訴え、嘆願が記されています。「あなたは目が見えないんですか、耳がきこえないんですか、私に答えてください」と。
本当は叫ぶ前から神は私のことを知っていてくださっているのですが・・・。

8節には、苦しみを放置されない、天から降ってこられた神(出エジプト3:8)を見ることができます。
3:8 「それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。」

出エジプト3章7節から見てみましょう。
神はモーセをエジプトのファラオのもとへ遣わされました。
モーセにとってのエジプトとは、どんなところだったでしょう。
モーセは40歳のときにエジプトを出ました。それ以来、エジプトへの郷愁と共に、自分は何者かを問い続けたことでしょう。本当はユダヤ人だけれど、ファラオの娘の養子として育った彼。同胞をいじめるエジプト人を殺して、国を追われ、エジプトを出て他国で40年間、羊飼いとして日々の生活に追われ、肉体労働をしてきました。今や齢80歳。なぜこの歳で用いられようとするのかわからなかったと思います。

11節で「私は何者なのでしょう。どうして私がイスラエルをエジプトから導きださないと行けないのですか?」と問うています。80歳になっても、まだ自分が何者かの答えが見つかっていなかったモーセ。

それに対しての神の答えは「私は必ずあなたと共にいる」でした。この意味は、陰のようにいつも物静かに付き添っているような静的なイメージではなく、苦しむ人々に耳を傾け、その人々に連帯して歩んでいこうというとするときに共におられる働かれる動的な神のイメージです。

何のために、エジプトから連れ出すのか。それは神を礼拝するため(3:12)でした。
私は何者か、それに対する答え。それは礼拝する者、礼拝者、どんなことも礼拝を持って始め、礼拝を持って終わる者ということです。

なぜ礼拝するのか。
エジプトでは奴隷ではあったものの、衣食住は保障されていました。だから出エジプトとは、欠乏と誘惑の多い荒野に出ていくことでした。そこで自分が真に頼るべきものは何かを彼らは味わい知ったのです。

礼拝の中でこそ、自分とは何者かを知らされていきます。そうでないとすぐ私たちは間違った方向へすぐ行ってしまいます。

今、世界中で色んな苦しみがあったときに、自分だけでなく、自分の周りも道連れにしていこうとする人が出てきています。
もし神が共におられ、行動する神がおられることを知っていたら、私たちの思いも行動も変わっていくと思います。

ボンヘッファーの詩が残されています。この方は、ナチスドイツの時代に終戦の一週間前に処刑された牧師です。

<私はいったい何者か>
「私はいったい何者か、悠然として晴れやかに、しっかりした足取りで、領主が自分の館から出てくるように、独房から私が出てくると人は言うのだ。
私はいったい何者か、自由に親しげに、はっきりと、命令をしているのが私の方であるように、看守と私が話をしていると人は言うのだ。
私はいったい何ものか、平然と微笑みを浮かべて、勝利にいつも慣れているように、不幸の日々を私は堪えていると人は言うのだ。
私は本当に人が言うような者であろうか。それともただ、私自身が知っている者に過ぎないのか。籠の中の鳥のように落ち着きを失い、憧れて病み、喉を締められた時のように、息をしようと身をもがき、色彩や、花や鳥の声に飢え、優しい言葉、人間的な親しさに恋い焦がれ、恣意やささいな侮辱にも怒りに身を震わせ、大事件への期待に追い回され、はるか彼方の友を思い煩っては気落ちし、祈り、考え、活動することに茫然とし、創造する余力もはやなく、あらゆる物に別れを告げる用意をする。
私はいったい何者なのか、前者であろうか、後者であろうか。今日はある人間で、明日はまた別の人間であろうか。どちらも同時に私なのであろうか。人の前では偽善者で、自分自身の前では軽蔑せずにはおられない、泣き言を言う弱虫であろうか。あるいは、なお私の中にあるものは、既に勝敗の決した戦いから算を乱して退却する志気沮喪した軍隊と同じなのか。
私はいったい何者なのか、この孤独な問いが私を嘲笑う。
私は何者であるにせよ、ああ、神よ、あたなは私を知りたもう。神よ、私はあなたの物です。」

いつ処刑されるかわからない中で、自分がやってきたことを振り返りながら、このように問うたボンヘッファー。
私は何者か、私たちはそれをどこから聞こうとしているでしょうか。

この世界は、勉強しなさい、役にたちなさい、愛される者であることを証明しなさいと言ってくる。そうでないと存在する意義がないと言ってきます。

しかし、聖書は、あなたは、神が共にいる者だ、あなた1は苦しみや悲しみを全部知られている者だ、あなたは神がそれを知って共に行動され、愛されている者だと言っています。

連盟加盟31年、これからも歩みは進めていかなければなりません。
その中で痛むことも傷つくこともあると思う。しかしその痛みを持って、私達の周りで苦しんでおられる方々の痛みに気付くことに目を向けて行きましょう。
何もできないことに身もだえしながらも、忍耐強く歩んでいきましょう。
神がそういう方であられたから、私達もそういう者でありたいと思います。

お祈りしましょう。
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2014年
9月28日
   「深き淵より」
   
       詩編130編1~8節     

『聖書箇所』
130:1 【都に上る歌。】深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。

130:2 主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。

130:3 主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら/主よ、誰が耐ええましょう。

130:4 しかし、赦しはあなたのもとにあり/人はあなたを畏れ敬うのです。

130:5 わたしは主に望みをおき/わたしの魂は望みをおき/御言葉を待ち望みます。

130:6 わたしの魂は主を待ち望みます/見張りが朝を待つにもまして/見張りが朝を待つにもまして。

130:7 イスラエルよ、主を待ち望め。慈しみは主のもとに/豊かな贖いも主のもとに。

130:8 主は、イスラエルを/すべての罪から贖ってくださる。

メッセージの勘所
これまで4回にわたってコヘレトの言葉から学んできました。コヘレト(知者)は透徹した目で現実を見、この世界の闇とその奥深さを、私たちに見せてくれます。しかし、どんなに悲観的で絶望的なことを書いたとしても、彼は決して無神論者でも、神を否定する者でもありません。それどころか、熱心な信仰者であるのです。ゆえに、私は彼もこの詩編のように、神に叫んでいたに違いないと信じます。
メッセージの要約
 皆さんも常日頃詩編を口ずさんでおられることと思います。
私も心さだまらないとき、暗唱しているこの詩編130編を口ずさみます。

1節~2節「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。」
ここには自分自身の叫びを神が聞いてくださるという確信、信仰があるように思います。
「淵」は川や水がよどんでいる所、どうもがいても抜け出せないような境遇や状態を指します。
この詩編を読む人が自らの深い淵の体験を重ねて読むのです。

私は結婚される若いカップルには、人生には苦難や試練が常設整備されているものだと言っています。
人生には、喜びや幸いだけでなく、苦難からは立ち上がれないのではないか、なぜ自分がこうなったらわからないというような淵を経験することがあるのです。しかもそれに納得するような答えを見つけるのは難しいのが現実です。

先週美玲ちゃん事件がありました、なぜ殺されたのがあの子だったのか、すぐ答えはだせないし、出してはいけないのかもしれません。深い淵は巨大で計り知れないのです。
そんな時にできることは一つです。その淵から、憐みの主に叫ぶのです。答えがなくとも、叫んでいる人は自分が一人ではないことを知っていますし、一人でないからこそ先へ進む力を受けることができるのです。

ですから、神に叫ぶ、そのこと自体がかけがいのない信仰の答えといえます。
私もしばしば神に叫んでいます。
地上には多くの人がいます。その方々が叫びを聞いてくださる方がおられることに気づき、主に叫ぶ人が増えていくように祈っていかなければと思います。叫んで聞いて下さる方がいることをお伝えしないといけないと思います。

3節「主よ、あなたがたが罪をすべて心に留められるなら、主よ誰が耐ええましょう。」とあります。
叫んでいる人は自分の罪に怯えているのです。それは深い溝が神との間に生まれるからです。
私たちはイエスによって罪赦されたから、自由だというけれど、イエスに出会った人々は自分の罪により先鋭になります。
そして、その罪の解決は自分の中にはありません。赦しを下さる神に叫び訴えるしかないのです。
ですから、4節「しかし赦しはあなたのもとにあり、人はあなたを畏れ敬うのです。」そう繰り返し口ずさむのです。

どうしたら逃げずに罪と向き合えるでしようか?神から赦しを受けることが一つの道です。
そしてもう一つ、周りの人から最大限の敬意を持って遇されるときに、私たちは自分の罪に向かい合うことができます。

尻枝正行さんというバチカンで唯一の日本人神父がおられました。
その方は鹿児島でお生まれになり、太平洋戦争の中、空襲で家を焼かれ、命からがら都城市へ移り、ボロボロの家に住むこととなりました。あちこち傷んでいて不便な家を建て直したかったけれど、お金、物資もない状況でした。14歳のある日、近くにアメリカの援助でカトリックの教会が立ち始めた。夜そこへ忍び込んで、リュックに真新しいピカピカの釘を詰め込んでいたとき、青い目の神父さまに見つかってします。その瞬間、刑務所に入れられて、面会に来た両親が悲しそうに自分を見つめている光景が浮かんだそうです。しかし、神父さまは、茫然としてすくみ上っている尻枝さんの目の前で、彼のリュックに釘をつめてくれて、彼を送りだす間際にこういったそうです「足りなくなったらまたいらっしゃい」と。彼はその晩は一睡もせずその時のことを思いめぐらしたそうです。次の朝、彼はお母さんにその夜の出来事を話し、自分がいかに悪い人間であり、しかしその私を何も責めず許してくれたその神父さんの中にあるものを知りたいと、教会に通う許可を求めたといいます。彼は人間として最低のところにいた自分を、罵り、嘲るのでなく、彼の心の悲しみ恐れを全部知って、その上一緒に歩いてくれる人に出会ったのです。

そのように深い淵の底から神に出会い、神の赦しを感じた人こそが、罪に苦しむ人と共に歩むことができます。
私たちは深い淵で神に叫ぶことと共に、同じように深い淵にある人と共にいてあげることが求められています。

深い淵にある人々の声を私たちはもっと聴きとることができるように主に変えていただかなければなりません。そのためには神の前に自分の罪に敏感になって、罪の許しを受けにでていくことが必要です。主だけがそれを与えることができるのですから。

私たちが待ち望むのは主です。「主を待ち望むこと」です。私たちは主を待ち望んでいるでしょうか?
5節「わたしは主に望みをおき、わたしの魂は望みをおき、御言葉を待ち望みます。私の魂は主を待ち望みます。」

7節のイスラエルとは、神に希望をおき、神への信仰を持って生きる人です。
7節「イスラエルよ、主を待ち望め。慈しみは主のもとに。豊かな贖いも主のもとに。主はイスラエルをすべての罪から贖ってくださる。」
この私の罪をすでに十字架において贖い、私たちに赦しを与える中で、私たちが自分の罪にさらに深く気づくようにさせてくださる憐れみと恵みの主にお祈りしましょう。
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2014年
9月7日
   「友こそ人生」
   
       コヘレトの言葉4章9節~12節     

『聖書箇所』
4:9 ひとりよりもふたりが良い。共に労苦すれば、その報いは良い。

4:10 倒れれば、ひとりがその友を助け起こす。倒れても起こしてくれる友のない人は不幸だ。

4:11 更に、ふたりで寝れば暖かいが/ひとりでどうして暖まれようか。

4:12 ひとりが攻められれば、ふたりでこれに対する。三つよりの糸は切れにくい。

メッセージの勘所
この世界のありようをそのままに私たちに示してくれるこの書は、それでも、いやそれだからこそ神を信じることが意味を持つといいます。エジプトにあるスフィンクスは訪れる旅人に問を出したそうです。最初は四本足、次に二本足、最後に三本足で歩くものは何かと。答えは人間ですが、三本足とは年を取ると杖が必要になる人間の姿です。でもその杖は、木やプラスティックとはかぎりません。家族や兄弟姉妹、そして何よりイエスさまが私たちの杖となってくださるなら、私たちに怖れるものはありません。」
メッセージの要約
コヘレトの言葉はこれが聖書かな?と思うほど明るい感じがせず、人生を否定的にみているように感じる書物です。
この書の基調としては、人が自分の力や能力や働きによって得るものに対して否定的であります。

2章1節からを見てみましょう。

2:1 わたしはこうつぶやいた。「快楽を追ってみよう、愉悦に浸ってみよう。」見よ、それすらも空しかった。
2:2 笑いに対しては、狂気だと言い/快楽に対しては、何になろうと言った。
2:3 わたしの心は何事も知恵に聞こうとする。しかしなお、この天の下に生きる短い一生の間、何をすれば人の子らは幸福になるのかを見極めるまで、酒で肉体を刺激し、愚行に身を任せてみようと心に定めた。
2:4 大規模にことを起こし/多くの屋敷を構え、畑にぶどうを植えさせた。
2:5 庭園や果樹園を数々造らせ/さまざまの果樹を植えさせた。
2:6 池を幾つも掘らせ、木の茂る林に水を引かせた。
2:7 買い入れた男女の奴隷に加えて/わたしの家で生まれる奴隷もあり/かつてエルサレムに住んだ者のだれよりも多く/牛や羊と共に財産として所有した。
2:8 金銀を蓄え/国々の王侯が秘蔵する宝を手に入れた。男女の歌い手をそろえ/人の子らの喜びとする多くの側女を置いた
2:9 かつてエルサレムに住んだ者のだれにもまさって/わたしは大いなるものとなり、栄えたが/なお、知恵はわたしのもとにとどまっていた。
2:10 目に望ましく映るものは何ひとつ拒まず手に入れ/どのような快楽をも余さず試みた。どのような労苦をもわたしの心は楽しんだ。それが、労苦からわたしが得た分であった。
2:11 しかし、わたしは顧みた/この手の業、労苦の結果のひとつひとつを。見よ、どれも空しく/風を追うようなことであった。太陽の下に、益となるものは何もない。
次に2章18節から見てみましょう。
2:18 太陽の下でしたこの労苦の結果を、わたしはすべていとう。後を継ぐ者に残すだけなのだから。
2:19 その者が賢者であるか愚者であるか、誰が知ろう。いずれにせよ、太陽の下でわたしが知力を尽くし、労苦した結果を支配するのは彼なのだ。これまた、空しい。
2:20 太陽の下、労苦してきたことのすべてに、わたしの心は絶望していった。
2:21 知恵と知識と才能を尽くして労苦した結果を、まったく労苦しなかった者に遺産として与えなければならないのか。これまた空しく大いに不幸なことだ。
2:22 まことに、人間が太陽の下で心の苦しみに耐え、労苦してみても何になろう。
2:23 一生、人の務めは痛みと悩み。夜も心は休まらない。これまた、実に空しいことだ。

読んでいて生きているのが嫌になりそうですね。
人は労働によって人生の究極的な意義を見出すことはできないといっている感じがします。

今の競争至上主義社会、業績絶対主義に疑問を突き付けているといってもいいかもしれません。
最近の政治にたずさわる人々の中には、「これからの公教育においては、できる者を伸ばしていこう、必要なのはエリートだ、普通の人はその人の邪魔をしなければいい」という意味のことを公然と口にしています。普通の人々の中にも自己責任が社会の絶対的ルールのように認識され始めているのではないかと恐ろしくなります。

しかし、教会もまた成果主義や業績主義から完全に自由であると言うわけにはいかなかったのです。献金が増え、人数が増えるとそこは神に祝福されていると言われるようなことがありましたし、今もそのような声を聴きます。

私たちも信仰を持って生きていこうとするとき、いつも成果を気にする。自分がどれくらいできるかとか、あの人よりどれくらい持っているかとかが気になるのではないでしょうか。

この聖句はただ単に労苦や、働きによって得るものが虚しい、何をしたって一緒!と言っているわけではなく、それどころか、この書を編さんした人は、人の業の持つ意義を否定しているわけではなく、特に共同の労作については大いなる意義を見出しているのです。

4章9節。
4:9 ひとりよりもふたりが良い。共に労苦すれば、その報いは良い。
4:10 倒れれば、ひとりがその友を助け起こす。倒れても起こしてくれる友のない人は不幸だ。
4:11 更に、ふたりで寝れば暖かいが/ひとりでどうして暖まれようか。
4:12 ひとりが攻められれば、ふたりでこれに対する。三つよりの糸は切れにくい。

人生において1+0は1ではない、むしろ1を下回るのです。人が一人ぼっちで助け手や慰め手がいない時を想像してみてください。時にはそれが生きる希望を失わせ、時には死を意味することさえあるのです。近年孤独死ということがよく言われますが、孤独死の問題はけっして阪神や東北といった、自然災害のあった現場でだけ起こっているのではないのです。今私たちの生きているこの地域にだって起こってきている。

私は自分でもそう思うのですが、この国もそしてこの国に生きる我々も友達を見出すのが下手だなあと思います。

あるカトリックの神父が、ロシアのジャーナリストの新聞社のインタビューを引用していました。『日本は極めて孤独な国だ。もう一つの敗戦国のドイツはヨーロッパという家族を離れて暴れまわったが、戦争に負けた後は家族に戻った。しかし、日本には家族のような国がない。本当の意味での友達もない。これは日本の運命だ。私は日本の国際的な地位の向上を望んでいるが、当面は今までどおりの米国依存と低姿勢外交を続け、孤独の中に一定の幸せを見つけていくしかない。』

私は琉球と本土との歴史を見るとこの人の言っていることが確かに当てはまると思います。沖縄と日本の関係は薩摩と琉球の時もそうでしたが、ある時から主従の関係になり下がってしまいました。もし沖縄を大切な友人だと思っていたら沖縄にあんなに基地が置かれるようなことにはならなかったと思うのです。

竹島でも尖閣諸島の問題でも、親身に日本の見方をしてくれる国は今のところ見当たりません。
私たちは知らないものと友達になるのがとても苦手です。というより避けてさえいます。
最近日本でヘイトスピーチが問題になっていますが、国連の人権委員会から日本の状況を改善するように勧告までだされました。自分の心にある怒りや憎しみをそのまま対象に向けて一体何になるというのでしょうか。東京の新大久保や、大阪の鶴橋でも行われました。そこに住んでいる在日の朝鮮や、韓国の人に対して「朝鮮人を殺せ。」「新大久保のごきぶりの皆さんこんにちは。こちらは全日本社会の害虫を駆除しよう清掃委員会のデモ隊です。」「在日韓国人をテポドンにくくりつけ韓国に打ち込みましょう。」こんなことが平気で大声で叫ばれているのです。ここには相手を理解しようという気など全く見えません。

仮に排除したとしてそこには何が生まれるのでしょうか。ただ一人ぽっちになるだけ。1+0=1以下です。

では1+1はどうでしょう。1+1=2ではなく、時には3にも、4にもなるのです。それは私たちにとって、慰めだけでなく、勇気や、希望の源泉になっていくのです。

確かに人の人生ははかなく、短く、自分の脆さに涙をし、弱さを嘆き、限界に対して怒りを持つことも度々ですが、けれど、そんな私たちが寄り添って、連なり合って共に労苦するときに、大きな報いがあるのではないでしょうか?

広島の土砂災害の現場に東北から多くの人がボランティアに行っておられます。自分たちが助けられたから、今度は自分たちが助けたいと。東日本大震災の際にも中国や諸外国から、かつて災害の時に日本に助けられた人たちが距離をもろともせずにやってきてくださったではありませんか。私たちを友だと思ってくださるからそのような行動が生まれるのでしょう。ですから、友がいる、一人ではないということは、真の幸いであり、幸福を見出すことに絶対に欠くことができないものなのです。

私たちの主イエスさまは弟子たちに何とおっしゃったでしょうか。
ヨハネによる福音書15章
15:13 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
15:14 わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
15:15 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」

クリスチャンは自分自身を主の弟子であるというが、主ご自身は私たちを友と呼んでくださる。
友とは、全く同等の間柄で使う言葉。神であるお方が私たちをそのように呼んでくださる。
イエス様は時に裏切り、時に自分自身が許せず罪を犯す私たちを、彼に聞き、彼の命じることを行うならば私の友と呼ぶと言われる。

ということはイエスさまが私たちを必要としておられるということ。何でもご自分でできる神さまが私たちを必要とされているとはと不思議な感じがされるかもしれませんが。
なんでも自分でできて、自分だけで満足しておられるだけだとしたら、世界を造り、人間を造る必要などなかったのです。自己完結し、喜びも自分で造りだせるとしたら、私たちを創造される必要もなく、私たちのために命を献げる必要もなかったはずです。
だけどイエスさまは私たちと共に生きることを喜びとされたのです。私たちと一緒に生きていきたいと望まれているのです。

このイエスさまの姿勢はたとえ話にも表れています。
マタイによる福音書20章にある、「ぶどう園の労働者のたとえ」を見ると、
早くから雇われた人も夕方雇われた人にも同じように賃金を支払われました。早くから働いたのに、同じ賃金だったので不平を行った労働者にイエスは言われます。
「友よ、あなたに不当なことをしていない。あなたはわたしとⅠデナリオンの約束をしたではないか。
わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」

主人と労働者という関係からすれば、主人には不平に耳を貸す必要はまつたくなかつたのです。しかし、自分に不平をいう労働者に対して(私の)「友よ」と呼びかけられるのです。

またルカ16章には「不正な管理人のたとえ」と呼ばれるものがあります。ここは解釈が分かれる箇所ではありますが、「不正にまみれた富で友達を作りなさい」とまで言われているのです。
友がいなければ私たちの人生は完結もしなければ、喜びに満ち溢れたものにもならないということです。

エジプトにあるスフィンクスが訪れる旅人に出した問「最初は4本足、次に2本足、最後に三本足で歩くものは何か」。答えは人間ですが、赤ちゃんから、最後は杖に頼る老人になることを言っているのです。自分一人で自分の人生を完結できる者はいないのです。しかし、足元がおぼつかなくなった時も杖があれば、私たちは生きていけるのです。その杖こそ、私はイエスさまだと思います。イエスさまは私たちの友となると言ってくださる。そして、私たちに自分の友となってほしいとイエスさまも願っておられるのです。またイエスさまは誰の内におられるか。私の内にもおられるように皆さんの内にもおられる。私が皆さんを頼りにすることはイエスさまを頼りにすることと同じ。だから兄弟姉妹であり、友であり、そうやって生きていかなくてはならないと思うのです。

私たちは皆限界を持ち、涙することが多いもの、しかし私たちの隣にはイエスが共におられます。
イエスさまが友として傍らにいてくださる幸いを感謝し、また罪多き私たちがイエスさまの友となれる不思議を思いつつ、そのような人生を主から頂いていることを感謝して歩んでまいりましょう。


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2014年
8月10日
メッセージ代行
宮崎 嘉信    「わたしが来たのは、罪人を招くためである」
   
       マタイによる福音書9章10~13節(新共同訳聖書P15)     

『聖書箇所』
9:10 イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。

9:11 ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。

9:12 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。

9:13 『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

メッセージの勘所
イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
メッセージの要約
おはようございます。
この激動の天候の中、台風が来ているのに皆教会に来られるのかなとか、嫁さんと話していますと、「パパがメッセージするんだから、人が少なくて丁度いいやん」と全くごもっともな返答が帰ってきました。

前回、私がメッセージの代行をさせて頂いたのは、2012年5月でした。初めて日曜礼拝の講壇に立ったのが20代後半のまだ独身の時でした。(松下牧師時代)それから6・7回位でしょうか、数年に一度このような日が回ってきております。その時は、聖書や解説等を読んだりするので恵まれると思う反面、実際やりだすと、やはりストレスの方が勝ります。まあ私がメッセージを語るみたいな大それたことは出来ません。前回と同じように受け売りの聖書勉強を交えていきたいと思います。

さて、今日の箇所ですが、「わたしが来たのは罪人を招くためである」という有名な箇所ですが、この言葉にどのような意味合いが含まれているのでしょうか?イエス様ご自身の使命が語られていると思いますが、キリスト教でおける罪とはどのような事を指すのかベテランの方はおさらいとして、教会に来始めた方はそういう事なのかなと思って頂ければ幸いです。

罪の始まりに行くのが一番ですから、聖書のはじめ創世記にさかのぼります。
創世記1章の天地創造から始まり、2章~11章までは人間の罪の話になっています。

<旧約聖書2ページ創世記2章8~9節>
主なる神は、東の方にエデンの園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。
<旧約聖書3ページ創世記2章16~17節>
主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」

そのあと、女性が造られます。
25節に「人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。」と続きます。

ひとつ解説致しますと、善悪の木とはなんじゃらほいと思いません?このあと、3章では結局食べてしまうのですが、私なんかは善悪を知れるようになるのなら何が悪いことなのかなとずっと思っていました。
これは、善と悪ですから両極端を指しています。たとえば、「北は北海道、南は九州・沖縄、ずず・ずいとー」と言えば日本全国を指します。それと同じで「善と悪」という知識の両極端を表しているとすれば、すなわち「全知・すべての知恵」となり、「神のようにすべてを知るもの」という事になると捉えることができるのではないかということです。

でも思いません?すべての木からとって食べてイイヨーと言われているのに、これだけはアカンよー、と言うのは矛盾しているように感じておりましたが、こんな解釈があるそうです。園の木を自由気ままに取って食べて良いという、大きな恵みが与えられているだけど、それだけでは、恵みのありがたさが薄れたり、忘れたりすることがないよう、この大きな恵みが理解できるように、たった一つの木だけ食べてはいけないとしたのだとの理由です。

でもそんなことをされたら食べますわねきっと。で、3章に続きます。
<1~7節を読む>
ここで6節に「賢くなるように唆していた」とありますが、2章では「見るからに好ましく」とあったのですが、原文では同じ言葉が使われているそうです。神様のようになりたいと思い始めてから訳が変わってきています。
結局、蛇に巧みに唆されて食べてしまいました。その後、「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちぢくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした」とあります。ここでの二人の目は開けとありますが、何の目なのでしょう?自分が裸であることを知った目ということです。それで、いちじくの葉で服を作ったのですから、裸ということは恥ずかしいことなのだと考えるようになった。「裸」=「恥」と捉えるようになった、人間には実はいろいろと不足な部分、欠け・欠点・限界があることを表す象徴として裸ということが書かれているのだそうです。で、結局アダムとエバさんはエデンの園から追放されてしまいますが、理由の一つとして「命の木」まで触れてはいけないからとあります。知識(全知全能)にしても、あるいは命にしましても、自分が作り出すものではなくて、神によって与えられるものなのだ。という考え方です。本来、受け取るべきものなのに自ら手に入れようとする時に破綻が起こる。目が開かられて、裸であることに気づかされる。
創世記のここでは、人は、もともと欠けているのだ、不完全なのだ、その欠けているところを神にすがることではなくて、何とか自分の力で獲得しようとする傾向は実は、歪んでいるんですよ、それを罪と考えている。不完全なものが完全になろうとして失敗した話となります。

それでは、今日の箇所は新約聖書側ですから、イエス様の時代に跳んで、自分に頼ろうととすることの誤りの箇所を見てみましょう。
<ルカによる福音書18章9~14節 新約聖書144ページ>を読むと、
イエス様が語った喩え話ですが、ちなみにファリサイ派の人とは、当時の神からの掟を厳格に守る事で神様の正義を追及する方がたなのですが、追及するあまり、形にばかりこだわり自己満足してしまう傾向があります。徴税人とは、当時ローマに支配されていたのでローマに税金を支払っていたのですが、支払う税金を集める同胞のユダヤ人で、定められた額よりも多く徴収して、その差額をポッポナイナイして私服を肥やしていたので、嫌われて、罪人の代表と思われていました。そのことを思いながら読むと少し解りやすいかもしれません。それでは9節に「自分は正しい人だと自惚れて他人を見下している人々に対しても、イエスは次の喩えを話された」とありますが、自惚れてと訳されている言葉は「信頼するとか頼る」との意味があり、すなわち「自分自身に頼る」ということです。ファリサイ派の人は、奪い取るもの・不正な者・姦通を犯す者ではないように清く・正しく生きて、しかも、念のために掟に定められている通りに週に2回の断食し、全収入の十分の一を献げていますとありますから、相当の努力家なんでしょうね。一生懸命正しく生きようと考えたんだろう思われます。次に徴税人さんは、「神様、罪人の私を憐れんでください」とあります。徴税人は自分が罪人であることを認めていて、欠けがあることを認めていて、それを自分の努力によって埋め合わせるものではなく、神の憐みによって埋めて頂くための欠け・神様の憐みに出会うための欠けだととらえていることです。
そのように捉える人が、神様の前に正しい人なんだと述べていると思います。
イエス様にとっては、罪とは掟に反することより、もっとも恐い罪は自分自身に頼むことなんだ、自分自身に頼んで何とか努力して埋め合わせをしようとする生き方なんだと思います。ファリサイ派の人が弱い人を引き合いに出して、「あのようなものでない」「この徴税人のようなものでないことを感謝します」と言っていますが、このような言い方をするのは自分の弱さということを認めているのかも知れません。その弱さを週に2度の断食・すべてのものに十分の一を支払うという形式的な生き方によって埋めようと考えた人、それが罪人だということでしょうか。
徴税人の「私を憐れんで下さい」との言葉の中に人は、神様と関わりあうなかで人は十全なものになるのだという意味が込められているのではないでしょうか。


これらを念頭におきつつ、本日の聖書箇所のマタイによる福音書9章10~13節です。
話の中にある食事ですが、解説として、ユダヤ人の考え方では罪人と共に食事をするのは、神様との関わりがあると考えている食事が汚されるとして考えられないことだそうです。

それでは、この話のなかでイエス様が示されているポイントは三つあると言われています。
一つ目として、医者を必要とするのは病人なわけですから、イエス様は罪人を癒す医者なんだ。二番目として、罪人と共に食事をするのは、旧約聖書で神様が人に求めていた憐みの具体的な業だ。そして三番目にイエスは罪人を招くために来たとありますから、先ほどの喩え話の徴税人のように自分の罪に傷ついている人、自分ではどうすることもできないんだと思っている人に対するメッセージ言えます。「招く」とありますが、「呼ぶ」ともなり、「私の後に来なさい。私に従って来なさい」ということと同じです。
イエス様は罪人をみて、傷ついている人をみて放っておけなかったのだと。

罪の代償は死です。

イエス様が招く、呼ぶとはその先にある十字架―復活が考えられます。
イエス様の十字架によって罪は死にそしてキリストと共に命へと復活したのだ。死ぬべき命から真に生きるべき命がイエス様の復活と共に我々に与えられているのだ。と
もう一度問います。罪とは何でしょう?人の根本的な闇のようなものを指すと言ってもだからなんですか?除夜の鐘のように108の煩悩ですか?(内容はよく知りませんが)
聖書の考えている罪は、本来、人間は神様との関わりの中で充分に生きることが出来るはずなのですが、結局神にすがれない。「自力に頼る」。どうしても神様がわからない。それが罪だと言えるそうです。でも、そのことで一つ安心出来るのは、そのことを自覚し、その思いが強い程、自分の力ではどうすることも出来ない人ほどイエス様はその人を放ってはおけないことになります。だから今回、その思いはとても大切なことだと思い知らされました。

先のたとえ話でファリサイ派の人たちは、「神に感謝する」と言っても「神が何をする」は取り上げず、こんなに立派に生きることが出来ました。というのを取り上げます。まさに罪人なのでした。しかも自分の罪に気づいていない、自分の罪に気づかなければどうしようもないと言えるのではないでしょうか?
だとすれば、罪に気づくにはどうすればよいのでしょう?祈りなさいと言われても神にすがれないのだから祈れるとは思えないし、ましてや、今の自分に満足していればプライドが邪魔したりと、クリスチャンであってもなくても内容の違いがあっても永遠のテーマのようなものに思えたりします。確かに気づかされたりするのは、主の導きであり、感謝すべきことです。

ここに聖書が宣べている知恵があります。
それは、「主を畏れることは知恵のはじまり」です。畏れるとは、怖がるとちがって敬うとかかしこまる事です。人は不思議と小さい時から、目に見えないものに畏敬を持つことが結構培われています。私とて小・中学生のころ、よくご飯の炊きあがった最初のものを供えたりしました。
聖書では、この知恵は簡単に重みをもってきたわけではありません。
主の前に正しく生きていたヨブさんが全身重い皮膚病にかかって、結局、神様の方がまちがっていると言ったり、これのどこが伝道の書なのか?と思える(今はコヘレトの言葉)のなかにある、空しい、空しい、生きていることは空しいという言葉とか、神様の秩序への疑問の場面があります。それらを経て「主を畏れることは知恵のはじまり」ということが大切なんだ、これがないと始まらない。重みがあります。ここで述べられている知恵とはイコール信仰とも言えると言われます。ですから、信仰生活には、疑問があって当然です。疑問があって健全な信仰が育まれるとも言われます。私なんかも弱い弱い人間です。少し先々の不安や悩みがでるだけで、もう自分のことだけしか考えられなくなり、そうなったからとて解決する訳でなく、何も変わりません。
自身の経験上、自分ではどうしようもないときにそのことを告白することで、神様は時に応じて、一番最良の方法で応えて下さいます。ただ、人はそれらを告白するまでに時間がかかるのです。でもそういった人間の姿があって後、神を畏れることだ。に繋がっていくのではないでしょうか?でないと神を畏れることがとても薄っぺらなものになるような気がします。
はたしてこれで良いのだろうか?わからない面もある。身の回りの出来事に翻弄されて、疲れ切ったり、傷ついたり、逆にうれしいこともあったり、それらを告白し、わかちあうときに、主の導き、助けを頂けるもっとも顕著な場所は、主の体なる教会だと思います。教会に来れない方もおられます。だけど、思いの一つとしては主につながってほしいと思い、訪問されたり、祈られたりされるのではないですか?今は確かに教理についてもネット等ですぐ検索出来、便利になりました。しかし、反面無責任なものも多いのです。ここに教会があると思えるだけでも希望があり、なんと心強いことと思います。

ここで少しだけ証をさせていただきます。
私は29歳のころ入院しました。車を運転していても標識がわからなくなるくらい、目が見えなくなってきたのです。近大病院で原田病と言われました。
転職したばかりで入院したんじゃ、首かなぁと思ったりもし、一方で、この世的なものから解放されたような気もしました。これは神様から来てる病のような不思議な気もしたのです。
こんな私が入院中は、朝祈って、夜祈って、聖書も一日5章くらい読んでいました。
入院して一か月が経ったころ、窓のそとを見ていると、突然、頭の中を白い矢のようなものがバーンと横切って行ったのです。目の前が一瞬真っ白になりました。その時、心の中に言葉の泉が沸くように、自分の意思とは違うところから言葉が湧き出てきたのです。その最初の言葉は「強くあれ」でした。なぜが文語体で聖書を読んだこともないのに文語体でした。「おまえは教会のことを色々思っているが、私はこの教会のことを愛しているんだ」という言葉が沸き起こるのでした。まだ言葉は続きました。「私は日本にある一つ一つの教会を愛しているんだ。だから強くありなさい。固く立ちなさい」そして最後に言われました「乗り越えられない試練を私は与えない」。その時、窓の外から神様が今私のことを見てくださっているという圧倒的な臨在感を感じました。ああ、神様を見たい、見たい、顔上げれば今そこにおられるという存在感を感じるんだけれど、なぜか急に冷静になって、旧約聖書に‹神様を見たものは死ぬ›と書いてあったなと思って、しばらく動けなかったです。じっとしたままやがてそれは過ぎていきました。20数年たっても今だにその言葉が忘れられません。こいうことがあったからと言って、上から目線でいってるとか思わないでくださいね。やがて退院し、会社に行き始めても、不思議なもので神様の伊吹を感じたのか、会社でもこの世的なものに対しては苦々しく思えて近づけなかったです。俺こんなに清い人間だったっけ?と思いつつも、しばらくそれは続きました。今はすっかり忘れてます。人ですから。すっかり元に返ってしまっていつも通りになってますけど。
私が述べたいのは、罪というのもすべてあるのだ、神様は生きて働いておられるのだと思い知らされました。ただ聖書に羅列してある言葉だけでなく、理屈でどうのこうのでなく、主は生きて働いておられるということです。
あまり自分がこういう証をすることはないけれど、神さまは教理だけでなく、物言わぬ者ではなく、人の形作ったところにおるでなく、自分の力ではどこにも行けぬ神ではなく、
生きて働いておられるのだ、私たちのことを見続けて、最善と最良をなしてくださるのだというのが私の支えとなっている次第です。そのようことが、この教会でもどんどん業がおこるのだというのを期待して歩ませていただいているところです。
ではお祈りします。
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2014年
8月3日
「命の風にふかれて その8」
   
       マタイによる福音書22章1節~14節     

『聖書箇所』
◆「婚宴」のたとえ
22:1 イエスは、また、たとえを用いて語られた。
22:2 「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。
22:3 王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。
22:4 そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』
22:5 しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、
22:6 また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。
22:7 そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。
22:8 そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。
22:9 だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』
22:10 そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。
22:11 王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。
22:12 王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、
22:13 王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』
22:14 招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」
メッセージの勘所
イエスさまのこのたとえは、愛と許しの神には似つかわしくないと思うほどに、ある厳しさを持っています。この王さまが神さまを指しているとしたら、自分の意に従わないものを神さまは滅ぼしてしまわれるというのでしょうか。そうです。その人々は滅びるしかないのです。なぜなら神の呼びかけを無視し、命をないがしろにしたからです。神さまは『用意は整った、さあ共に生きよう!』と、まさに今この時に私たちにも呼びかけておられるのです。
メッセージの要約
今日はイエス様のたとえ話から学びます。たとえ話とは、どのような論理を用いても説明の難しい事柄を私たちの身近な出来事を通して相手に伝えることです。たとえば゛愛゛ということも説明が難しいものです。同じようになかなか言葉で説明が難しいものの一つ「神の国」についてイエスさまが語ってくださったたとえをみてみましょう。

たとえ話の中には、私たちの常識からはずれていると思えるものや、神さまに対する私たちのイメージに則わないと思えるようなものもあって、あまり触れたくないと思う話もあるのですが、この話もその中の一つです。

軍隊を送って町を滅ぼすなんて、神さまがそんなことなさるのか。また、婚礼の宴に来はしたが礼服を着ないで出席したから外に放り出されるなど、とても愛と許しの神には似つかわしくないと思われるような話です。

聖書全編に響き渡っている一つの調べがあります。それは、神と人、人と人が共に生きていく世界を如何にして実現できるのか?ということです。神の人間への呼びかけ「さあ、みんな、私とともに生きようではないか」という調べが聖書の中に繰り返し響きつづけているのです。

このたとえ話では、王が息子の婚礼の案内を前もって告げておいた人々に、準備が整ったので「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」と招いたにもかかわらず、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、 また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまうというような対応をとったというのです。そこで、王は軍隊を送って町を滅ぼしたのです。何と悲しい話でしょう。これは私たち人間が神さまの呼びかけに対して行ってきた数知れない反抗のことが指示されているのです。それが神の怒りを引き起こし、悲惨な現実を引き起こしてしまったと言っているのです。

確かに、関係の中で生きるというのは面倒なことではあります。ほかでもないこの私たちは神さまに対してどのように向かい合っているかよく考えなければならないと警告しているのでは無いでしょうか?まず注目するべきは、神は、神の方から人間に呼びかけておられるということです。そして、呼びかけられたとき、すぐ答えるように私たちのために備えまでしてくださっているのです。「詩編40:7 あなたはいけにえも、穀物の供え物も望まず/焼き尽くす供え物も/罪の代償の供え物も求めず/ただ、わたしの耳を開いてくださいました。」とあるように。神は私たちが神に聞きしたがえるように私たちの耳を開いてくださったのです。そこまでの配慮をしてくださったのです。

イエスのたとえを聞いていた人々は、このたとえ話が言っているのはパリサイ人や律法学者のことをさしていることを悟ったに違いないのです。その背景には、彼らが耳障りの悪いことばを預言した予言者たちを殺してしまったことがあるのです。しかし、私たちははたして彼らのことを笑えるでしようか。

王は婚礼に招かれたものが来ないのなら、通りから誰でもいいから呼んで招いて来させました。すると、招かれた人の中に礼服を着ないで入ってきているものがいました。その者は理由を聞かれると黙ってしまった。この人は、暗闇に放り出されてしまった。大変厳しい話です。

キリスト教は許しの宗教であると言われ、何をしても許されるのだという方がいますが、それは間違っています。なぜなら聖書は地獄についても確かに語っているからです。地獄は信じないものを脅すためにあるのではありませんし、誰が地獄へ行くかということを語ることは人間には許されていません。しかし、私たちの人生では、許されないことをやってしまう危険性は常にあるし、当然そのことの結果を引き受けなければならなくなるということを肝に銘じなければなりません。

聖書では、神と人間の関係を夫婦の関係で表現しています。しかしもし、夫が「妻はどんなことをしても許してくれる」と許すことを当然としてしまったらどうなるでしょうか。妻には夫との関係を捨てるという選びもあるということが成り立ってこそ、夫婦関係は成立するのです。私たちの人生の目的はお互いの選びに責任を持って応えていくところに存在するのではないでしょうか?

神は、何度も何度も私たちに呼びかけておられます。しかし、人間はその関係をあるときは無視し、またある時は神以外の他のものとの関係に引かれていき、あるときには神と敵対し神との関係を絶ってしまおうとしてきたのです。

今、あなたは、「さあ、わたしと共に生きよう」この神の呼びかけにどのように応えられるでしょうか?
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2014年
7月20日
「命の風にふかれて その6」
   
       コリント信徒への手紙2章1節~16節     

『聖書箇所』
◆十字架につけられたキリストを宣べ伝える
2:1 兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。
2:2 なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。
2:3 そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。
2:4 わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。
2:5 それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。
◆神の霊による啓示
2:6 しかし、わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります。それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません。
2:7 わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。
2:8 この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。
2:9 しかし、このことは、/「目が見もせず、耳が聞きもせず、/人の心に思い浮かびもしなかったことを、/神は御自分を愛する者たちに準備された」と書いてあるとおりです。
2:10 わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。
2:11 人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。
2:12 わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。
2:13 そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、“霊”に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。
2:14 自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。
2:15 霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。

メッセージの要約
この聖書の箇所は先週の月曜日に決まっていたのですが、金曜日に隣地が売却されたとの報告を受けて衝撃を受けてしまいました。霊のことは人のちからとは異なるとの現実をしっかりと教えられたのでした。

. 聖霊というのは、絵画で現わされるときに火として表現されますが、今ひとつ実態を表現し理解することが難しいものです。ヨハネによる福音書16章(下記)
◆聖霊の働き
16:4 「初めからこれらのことを言わなかったのは、わたしがあなたがたと一緒にいたからである。
16:5 今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしているが、あなたがたはだれも、『どこへ行くのか』と尋ねない。
16:6 むしろ、わたしがこれらのことを話したので、あなたがたの心は悲しみで満たされている。
16:7 しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。
16:8 その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。
16:9 罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、
16:10 義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、
16:11 また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。
16:12 言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。
16:13 しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。
16:14 その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。16:15 父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」

神様を知ることは聖霊の働きなのです。Ⅰコリント2:10で、聖霊は神の深みさえも極めると記載されているのは神が私たち人間を救ってくださると言うことを言っているのです。

人間は救われるべき存在なのでしょうか?多くの人にとっての点がなかなか理解出来ないことでしょう。かつての私もそうでした。しかし、そのことを聖霊は明らかに示してくださるのです。これが聖霊の働きなのです。神のことは神の聖霊によるしかないのです。

ユダヤ教徒であるパウロはキリスト教徒を迫害していました。聖書のことばに忠実に生きることが神に従うことであると信じていました。とうてい十字架にかけられたイエスをメシアであるとは思えず、キリストを言い広めるキリスト教徒を憎んでいたのです。ダマスコでの迫害にパウロが出向いたときに彼はイエスに出会いました。その出会いによって神を信じて生きることは聖書のことばを実行することではなく、神の恵みにいきることであることを理解したのです。神の恵みとは、人間の目には無力でありしかも神に呪われているとしか見えない十字架にかけられたイエス・キリストが私たちを救ってくださるということなのです。これは聖霊の働きでした。

三本の十字架を思い起こしてください。三本の十字架はどれも同じ十字架でした。しかし、神の聖霊によって十字架を見る人にとっては、イエスの十字架はまるで違う愛の十字架に見えるのです。十字架につけられたイエスは呪われたものであります。しかし、聖霊はこの呪われたイエスをすべての人間の罪を許すメシアに変貌させるのです。

人間は自分のことをたいしたものだとどこかで思っているものです。自分には自分を救う力がないことを認めることが出来ないのです。古い自分が自分の力で何とかしようとするのです。しかし、聖霊は、神の力はあの十字架にかけられ、指一本動かすことのできないみじめなイエスの中に示されたと言うのです。

そしてこのことを信じるものにとっては、十字架のことばは滅びるものにとっては愚かな言葉でしかないが、命を得るものに取っては恵みのちからであると言うことです。

十字架の恵みを信じることが出来れば、すべてのことは益となるのです。隣地が売れたということは大変残念なことでしたが、それですべてが終わったわけではなくすべてを益としてくださる神に期待していきたいと思います。

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2014年
7月27日
「命の風にふかれて その7」
   
       使徒言行録18章1節~11節     

『聖書箇所』
18:1 その後、パウロはアテネを去ってコリントへ行った。

18:2 ここで、ポントス州出身のアキラというユダヤ人とその妻プリスキラに出会った。クラウディウス帝が全ユダヤ人をローマから退去させるようにと命令したので、最近イタリアから来たのである。パウロはこの二人を訪ね、

18:3 職業が同じであったので、彼らの家に住み込んで、一緒に仕事をした。その職業はテント造りであった。

18:4 パウロは安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人やギリシア人の説得に努めていた。

18:5 シラスとテモテがマケドニア州からやって来ると、パウロは御言葉を語ることに専念し、ユダヤ人に対してメシアはイエスであると力強く証しした。

18:6 しかし、彼らが反抗し、口汚くののしったので、パウロは服の塵を振り払って言った。「あなたたちの血は、あなたたちの頭に降りかかれ。わたしには責任がない。今後、わたしは異邦人の方へ行く。」

18:7 パウロはそこを去り、神をあがめるティティオ・ユストという人の家に移った。彼の家は会堂の隣にあった。

18:8 会堂長のクリスポは、一家をあげて主を信じるようになった。また、コリントの多くの人々も、パウロの言葉を聞いて信じ、洗礼を受けた。

18:9 ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。

18:10 わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」

18:11 パウロは一年六か月の間ここにとどまって、人々に神の言葉を教えた。

メッセージの勘所
コリントにたどり着いた時、パウロは意気消沈、戦意喪失の状態でした。アテネでは相当入れ込んで、「あーもしよう、こうもしたい」といろいろ計画していたと思われます。それがすべて水の泡と帰し、ここコリントでは自分で何とかしようというのではなく、当座をしのぎながら自分ではなく神が働かれるに任せようとしていたように思います。まじめだった彼には、この遊蕩の街は居心地が悪かったと思われますが、しかし、そこが初代教会の中で最も力のある教会の一つとなり、後の教会にとって宝となる聖書の一冊を生み出すことになろうとはだれが予想したでしょうか。」
メッセージの要約
1節に「アテネを去って」とありますが、アテネは、知識人の町として知られていました。知識人たちは労働は奴隷に任せて、自分たちは、体を鍛えること、知識の習得に努めていました。またアテナイ(戦いと知恵の神)を祀っていました。パウロは以前からここアテネでの伝道を心に思い描き、大きな期待をよせていたようです。

17章17節には、「会堂ではユダヤ人や神をあがめる人々と論じ、また広場では居合わせた人々と毎日論じ合っていた。」とあります。またエピクロス派やストア派の哲学者もおり、21節にあるように、「すべてのアテネ人やそこに在留する外国人は、何か新しいことを話したり聞いたりすることだけで、時を過ごしていた」とあるように、パウロはアテネの人々は自分の話に耳を傾けてくれると確信していたことでしょう。

しかし、話が「イエスキリストは、私たちの罪のために十字架にかけられ、そして復活した、、、、」という核心に至った時「死者の復活ということを聞くと、ある者をあざ笑い、ある者は、”それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう”」(32節)と言って去っていってしまったのです。

パウロは人々のこの反応に衝撃を受けたと思われます。
パウロは、ユダヤの中で知らぬ者はないガマリエル大先生の門下生です。ユダヤ教についてだけでなく、修辞学や歴史等についても自信を持っていたことでしよう。自分の力はここでこそ発揮できるとどこかで思っていたかもしれません。しかし結果は散々でした。なぜ失敗に終わってしまったのか?彼は自分の思い描いていたビジョンとはかけはなれてしまったことに衝撃を受けたようです。そのことをⅠコリント2:3には「そちらに行ったとき、私は衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。」と告白しています。


しかしこのコリントで、アキラとプリスキラに出会います。これが人生の不思議というものです。
私も東京、神奈川、福岡と赴任地が変わりましたが、それぞれの地で苦しんだこともありましたが、出会った人々が私を支えてくれましたし、そこで新たな自分に気づかされ、目が開かれていきました。

パウロはアテネで自分が粉々になるような体験をしましたが、そのことによって彼は自分の一生の友であり頼りになる助け手を得ました。しかもアキラとは同じ職業でした。テント作り、皮なめし職人でした。当時、ラビ、また伝道者であっても神の言葉を述べ伝えることで金を稼ぐというのは神への冒涜だと考えられ、それゆえ皆それぞれ職業を持っていました。

パウロはコリントに来て、まず彼らと一緒にテント作りの仕事をしました。彼自身が癒される必要があったのです。心と体の回復を待ち、安息日だけ、み言葉を語るという暮らしをします。それが彼のうちの様々なことの準備へとつながっていきます。落ち着いて暮らすうちに、色々なことが見えてきました。

コリントの町は清貧さや高い道徳性とは対極にある町でした。人々は自分たちのことをギリシャの星(勢いがある)と自称していました。確かに、ヨーロッパとアジアの人や物が集まってくる一大産業都市で、毛織物や陶器の産地でもありました。アフロディーテという美と豊穣の神を祭っている巨大な神殿には、千人の娼婦がいたと伝えられています。

コリントの町はパウロにとってとても肌に合いそうな町ではありませんでしたから、その地への伝道計画もアテネのようにはおそらく練ってはいなかったと思われます。しかし、思いもかけず、そこに1年半も滞在することになったのです。しかも大勢の人が救われていきました。冨や地位や享楽にしか興味はないと思っていた人々がイエスの福音に心を開いていったのです。

アテネにおいては自分の力を存分に発揮してやるという思いだったパウロは意気消沈して、さして期待もしていなかったであろうコリントの街にたどり着いたわけですが、そこで彼は福音の中心を見出しましたのです。「わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。」(Ⅰコリント2:2)はそれを示しています。

なぜアテネとコリントでこのように違ったのでしょうか。
アテネでの伝道はパウロの力を存分に発揮できる場でした。何もしなくても聞いてくれる人であふれていました。また使徒言行録17:16に「パウロはこの町に至るところに偶像があるのを見て憤慨した」とあるように、彼の義憤、正義感が彼の伝道への熱情に火をつけました。しかし、間違っているとか、怒りとかで相手に語っても、相手には届かないわけで、実は結果は見えていたのです。彼にはプライドと自信があったから、なおさら上から目線だったのではないでしょうか。

もう一つ気づかされることは、使徒言行録17:15からアテネで彼はシラスとテモテが来るのを待つはずだったことがわかります。しかし彼らの到着を待てず、自分一人で伝道を始めてしまったのでした。しかしコリントではシラスとテモテを待ちました。語ることに専念したのは、彼らがマケドニア州からやってきてからです。このことは何を意味しているのでしょうか。

私たちは、暑い夏には早く秋が来ることを待ち、誕生日を待ち望んだりします。それらは時間が来れば自動的にやってくるものです。
しかし、私たちが真に待つべきものは、聖霊や神です。神や聖霊は時間を越えた永遠なものです。聖霊や神を待つということは、誕生日や記念日を待つようにしてカレンダーを眺めていればやってくるというのとは訳が違います。聖霊や神が私たちの時間に触れるのを待つということは、上を仰ぐことでしかできないものです。上を仰ぐとは、地にひれ伏すことです。それはすなわち十字架のキリスト以外知ることをしないことなのです。そのようにして自分に頼るのではなく、神の力、聖霊の力に頼ることです。それを求めていく以外にありません。

また、アテネとコリントでパウロが学んだもう一つのことは、《意外性》でした。パウロはアテネという最大の文化都市を攻略できれば、その影響は計り知れないと考えていただろうと思います。しかしコリントについては期待していなかった。しかし、そのコリントで、驚くべき神の言葉の浸透を見せられていったのです。

宣教が結果を呼ぶのであって、結果を読んで宣教をするものではないといいます。
使徒言行録を読んでいくと、予知できないことや、無計画性の業を知らされます。例えば、宣教の計画があったのにそれがかなわなかった時には「イエスのみ霊がこれを許さなかった」とありますし、逆に、宣教の結果思ってもみなかった成果を目にしたときには「幻がパウロを導いた」と書かれています。このどちらも宣教というものがパウロの力ではなかったことを現しています。

パウロは宣教する力は神に頼るべきであるというあたりまえのことを、アテネそしてコリントでの体験を通して骨身にしみて理解できたのでした。また、このお蔭でコリントの信徒への手紙という宝を私たちは手にすることができたのです。

信仰の友との出会い、支えられていくこと、そして「待つ」ことの大切さ、さらに、私たちが待つべきものは、神の霊、神の到来であることを、この出来事は私たちに伝えようとしているのです。

目を上げるところは、カレンダーではなく、十字架にかけられたキリスト、そこから私たちが、神さまが私たちに注いでくださった愛を受けるなら、それこそが宣教を進めていく上での原動力になるのです。


パウロに倣って、失望することなく、十字架のイエスをみつめながら歩んでいきましょう。

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2014年
7月13日
「命の風にふかれて その5」
   
       コリント信徒への手紙Ⅱ 8章1節~9節     

『聖書箇所』
8:1 兄弟たち、マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて知らせましょう。

8:2 彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです。

8:3 わたしは証ししますが、彼らは力に応じて、また力以上に、自分から進んで、

8:4 聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりにわたしたちに願い出たのでした。

8:5 また、わたしたちの期待以上に、彼らはまず主に、次いで、神の御心にそってわたしたちにも自分自身を献げたので、

8:6 わたしたちはテトスに、この慈善の業をあなたがたの間で始めたからには、やり遂げるようにと勧めました。

8:7 あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい。

8:8 わたしは命令としてこう言っているのではありません。他の人々の熱心に照らしてあなたがたの愛の純粋さを確かめようとして言うのです。

8:9 あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。
メッセージの勘所
コリントの教会の信徒たちとの和解の後、パウロはエルサレムへの献金の意味を彼らに語ります。そこでパウロが引き合いに出したのがマケドニアの諸教会の事例でした。パウロは決してコリントの人々に彼らのように頑張れと言っているのではありません。そこにあるのは、私たちの主が私たちのために持っておられたものいっさいを放棄し、貧しくなられたことへのあふれる感謝、それだけだったのです。そこには豊かさとは何か、貧しさとは何かという問いがあるのです。
メッセージの要約
先々週、二匹の魚と五つの魚を持って、イエス様が男だけで5000人の群衆を養われこと、さらにその残りが12かごで一杯なる話しをしました。最初は手が届かないと思われる現実にも、取るに足らない献げものが、主の祝福のあとには手にかかえきれない恵みとなってあらわされたのでした。

私たちは、どうしようもない現実にうちのめされたりします。それは教会にきていても同じです。教会に来ているからと言って私達の生活から憂いや煩いがなくなるわけではありません。同じように教会は様々な試練を受けて苦しんでいる部分が沢山あります。

しかし、そのどうしようもない現実の中で神は必ず扉を開いてくださいます。たとえ扉さえないと思える現実の中でもです。この物語から私はそう教えられました。

また先週はナルドの香油の話でした。一人の女性が人の年収に当たるような高価な香油を一瞬にして使いきった、そういう異様なできごとでした。しかし、それはイエスキリストが成し遂げてくださったやはり異様としかいいようのないできごとと深く響き合っていました。神様がイエスを十字架にかけてまで成し遂げようとされたこと、そのことをイエス様も全身で受け止め引き受けてくださいました。私達が救われるためすべてを献げてくださったのです。十字架で釘うたれ、ののしられ、弟子たちに見捨てられるという恐ろしい歩みを全うしてくださったのです。

でも、一年分の年収を捧げる。いったいそれがなぜ恵だと言えるのか。
この女性が高価な香油を使い切ったのは、「私、こんなに捧げることができるなんてすごいわ!」と自己満足にひたるためではなく、また「私は人ができないことをやったんだわ!」と自分を慰めるためでもありませんでした。ここで彼女がささげたのは、実は自分自身だったのです。彼女はイエスと出会って始めて、自分は生かされている者であることを知って、今得ているものも全て神様からのもの、神から頂いたものと神の恵みを見ることができたからこそ、捧げることができたのでした。

今日はパウロが開拓して、愛し育てていったコリントの教会にあてた手紙から、献げるとはどういう意味をもっているのかをご一緒に見てみましょう。

1節で、パウロは「マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて知らせましょう。」と言っています。パウロは神の恵みについてあなたたちに知ってもらいたいと言います。神の恵みはなかなか言葉で表すことは難しいものです。それをパウロは献げものということを例にとって示そうとしています。マケドニア州の教会とは、フィリピ、テサロニケ、べレアにある教会のことです。コリントの教会は、マケドニア州とは違います。

実は、コリントの教会からパウロは締め出されるという体験をしました。コリントの教会に後から入ってきた主の弟子と言われる人たちによって、大きな混乱が生じ、教会の中でも他を顧みない、救われたのだから自分たちは何をしてもいいというような流れが全体にまで及んでしまったのです。性的な乱れが起こったり、あるいは食事の際にも、一方で酔っぱらっている人がいるかと思えば、方や貧しい人が空腹のまま集会に参加しているといった有様でした。誰も小さい人々を顧みることなく、自分たちがしたいようにやっているということが起こっていたのです。そして、パウロの権威にも疑問が呈され、「パウロなんてたいしたことない、自分たちは他の人に従おう」というようにパウロを悲しませることが起こってきました。

パウロはそれに対しもちろん痛み、悲しみましたが、何とかコリントの教会が立ち直っていくようにと祈りを込めてコリント信徒への手紙ⅠとⅡを書いたのです。そしてⅠの手紙において、なんとかパウロとコリントの教会の和解が成り立ったのでした。そして、今やっと、あなたたちは、既に色々なものを与えられていると言えるまでになりました。

7節に、「あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊なのですから」と言っています。以前は主から離れて、自分たちのしたい放題をやっていたけれど、今はすべての点で豊になったのだから、その上で「この慈善の業にも豊かになりなさい。」と言っています。

豊かになりなさいとは、ないがしろにしてはいけないということです。「慈善の業」という言葉は4節、6節、7節の後半にも出てきますが、これは1節の「神の恵み」という言葉、ギリシャ語では、「カリス」という言葉と同じ言葉が使われています。4,6,7節をなぜ「恵み」と訳せず、「慈善の業」としたのでしょうか。それは神の恵みは慈善の業を通して表されるからです。

ではなぜ慈善の業が神の恵みなのでしょうか。
Ⅰコリント16章「聖なる者たちの募金については、わたしはガリラヤの諸教会に指示したように、あなたがたも実行しなさい。」とあります。この「募金」も「慈善の業」と同じ言葉です。あなたは多くのことに豊になっているけれど、一つ欠けているものがあるとすればそれは慈善の業だと言って勧めています。そして、フィリピや、ベレアなどのマケドニアの教会のことを引き合いに出して語っています。

Ⅱコリント8章2節でマケドニアの教会の人たちは「その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなった」とあります。コリントの教会とマケドニアの教会の違いはマケドニアの教会は貧しい人々が占めていたということです。彼らは極度の貧しさの中にあったのに、おしみなく献げたというのです。

3節には「彼らは力に応じて、また力以上に、自分から進んで、聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりにわたしたちに願い出たのでした。」と書かれています。パウロはコリント教会の人たちにもエルサレムの聖徒たちへの慈善の業を忘れないようにといっていますが、パウロは、マケドニア州の人々がこんなに沢山したから、あなたがたも沢山献金しなさいとは言っているわけではありません。またあの地方がこんなぐあいにひどく貧しいから、と彼らの貧しさの状況を切々と訴えて、あなたがたも献げましょうといっているのでもありません。

彼が言っているのは、マケドニア州の人が成したことは<神の恵み>であるといっているのです。どれだけ献金したかということではなくて、それは神の恵みだということを言っているのです。

4節「彼らは自分から進んで、聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりにわたしたちに願い出た」ということです。そして5節には、「わたしたちの期待以上に、彼らはまず主に、次いで、神の御心にそってわたしたちにも自分自身を献げたので、」と書かれています。

大切なポイントはこの<自分自身を献げた>ということです。どれだけ、献げたかではなく。先週のナルドの香油の女も自分自身を献げました。マケドニア州の人たちもポイントは物にあるのではなく、まさしく、自分自身を捧げたことにあるのです。ですから、教会では献金をするときに「これは主への献身の証しです」と言います。私達が自分にできること、能力や、お金を献げるということは、自分自身を神に献げることです。逆に言えば、自分自身を神に献げ尽くした信仰がなければ、安心して献げものはできないはずです。

今日の詩編交唱の箇所、詩編27編1節を見てください。「主はわたしの光、わたしの救い、わたしは誰を恐れよう。主はわたしの命の砦、わたしは誰の前におののくことがあろう。」

私達が主を真に信じているならその人は誰を恐れることがあろう。誰の前におののくことがあろう。私達は主によって贖いとられ、私達は主が命をかけられる程に素晴らしい存在なのだ。主は私達のために全てを献げ尽くしてくださった。そのことを心から信じられるからこそ、自分もまた主に従おう、主の業につこう、持てるものを献げようと思えるのではないでしょうか。

この箇所での慈善の業は貧しい人に献げることでした。当時それは重要な問題でした。教会には貧しい人々が溢れていたのです。だからその時代、貧しい人々を助けることは教会の大きな使命でした。そして、その業は神の恵みであると言われている。ただの仕事ではなく、神の恵みが現れるために行われていたのです。それは自然の気持ち、人の勇気や清い意思の力や決心でできるものではありません。それがどんなに小さなことであれ、神の恵みの業に連なるということであるならば、それを行うためには、自分を神に献げることがなければならないのです。

マルコによる福音書10章の17節からの記事に、「金持ち」の男の話がでてきます。彼は、「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」などの掟はすべて守ってきたとイエスに言います。しかしそれらを守っても心に平安がありませんでした。だからイエスの所にきて、永遠の命を受け継ぐには何をしたらいいでしょうかと問いました。イエスから、「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」と言われて悲しみながら立ち去ったことが書かれています。

沢山の財産をもっていたからであると。彼にとって、律法を完璧に守る信仰生活と自分が財力をもっていることとは何の関係もなかったということです。この人は富を失ったら全部終わりになると考えていたからです。確かにお金は私達の生活に極めて大きな影響を及ぼすものです。それは、私達の命を支えていると思われています。お金が私達を支えていると思う生活、でも私達は一方では生活は神の恵みによっているといいますが、これをどう考えますか。その二つは全く別室のもので完全に住み分けられているとしたら、この青年のような生き方になってしまいます。それが取り去られたら、自分自身がなくなってしまうかのように、恐れおののいて、それこそ、神も仏もないということになってしまいます。

パウロは神から与えられている恵みをほんとうにあなたたちに知ってほしいと言っているのです。神は既に私達にとてつもない恵みを与えてくださっています。命も健康も私達が自分で稼いでいると思っているお金も全て神の恵みです。神から与えられているものです。私たちが何か物を与えようとするとき、自分が得たものを献げるのではなく、神から恵みとして与えられているものを分かちあうということに過ぎないわけです。

それがわからないとどんなものを献げるにしても不安をもったり、不満を持ったりしてしまうのです。ですから、やはり神に献げるためには、私たちの思いも、考えも、生活も全てが変わらないといけないのです。「いやぁ、難しいなぁ」と思われるかもしれません。しかしパウロは、献げるということがいかに恵みであるかを伝えています。

しかし、私達の中に、献げるということが自分から何かが取り去られるという感覚がないでしょうか。献げることによって、自分のものが少なくなり、自分が小さくなり、いつかはゼロになることを恐れます。自分のものと思うからそんな風に思うわけでしょう。自分の物がなくなると・・・。

私達は神によって造られた者であり、神のよって救われた者であり、自分の命も神から与えられたものであり、神の守りがあることを確信することができれば、与えることにも何の不安も感じないで済むでありましょう。「いやぁ、そんな立派な信仰は自分にはとても持てない」と思われるかもしれません。だから私達は、神がイエスを通して成してくださったことに益々集中していかなくてはなりません。

コリントの信徒に対して、パウロはあなたがたはマケドニアの教会に負けないようにとか、物の多さについて言っているのではなく、イエスが自分自身を献げられたように、あなた自身を献げていくのですよ、まずそうするのですよ、そうすることによって、あなたは自分を失うことを恐れることなく、持てるものを周りの人と分かち合うことができる。そのことが神がわたしたちに与えてくださる何よりの恵みだとパウロは言っているのであります。

9節をご覧ください。「あなたがたは主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」これは私達が考える豊かさ、貧しさと全く逆のことを言っていますね。何が貧しくて何が豊かなのか。そのことを聖書から聞いていかなければなりません。

そして、極度の貧しさの中でまずマケドニアの人たちが成した自分自身を主に献げていくこと、そこからあふれ出た恵み、そのことを私達もまた体験していかなければならないのではないでしょうか。そうでなかったら何を献げるにしてもそれがなくても別に困らないものを神に献げているに過ぎないのではないでしょうか。それでは真の献げものにはなりません。私達は自分自身をまず主に献げるのです。そのことを通して、信じられないほどの主の平安が私達を包みます。そしてそのことによって、惜しむ心でなく、自分自身を献げる思いで、持てるものを、その人の分に応じて、真に献げていくことができる。
その恵みに是非皆さんも与かって頂きたいと願うものであります。
お祈りしましょう。
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2014年
6月29日
「命の風にふかれて その3
   
         ヨハネによる福音書6章1~16節     

『聖書箇所』
6:1 その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。

6:2 大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。

6:3 イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。

6:4 ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。

6:5 イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、

6:6 こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。

6:7 フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。

6:8 弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。

6:9 「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」

6:10 イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。

6:11 さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。

6:12 人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。

6:13 集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。

6:14 そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。

6:15 イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。

メッセージの勘所
先週の礼拝で主が復活された後のフィリポの活躍を見ました。今日の箇所はフィリポにとって生涯忘れえぬ体験となったであろう記事です。でも何度読んでも私は「イエスさまも意地悪だなぁ、フィリポさんはお気の毒」と思ってしまうのです。しかし、この体験があったればこそ、教会はこの2千年間同じような試みに怯むことなく挑み続けてこれたのだと思えます。同時に、信じられない恵みで始まるこの章が、「お前たちもわたしから離れ去るのか」というイエスさまの叫びで終わるという事実を私たちは忘れてはならないのです。
メッセージの要約
今日は初めて礼拝に来て下さった方が沢山おられますが、私が初めて教会に足を踏み入れたのは、大学3年の時でした。西南大学のグリークラブの演奏旅行でサンフランシスコに行き、教会で歌ったのが初めてです。黒人霊歌「every time I feel the spirit-私の心を神の霊が震わせるとき、祈りがあふれる」を歌ったのですが、歌詞の意味を全然わからず歌っていました。その、歌詞の内容が心にせまってきたのはずっとあとになってからです。そんな私が今や牧師になり、こうして人前でメッセージまでするとは思ってもみませんでした。

さて、今日の箇所は、イエスのなさった奇跡の話ですが、四つの福音書の全部にでてくるのです。それほど人々にとって印象深い出来事だったのでしよう。タイトルの「5千人に食べ物を与える」の次に()に囲まれて、(マタイ14:13~21、マルコ6:30~44、ルカ9:10~17)と書かれているのは、ここと同じ記事がそれぞれのところに出ていることを示しています。4福音書とも一字一句同じということはありません。今日のヨハネによる福音書では、フィリポという弟子を試みられたことが付け加えられています。

1節「その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。」別名ティベリアス湖の「ティベリアス」はBC14~37年在位のローマ皇帝の名からとった湖でした。当時ローマの属国であったこの地はヘロデ大王の息子、ヘロデ・アンティパスが支配していたのですが、皇帝に取り入りたいため、皇帝の名前を湖の西にある町にも、湖にもつけたものです。

当時の皇帝といえば、人であり、神である方とされていました。
イエスさまはこの大帝国の片隅でひっそりとお生まれになり、権力も財力もお持ちではありませんでしたが、聖書記者たちは当時絶対的な権力をもっているローマの皇帝にしのぐ人がここに存在しているのだということを示したくて、ティベリアスの名をヨハネはあえて入れたのではないかと思います。

イエス様の活動はほとんどがこのガリラヤ湖の周辺で行われました。
さてその皇帝にまさる王、イエス様はどんな王だったでしょうか。

4節に「ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいてきた」とあります。過越祭は、ヨハネの福音書に三回でてきます。一回目は2章のイエスが宮清めをなさった記事のところで、2回目はこの6章、3回目はイエスが十字架にかかられるときの記事の中です。過越祭は一年に一回ですから、イエスの公生涯は3年間であったと言われています。この「過越祭」が近づいていたということは、この物語をイエス様の十字架とよみがえりの光の中で読みなさいと言われているように思います。

さて、イエスは、フィリポに尋ねられました。
5節「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と。そう聞かれてフィリポは考えただろうと思います。いったい群衆は何人いるのか、いくら必要だろうかと。10節に「男たちはそこに座ったが、その数はおよそ5000人であった」とあるので、女性、子供を含めれば1万人位にはなったのではないかと思われます。おそらく弟子たちは、手分けして群衆を数えたことでしょう。フィリポは答えました。「めいめいが少しずつ食べるためにも、200デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と。1デナリオンは、一日働いた日当に等しいと言われています。すなわち、200デナリオンは200日分、年収の3分の2は必要だということです。弟子たちはお手上げだと思ったことでしょう。そんな沢山のものをどうやって準備するのですかと思ったことでしょう。

他の弟子アンデレもいいます。「ここに、大麦のパン5つと魚2匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」。
彼らは人々に食べさせることは不可能だと思いました。

計算ができることは悪いことではありません。この世を生きて行くには役に立つ力です。
今、私達も隣地の土地が売りにだされていて、司会の方の祈りにもあったように、皆さん神様の導きを求めて祈っておられることと思います。
土地取得のため、一人当たりいくらいると計算すると、私達には無理だとなりますよね。
この箇所と同じ状況といえます。

この質問をされたフィリポは気の毒だなぁと私は思います。
でもこの質問があったからこそ、このあとフィリポは、人間の置かれている現実と神の恵みの法則の両方を体験することになります。

ここで提供されたのは、大麦のパン5つと、二匹の魚だけでした。
当時も小麦が主流で、大麦は家畜のえさとか、お酒の材料として出回っているくらいでしたから、この少年の家が貧しかっただろうことが想像できます。

イエスは「人々を座らせなさい」と言われました。そして、パンを取り、感謝の祈りを唱えてから、分け与え、魚も欲しいだけ分け与えられました。どのようにされたのかは、詳しく書かれてないので、わかりませんが、、、、。しかし、人々は満腹したと書かれています。そして、弟子たちに残ったパンぐずを集めなさいと言われます。12かごがあったということは弟子12人が一個ずつもって、集めたと思われます。弟子たちは自分の持ったかごにパンくずを集めているときに、どう思ったでしょうか。少し前には、「とても無理、少しくらいのパンと魚では何の役にもたたない!」と思った彼らでした。しかし、どんどん重くなっていくかごの重さは神様の恵みの重さでした。

神の恵みは重さ、その計り知れない大きさを、彼らは身を持って味わったのでした。
人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言います。イエスは人々が自分を王にするために連れていこうとするのをしって、山へ退かれました。奇跡を見せられるとき、人間はその力が欲しくなります。その力を自由に使いたくなります。

しかしイエスは、ご自分の力が人々に使われるのを望まれませんでした。だからイエス様は人々から退いていかれました。

しかし、イエスは人々を拒否されたわけではありませんでした。教会が述べ伝えてきた神は、人々をご自身の恵みでとらえようとしてこられた方です。この恵みは、捉えようがない、目にはみえないものです。しかし、神はそんなことはありえないというところで、ご自分の恵みを満ち溢れさせられます。神は人が絶望の中で朽ち果てることを望まれていません。だからこそ、イエスは見えない恵み、よみがえりの命を分け与えられます。それは溢れて、12のかごに一杯になるとこの物語を通して私達に教えられるのであります。

皆さんはボンヘッファーという方をご存知のことと思います。ドイツの牧師でナチスドイツが無条件降伏する数日前に処刑された方です。ナチスの、人を人とも思わないイデオロギーがドイツを支配する中で、教会を最後まで逃げずに導いて、守り通そうとされた方です。教会の存立意義はその国がどんな方向に進もうとも、決してあきらめないで神の国を述べ伝えることです。

そのボンヘッファーの言葉に次のような言葉があります。
「我々が我々のパンを一緒に食べている限り、我々は極めてわずかなものでも満ち足りるのである。しかし、誰かが、自分のパンを自分のためだけにとっておこうとするとき、初めて飢えが始まる。これは不思議な神の法律である。」

先ほど献金をしましたが、これは分担金でも会費でも募金でもありません。なぜか?それは私達がそれを神に捧げることによって、誰かと分かち合うことによって、神がそれを用いてくださって、恵みを満ち溢れさせてくださるからです。私達はそのようにして、私達の持てるものをいつでも分かち合うことができます。分かち合う限り決して飢えることはないのです。分かち合えなくなったとき、目に見えない飢餓がしのびよる時なのです。神は私達にいつも試みを与えてくださいます。教会は2000年間、チャレンジを受け続けてきました。もうできません、無理ですと私たちの先達も神に叫んだのです。そんな時、神様は、一方で「そうだよね、それはそうだ」と言って下さる。でも「そこで立ち止まらないで! わたしのこの恵みを是非受け取ってほしいのだ」と望み続けておられるのではないでしょうか。

私の差し出すわずかなものでも12のかごに一杯になります。神の恵みは私達のうちに満ち溢れるのです。今度は私が差し出す番なのではないでしょうか。主のお導きを信じ、主のくださるあふれる恵みを喜び感謝して、この手に受け取って行きましょう。
お祈りいたします。
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2014年
6月15日
「命の風にふかれて」
   
              使徒言行録2章17節

『聖書箇所』
2:17 『神は言われる。終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。
メッセージの勘所
先週の主日はペンテコステ(聖霊降臨日)でした。つまり先週、教会も誕生日だったのです。この世界の歴史の中で教会が始まった日、その日のことをペテロはヨエル書の成就だと理解したのです。(ヨエル3:1)。そしてそれはまた終わりの時の始まりだと言われています。つまり神の国の到来が近づく中を私たちは生きているのです。なぜそうだとわかるのかというと老人が夢を見、若者が幻を見るからです。ここで問題です。私たちの中に今、夢、そして幻が語られているでしょうか。
メッセージの要約
信仰は2階建てと言われています。キリストに出会わなかったら私は一階部分だけで人生を終わっていたでしよう。そこは自分の力、自分の持てるもので生きる世界です。この世界は私たちに喜びももたらしてくださいますが、人生の矛盾や苦しみの問題に何の答えもくれません。そこは幸不幸も、単なる偶然で片づけられてしまう世界です。

しかし、そこには二階への階段がだれにも備えられているのです。そこをあがって2階へ行くならば、神と共に過ごし、私たちの心を注ぎだし、様々なしがらみにがんじがらめになっている自分自身を離れる場所を持てるのです。そのことによって、様々な試練の中にあっても、またどんな不正を目の前にしたとしても、それを嘆き、怒り、憎むだけでなく、地上に祝福をもたらすために神はかかわってくださることを信じることができ、たとえ過酷なできごとの中に置かれても、神がどんなに深く私を愛しておられるか知ることができるようになると思います。

先週はペンテコステ(聖霊降臨日)でした。世界はビッグバンから始まったと言われますが、教会は一人一人が聖霊に満たされることからはじまり、その働きを受けながら続いてきました。

使徒言行録2章の1節には、「五旬節の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、‘霊’が語らせるままに、他の国の言葉で話しだした。」と書かれています。

「五旬節の日が来て」の「五旬節」は50日のことで、「日が来て」とは、日数が満ちてという意味です。たんなるめでたい日が来たということでなく、一日また一日と満たされていって50日がきたのです。この一日一日がクリスチャンにとっては、祈らずにはおれない日々、待ち続けて、真剣に生きて、2階建ての生活に命をかけてきて満ちた日でした。

当時、エルサレムにおいて、外国語が堪能な人がいたわけではありませんでした。また超常現象が起きて、椅子が舞うとかでも、十羽ひとからげの集団エクスタシーが起きたのでもありませんでした。炎のような舌は一人一人の上にとどまり、それぞれが違う言語を語りだしました。どんな言語を語りだしたかは9節に書かれています。まさに一人一人を生かすという神様の本質が現された現象でした。これは一人一人を大切にし、一人一人を生かすのが聖霊の真の力だということを示しています。

ペンテコステのできごとはそういうできごとなのです。聖霊を受けるとは、人と違うことができるようになるとか、別人格になるとか、信じられないようなことを話すというようなことではありません。また祈れば自動販売機からジュースがでるように自動的に聖霊が与えられるというようなものではありません。弟子たちはイエスが十字架の死をとげられたあと、最初は絶望し逃げ去ってしまいましたが、復活の主に出会い、絶望の底から立ち上がり、日々熱心に祈りはじめ、一日一日を懸命に生き抜いていったところに、ペンテコステ(聖霊降臨日)の日がきたのです。そしてこのペンテコステの祈りが人類の2000年を動かし続けてきました。日々祈り求める中で与えられた聖霊のみが、それぞれに十字架の意味を知らしめ、私達の中の愛を真に力あるものに変えていくのであります。

祈りが必要だということに異議を唱える方はおられないと思います。
この祈りを知ることにおいて大事なことは、祈りとは自己否定の力に他ならないということです。自己否定を持たない業は無力です。自己否定とは、自分はダメだと思えということではなく、神が主(主人)、私は従(僕)ということです。

先ほど2階建ての信仰について話しましたが、私達はつい、「また一週間を1階建ての信仰だけで歩んでしまったなぁ」と思うことが多いのではないでしょうか。自分の力に頼り切ってしまうのです。しかし、今ほんとうに向かわなければいけないものは何か、祈らないといけないものはどれほど多いことでしょうか。

詩編34編は皆さんも是非覚えるといいと思います。それを覚えていたら、どんなに助けになることでしょうか。詩編34編の16節には、「主は、従う人に目を注ぎ、助けを求める叫びに耳を傾けてくださる。主は悪を行う者に御顔を向け、その名の記念を地上から絶たれる。主は助けを求める人の叫びを聞き、苦難から常に彼らを助け出される。主は打ち砕かれた心に近くいまし、悔いる霊を救ってくださる。主に従う人には災いが重なるが、主はそのすべてから救い出し、骨の一本も損なわれることのないように、彼を守ってくださる。」とあります。

神様を信じていても、人生バラ色ではありません。むしろここにあるように災いが重なると思うことが多々あることでしょう。またこの世界の無意味さに愕然とし、本末転倒の状況にも出くわします。ワールドカップが行われているそばでデモが行われている。イラクも、再び、戦闘の中に陥ろうとしています。人間の中に溜まっていた怒りがそれを引き起こしているのです。

しかし、神は主、私は従。神は決してこの世界をこのままでいいとは思っておられません。神が持っておられる感覚を持って、この世界にかかわるように、私達を召しておられます。聖霊に満たされるというのはそういうことです。だから、神が悩まれたように、その人も悩み多くなるのです。しかし、この34編にあるように、神は私達人間が抱える悩み、悲しみを見ておられます。単純に解決してしまおうとは思っておられません。私達は、神にもっと早く、私の悩みを解決してほしいと思います。しかし、神はいつもそばにいて助け、神をさらに愛せるように、神の愛を深く知るようにしていかれます。

神が主、私が従。そのような祈りに導かれる人は、この世を呪わない、捨てない、この世を神様のものに呼び出し続けます。そればかりかこの世に手をおいて希望を与え、祝福を伝えていきます。それが神様に召された者の仕事、祝福です。

若者は幻を見、老人は夢を見る。神から来る幻と夢、力と愛は、苦しむ中でも毎日2階に上って、神との交わりを持つときに、五旬節の日が満ちたように、私達にも与えられていくものなのです。そうやって教会は人が増えて行ったのです。

今こそ、祈るときです。そのような群れとして、これからも祈っていきましょう。
お祈りします。
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2014年
6月1日
「御霊の道を閉ざすもの」
   ヨハネによる福音書13章21節~30節


『聖書箇所』
13-21イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。「はっきり言っておく。あ なたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」

13-22弟子たちは、だれについて言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせた。

13-23イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に 着いていた。

13-24シモン・ペトロはこの弟子に、だれについて言っておられるのかと尋ねるように合 図した。

13-25その弟子が、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、それはだれのことです か」と言うと、

13-26イエスは、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられた。それ から、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。

13-27ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、「しよ うとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われた。

13-28座についていた者はだれも、なぜユダにこう言われたのか分からなかった。

13-29ある者は、ユダが金入れを預かっていたので、「祭に必要な物を買いなさい」とか 、貧しい人に何か施すようにと、イエスが言われたのだと思っていた。

13-30ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。

メッセージの勘所
「私たちは例外なく、誰かに愛されたいという願望を持っています。それ自体は決して悪 いことではありませんが、それゆえに私たちの思いがゆがんでしまうことも起こるのです 。親としては複数の子どもを同じように愛したと思っても、子どもの側からはそう見えず 、兄弟の中で葛藤が起こったという経験があるのではないでしょうか。実は同じことがイエスさまの弟子たちの中でも起こったのです。私たちは自分で勝手に作り上げた幻影に惑 わされてはならないのです。」
メッセージの要約
聖書を読んでおりますと、みなさんも疑問を沢山お抱きになると思います。私も読んでい て「いったい何を言いたいのかな?」「そんなことがあるのだろうか?」と時折疑問に思 うことがあります。

今日読みました聖書の箇所も、<イエスの愛しておられたもの>とわざわざここに書かれて いるのはなぜなのだろうかとずっと思ってきました。それは弟子の一人、ヨハネのことだ と言われています。でもイエスはヨハネだけでなく、弟子たちみんな愛しておられたはずです。あえて、一人を指して<愛しておられた>とつける必要があったのでしょうか?

私はこのことがユダの裏切りとも関わっているのではないかと思っています。

シオンウィ ークリーのメッセージの勘所にも書きましたけれども、私は3人兄弟の長男です。下に妹と年子の弟がいます。まあ何かにつけて兄弟比較されて、二人は今でも私の事をひがむの です。「にいちゃんだけは特別やった。」「にいちゃんはいいよね、いつもかわいがられて」と。自分としてはそんなつもりはない、といえばウソになるかな、、、。今までやっ てきた事を思えば、大学に入るのも何年も浪人し、入ったかと思えば一年留年し、はてに は牧師にもなってと普通に考えたらとんでもないですよね。でも勘当もされずに許されてきたのですから。弟と妹にとってはそんなハチャメチャな生き方をしといて、なんで兄ち ゃんがいまだに頼りにされるのか?悔しいし、訳分からないという感じだろうと思います

さてイエス様の弟子たちは12人いたわけですけども、どうやって選ばれたか。

それはイエ スさまがこれ、と思われた人を選んだのです。聖書の中に書かれていますけれども、イエ スさまがこの12弟子を選ばれたのは、誰か有力な議員に推薦していただいてその名簿を見 ながら選んだわけでも、今のセンター試験のように上位何人かを選ばれたというわけでもなかったのです。イエスさまがご自分で本当にこれ、と思われた者を選ばれた(マルコ 3:13)。

ですからそこには玉石混交とよく言いますが、玉のように光り輝く才能あふれる 人もいれば、それに比べれば、その何分の一、何十分の一、というそんな弟子もいたわけ です。

だから弟子たちの中にも、何をしたのかさっぱり分からない、弟子の名前の羅列の 箇所にしか出てこないという弟子もいるわけです。ペテロなんかは特に頻繁に登場します。しかし弟子たちの名簿が記されている所だけで、それ以外は全く出てこない人もたくさ んいるわけです。

そのことは私たちの現実と似ています。いろんな集団がありますし、こ の教会一つ見ただけでもいろんな賜物を持っておられて私から見てもいいなぁと思う人もおられますし、あるいは病気を本当にたくさん持っておられる人もおられます。出崎さん なんか私が初めてお会いした時に何を渡されたかと言うと、出崎さんの抱えておられる病 気の種類のリストでありました。11のリストがあってそのうちの1つを持っていても人 生が暗くなるような、そんな病名をいっぱい書いておられました。ですから出崎さんと教 会で一年に一回お会いできれば本当にうれしいと思える、そんな状況であります。たくさ んの病気をして一年に一回礼拝に行くのがやっとという人もいるのであります。そのこと をもってしても、私たちがみんな同じで平等でなければなんて、ありえないですよね。

しかし大事なことは誰もが主に愛されているということです。誰もが神によって選ばれた ものなのです。

私の婚約式のときに取り持ってくれた牧師が読んでくれた箇所はやっぱりヨハネで「あな た(方)が私を選んだのではない、私があなたを選んだのだ」(ヨハネ15:16)でした。そ う、私たちは皆、私たちの思いを遥かに超えた所で、神によって選ばれたものなのです。

選ばれたといっても、それは別にクリスチャンとそうでない人とを区別するということで はありません。クリスチャンになっていない人たちは神様に選ばれてないのか、そのよう にお感じになるかもしれませんが、そうではなくて、その選びに気付くか気付かないか、ただその一点のみです。

そして選ばれたと言っても私たちの側に起点がないわけですから 、選ばれなければならない理由、例えば、持っているものがすごいとか、ポテンシャルが すごいからとかそんなことで選ばれたのでは決してないのです。

ただ私たちは神さまの憐 れみのゆえに選ばれたのです。そういうものなのです。

けれども私たちはその事をあまりに容易に忘れてしまうのです。神様に選ばれたという事 は、もう他の人と比較する必要がないことを意味します。親は子どもたち一人一人に全力 を傾けて愛するわけです。親とは不思議なもので、子どもが2人いたら愛情を半分にして注ぐということはありません。やっぱりその子を一人しかいないように愛する。二人いた ら一人が亡くなってももう一人いるからいいじゃないか、なんてそんなものじゃない。片 方が取り去られたら自分自身がなくなってしまうくらい、悲しみは深いじゃないですか。

そのようにしてイエス様の12弟子への愛も決してこの人には沢山で、一方あの人には少な いとか決してそのようなものではなかったはずです。

元に戻りますが、ではなぜ、聖書の中にこのようにイエスに愛されたもの、というような 表現が出てくるのでしょうか?

先ほども言いましたように、弟子はみなイエスにこれと見 込まれたのです。なぜ私のようなものが選ばれたのかとイエスに聞いてみなければわから ないけれどです。当初クリスチャンを迫害していたパウロなどは生涯そのことを問い続け ただろうと思います。

弟子たちの中にもなぜ私が?というような人がいっぱいいました。例えばイスカリオテの ユダは会計係で数字に明るい。数字に明るいという事は頭脳が明晰だったといえると思い ます。ペテロのように情熱家で猪のように突っ走る人もいましたし、神様からボアネルゲス「雷の子」(マルコ3:17)と名付けられた人もいた。しかし、大事なことは、それぞれこ の人はと思ってイエスに選びだされたという事実があるだけなのです。イエスからこの人 は能力が高く、特別だからという理由で特別に愛された人などひとりもいなかったのです 。

ではなぜ<イエスの愛しておられた>という言葉がでてくるかというと、それは弟子たち の中で弟子たち同士の妬みや嫉妬や人間なら当然持つ感情の中から生まれてきた言葉だと 思うのです。私も好きな人が出来たらその人に特別に思われたいと思います。もしその人が何人もの人に自分にむけているのと同じような気持ちを向けていると悲しくなります。

イエスさまは一人一人をその賜物によって用いられたと思います。しかし誰かを特別に愛 しているとかそういうことはあり得ない。それは弟子たちが勝手に作り上げた幻想だった と思います。本来なら群れの中心にいるのは、出来の良さからいえばユダだったかもしれ ない。もっとも頭脳明晰。冷静でいろんな事が出来る。だれがこの群れのトップかと投票 すればきっとユダがそうなったのじゃないかなと私は思います。ユダの中にもイエス様に 特別に思われたいという思いはあって当然だと思います。しかし誰が見てもヨハネはイエ ス様に愛されていると見える。イエスさまが言ったわけでもないのに弟子のそれぞれの心の中にそんな思いが芽生えたのです。

それは人間の心だけがなせる技なんですが、愛され たいという欲望がそういう考えを生んでしまうのです。自分の中で《あの人はイエスに特 別に愛されている》という物語りを勝手に作り上げてしまうのです。

この場面はイエスさ まが足を洗われた場面に続くわけですけどもヨハネによる福音書には出てきませんが他の 箇所では主の晩餐のあとに出てきます。大切な大切な主の晩餐の直後にもかかわらず、弟 子たちの中に誰がいったい一番かという議論がおこる。そしてヤコブとヨハネのお母さん は「うちの子をどうかイエス様の一番おそばにおいて下さい」と願い出たりしているわけ です。親が出てきてうちの子を一番にと願う親の切ない気持は、私も若干わかる気がします。親なら子どもを特別な存在としてほしいですもの。

だから弟子たちの間には他の弟子 たちに対するいろんな思いがあったわけです。人と比較して思い違いをする。あの人は神 に愛されているのじゃないか、自分は見捨てられているんじゃないか。

そう思う気持ちは分からないでもない。しかし、私たちは、12弟子がそうであるように、イエスさまがこれ 、と思って選ばれたのです。この事を決して見失ってはなりません。いつもそこに立ち返 らないと必ず比較が起こります。そして自分は今は愛されている、だけど状況が悪くなる と、ああやっぱり自分は神様に愛されない、何か神さまに対して罪を犯したから罰を受けているのだと。

自己を反省することは大事ですけども、そのことによって神に立ち帰るよ り、他人への恨みや妬みへとなっていくわけです。そしてどうしようもできないスパイラ ル・渦の中に落ち込んでいってしまうのです。

今日みなさんにお一人の方の詩を紹介したいと思います。

「自主決定にあらずして、賜っ た命の泉の重さを、皆堪えている。」

島崎光正さんという方の詩です。この詩は実は1997 年8月29日にドイツで行われたニ分脊椎症国際シンポジウムで、島崎さんが講演をされた最後に、「ドイツに来て生まれた詩です」といって紹介された詩です。講演の内容をちょ っと読んでみます。


「私はこの度日本のチームの一員として車いすに乗りながらドイツにやってまいりました。ニ分脊椎症の障害を負った77歳となる男性です。もちろん、私は生ま れたときからこの障害を負っていました。そして両親と早くに離別をしたためにミルクで 養ってくれた祖母の話によりますと、3歳の時ようやく歩めるようになったとのことです。7歳となりすでに足を引きずりながら小学校に入学しました。やがて市の商業学校にと 進みましたものの間もなく両足首の変形が急に現れましたために、通学が困難になり途中退学をしなければなりませんでした。それからは日本アルプスへの登山客の土産物である 白樺に人形を刻む事をする職業と成りました。同時にその遅い歩みの中から詩を綴ること を覚え、今日に至っております。今、私がもっとも関心を抱いておりますのは、日本にお きましても進んだ医療技術の一つと言われている出生前診断のことです。そしてニ分脊椎 の障害を負った胎児もその段階においてこうした診断により見分けのつく時代を迎えてい ると言われています。もちろん診断以後の事は両親の判断にゆだねられているにせよ、全 体の流れにおいて、選別と処置につながるものと恐れるものです。確かにニ分脊椎に限ら ず、障害を負って生まれてきた事は、人生の途上において様々な困難をくぐらねばならな い事は事実です。私は77年の歩みの跡を振り返ってもそう言えます。けれどもそれゆえに、この世に誕生を見た事を後悔するつもりは少しもありません。それほど神様から母の陣 痛を通して授かった命の尊厳を考えます。このようなみなさんとの出会い。また日本での 我が家の庭と朝露に濡れた花との出会いの喜びは何よりもその事を証しています。身にど のようなハンデを負って生まれてこようとも人間は人間であるが故の存在の意味と権利は 人類の共同の責任において確保され尊重されていかねばなりません。そこにまことの平和 もあります。その事をこうした場、機会において訴えたいと思います。終わりにこの会場で綴った一番新しい詩をご紹介したいと思います」と言って、先の詩を読まれたのでした。


耐えがたい苦難が次々と襲い掛かる中で、詩に自分の心情を託して発表しながら歩んでこ られた。そのような中で島崎さんを詩をつくることに駆り立てたものは何だったのか?

き っかけは小学校の校長先生だったそうです。クリスチャンの教育家で長野県の教育をリー ドした方が常に、「らしく生きることが大切。松は松らしく。大人は大人らしく。子ども は子どもらしく。人間は人間らしく。」といっていた。

その教えを聞いて、島崎さんは「 私は私らしく生きればいいんだ。」と思い、そこから自分の運命を呪わず、ひがまず、ありのままの自分を大切にする生き方を選びとっていく旅を歩んで行かれた。

私たちも「私 は私らしく生きればいいんだ」とよく言われるわけですが、簡単には手に入りません。や ろうと思っても又元の自分に戻ってしまう。恨まないと思っても恨んでしまう自分。比較 しないと思っても比較してしまう自分。呪わないと思っても人を呪わずにはいられない。

島崎さんも私たちと同じようにそれと闘いながら詩を作っていかれたのだろうと思います 。

同じ詩集の中の別な詩です。

【双生児】、[みずからの記憶にない 大人たちのかき混ぜ た錆びた「罪」の産湯を浴び 今、一つの腰の幹に繋がれた兄弟が 地球の上で目覚めて いる。ベトくんと ドクくんと 共有の二本の足はふるえ、まだ三ヶ月の光を分かち合っ ているのだ。]

ベトナム戦争の時、アメリカ軍が散布した枯葉剤のせいで沢山の障害を持った子供が生まれました。ベトくんとドクくんが日本に来て分離の手術を受けたのを記憶 している方もいると思います。何の罪もないのに戦争の惨禍を小さな命がまともに受け取 ってしまったのです。

しかし、この詩はアメリカに批判や避難やを浴びせているわけでも、責任者を糾弾しているわけでもありません。

この私たちから見たらどう考えてもかわいそうな憐れな命でしかないのだだけれど、彼らは「まだ3カ月の光を分かち合っている。」自分にも注がれている神の愛の光に島崎さんが気付くことができたからこそはそう言えるのです。アメリカが悪い、運命が悪い、人間は罪にまみれているといった主張だけでな く、どうしようもない状況の中にある命にも神の光は表れている、と詠んでいる。

家庭的 に、身体的に、無理やり負わされてしまった運命の中に置かれたとき、人はやはり問いま す。「なぜ自分は生まれてきたのか?」「生きる目的はあるのか?」「生きる価値は本当 にあるのか?」周りと比較したら、そういう価値があるとはとても思えない中で、どうい うふうに私は私らしく生きたらいいのか?

島崎さんは、福岡で1919年に自主決定にあらず してこの世に生を受けられました。私たちは誰も自分で生まれる時を選んで生まれてこよ うなどということはできません。障害を持って生まれてこようと思ったわけでもないわけ ですよ。また、こういう才能を持って生まれてこようと思ったわけでもないわけでしょう 。

身体的不自由さ、生い立ちの不遇さ、泣こうがわめこうがどうにもならぬわが身に降り かかった不条理。こういう自主決定にあらざるものを怒り嘆き呪う迷いの中を通り抜けて 、<皆堪えていると>島崎さんは言った。そう島崎さんが受け止めるまでどれほど長い心の 旅路をしたことでしょう。そして賜った物が命の泉の重さと表現されるほどに、私たち一 人一人を生かしている神の命、その命があふれている、泉のように。その重さを気付くま での島崎さんの心の旅路の途方もない長さは私には到底思いが及びません。その命を皆堪 えていると言った言葉に、人生の困難に堪えているのは私だけじゃないんだ。命の泉の重 さを与えられているのはみんなも同じだ。私だけが特別じゃない。皆がそうなんだ。

島崎 さんはそこまで突き抜けて行かれたのです。ベトくんとドクくんをただかわいそうと見る のではなく、そこにも光を見るそのまざなし。しかしそこに至るまでには、どれほどの苦 しい自分との戦いがあったでしょうか。

島崎さんという存在は、私たちがどんなに不幸が重なりあったとしてもそれだからといっ て、あきらめてしまう必要は全くないことを教えるためにあったのではないかとさえ思い ます。

神は私たちを選び分かち、これ、と思って今日ここに皆さんをお連れ下さったんで す。その事になんの間違いもありません。

重荷を負わされたと思うと私たちはそのことで 歪んでいったりするものかもしれません。それもまた人間の一つの姿であり、よく目にす るものです。

しかしそこからなお神の光の方向へと向き直り向き直り歩んでいく、そうい う中で私たちの信仰が本当に深められていく。神は私たちにその事を求められておられるんじゃないでしょうか?あの12弟子たちは、失敗しました。比較して妬みが生まれそして 裏切りが生まれていきました。

だけどその失敗の後、復活されたイエスさまはもう一度その一人一人に会って、使命を与えていかれた。しかし、それでも弟子たちはその後もくり 返しくり返しおそらく同じ失敗を繰り返しただろうと思います。

私たちも同じです。失敗を繰り返しても必ず立ち返る所があります。それは、わたしたちはみな、神様がこれ、と 思って選びとられたものという点です。あの人と比較してあれが少ない、これが少ないと 言いたくなる時もあると思います。言ってもいいのです。言っても神様は怒らないですよ 。だけど、その後が大事です。本当のところは何なのか?本当にイエスさまは私たちをエ コひいきしているのか?

そうじゃないことに気づくのには、だいぶ修業がいると思います 。信仰にはやはり修業がいるのです。

一方的な恵みをいただいたからこそ私たちはそれぞれの歩みの中で島崎さんが辿られたような信仰の旅路をたどらねばなりません。自分自身 は何の不自由さも持ち合わせておらずとも、自分の家族にいろんな障害があることもあり ます。

私も両親どちらも癌という病を得て、私の信仰が試されているんだなと思います。 しかし、その時私たちがどっちの方向を向くのか、もう駄目だっていう事になるのか、そ うではなく、どんな逆風のなかであったとしても神に祈って、ますます祈りを熱くしてい きたいなと思います。神に選ばれ、これと思って選び出され、神に愛されている者として、常にこの基点を外すことなく、外してもすぐにそこへ立ち帰りつつこの週の歩みをして いきましょう。

お祈りをいたします。
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2014年
5月18日
「生かされていることの幸い2」
   ルカによる福音書12章13節~21節


『聖書箇所』
12:13 群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」

12:14 イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」

12:15 そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」

12:16 それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。

12:17 金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、

12:18 やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、

12:19 こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』

12:20 しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。

12:21 自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」
メッセージの勘所
先週『思い煩うな』という主のお勧めを私たちは聞きました。でも何度聞いても忘れてしまうのです。それを忘れていることすら忘れて思い煩うという無限の輪の中に自分が取り込まれてしまっているように思います。どうやったらこの輪の中に取り込まれずに済むのでしょうか。それは自分で自分に『これだけ稼いだら安心だ』説教を止めることです。稼いだ金でなく、神を自分の財産とするのです。
メッセージの要約
先週話した[思い悩むな]という聖書の箇所は、ルカでは今日のこの話しの次にでてきます。[思い悩むな]の話しの前にルカ12章で4つのことをイエス様は群衆に語られています。

たとえば「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方を恐れなさい。5羽の雀が2アサリオンで売られているではないか。だがその1羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな、あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」と言われていますし、また別の箇所では、「人の子の悪口を言う者は皆許される。しかし聖霊を冒涜する者は赦されない。会堂や権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは聖霊がそのときに教えてくださる。」とそのようなインパクトのある話しをされています。

そんな中で突然、群衆の一人がイエスに言います。「先生、わたしに遺産を分けてくれように兄弟に言ってください。」

イエスが話しておられる間、この人はいったい何を聞いていたのでしょうか。おそらく財産分与のことで頭が一杯だったと思われます。

昔は私も信徒として牧師の話を聞いているときに、思いがよそに飛んでいったことが多々あったように思います。それまでの一週間で自分が不当に扱われたこととか、人から傷つけられたこととかが頭をめぐったことがあったなぁと思います。

この人が自分の財産分与のことを持ち出し、イエス様に自分の味方になってほしいといいだしたように、ある意味、私たちもこの人のように自分のことしか考えていないではないでしょうか?

イエスは彼に言われました。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」そしてさらに、「貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできない。」と。

この人は今人生の分岐点にたっているように一見思われます、裕福に過ごせるか否かの。しかしイエスはこの人に「貪欲に注意しなさい」と言われました。言い換えればイエスはこの人に「あなたは貪欲だよ]と言ったのと同じでした。

しかし、この人にとっては貪欲なのは遺産を握りしめて、自分に分けてくれない兄弟の方であって、自分は被害者だと思っていたことでしょう。私たちも、自分を神様に慰めてもらう側に置いて、相手が神様に罰せられるのを願っていることが多いのではないでしょうか。

そう、ですからこれは他の誰かのことでなく、私たちにも言われていることだと心にとめなければいけません。私たちは色んなことで、これもあれもないといけないと思い込んでしまう貪欲さを持っていないでしょうか?

あの人はあんなに恵まれているのに、不公平だ、なんで自分だけこんなふうだろうと。そんな気持ちが際限なく起こって来て、これまでの人生その繰り返しだった、そしてこれからもそういう人生をしかたがないものだとして、歩んでいこうとしていないでしょうか?

貪欲というのは、ただ自分が持っていないものを欲しがるだけではありません。有り余るものを持っていながらも、なおもっと欲しいというところにあるのではないでしょうか?いや、自分は持っていないと思われるかもしれませんが、本当にそうでしょうか?いやあの人と比べれば持っている内に入らないと言いますか?

そう、私たちは人と比べるのです。そしてそこから、不公平だ、なんで自分はこんななのだと堂々巡りの無限ループに追い込まれていくのであります。

そんな中でイエスは彼にあるたとえ話しを語られました。

「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちはどうしよう。『作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。『さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。一休みして、食べたり、飲んだりして楽しめ』と。」

豊作でしまっておくところがないから倉を建てた。それ自体は賢いやり方ですよね。そのような知恵は必要だと普通は思うでしょう。しかし神はその人に言われます。「愚か者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物はいったいだれのものになるのか」と。一見賢い生活設計をしているその人を愚か者だと神様は言われるというのです。確かに、どんなに財産を持っても、寿命は伸ばせず、いつ自分が死ぬかさえわからないのが私たちです。

しかし自分の命がいつ取り上げられるかわからないという言葉だけをとって、びくびくしながら生きなさいと言われているのではありませんし、何をやっても無駄だと考えなさい、そしてどうせ死ぬのだからと開き直って生きなさいと言われているのでもありません。

では、この人の問題はどこにあったのでしょうか?「どうしよう、作物をしまっておく場所がないと思い巡らし、言った『こうしよう、倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに、穀物や財産をみなしまい、自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり、飲んだりして楽しめ」と』」

問題は彼が自分で自分に喜びを与えようとしていることです。

彼は自分で自分自身に説教していたところに問題がありました。神の言葉を聞くのではなく、自分で自分に喜びを語り、それで自分を満足させようとする。つまりイエスの言葉に耳をふさいでいたことです。

先週のメッセージで入院したある女性の3日間のできごとをお話ししました。癌を患って、見習いの看護師にきつく当たっていた女性はカウンセラーのシスターに「私は1週間でこれだけよくなっていくというしるしがほしいの」と言いました。しかし、シスターは「1週間とか10日とかは今のあなたにはもう遠い日よ、まずは毎日をしっかり生きてみない。たとえば、今日もしっかりやりますからよろしくと看護師さんにあいさつをするとか。あなたは私と似ているでしょう。仕事にしっかりと生きてきたもの同士、だからそのしっかりと生きてきた思い出を枯らさないようにしてほしいの、それが一日一日をしっかり生きることではないかしら?」

私たちは、自分に対して、つい慰めがほしくなる、約束、保障がほしくなる。だから一週間たったら物事が改善してほしい、そういうしるしを誰かが与えてくれたら頑張れるのにとか思いたいのです。

この聖書に出てくる愚かな金持ちの人も自分で自分にこれだけ準備したら未来永劫安全だと言っていますよね。なぜなら穀物が一杯だから。

しかし、イエスさまが言われたように、そういうものは私たちの命をひと時でも長らえさせる保障にはなりえないのです。穀物だけでなく、全てのものがそうです。にもかかわらず、私たちはそう思いたいのです。

あの子がこうなってくれたらとか、自分がこうなれたらとか、そういうことで、自分を慰めようとしたり、励まそうとしたりします。そして、いつも思い描くのは未来のこと、ああなったらいいのにとか、もっとこうなったらとか。そして、それと同時に思い巡らすのは自分の過去のこと。過去と未来を行ったり来たりして、[現在]がなくなってしまっています。現在を生きているのに、いつも過去のことを悔やんでいるか、未来にこうなっていらいいという願いの中で今をやり過ごしてしまうわけです。

自分で自分に説教するということはまさにそのような恐ろしいループの中にはまり込んでしまうことを意味しているのではないかと思うのです。

私たちの命を支えてくださっているのはイエスの命です。神のみ心であり、愛です。

私たちがそのことに信頼して、色んなことが解決したら喜ぶのではなくて、どんな問題が私たちの前に存在していようとも、神の愛とその計画は今も私の上に常に十全と成り立っているのだ。そういう中から私たちが力を得ていくことができるなら、どんな時にも、今を感謝していくことができるのではないでしょうか。

将来を考えることが悪いというのではありません。でもここで言われているように、私たちは貪欲に気を付けないといけません。それは私たちが気付かないうちに貪欲になっているからです。

では、気付くのが難しいものに、どうやったら気付けるのか。それはやっぱり、教会にきて、み言葉を聞くことです。自分にとってはぐさっとくる言葉かもしれませんが、そのようなことがなければ、私たちは本当に目を覚ますことが難しいからです。

この男性はイエス様から貪欲に注意しなさいと言われ、俺は貪欲か?と怒りさえ覚えたかもしれません。この言葉は彼に対して、また群衆に対して言われたわけですから、私たちにも言われたのだとして真剣に考えてみなければなりません。ほんとに自分は自分の人生の基礎をどこに置こうとしているのかということを。

「自分のために富を積んでも神の前に豊かにならないものはこの通りだ。」自分の中で神の言葉をさえぎったり、あるいは脇に押しのけたりして、私たちの中に常に起こってくる未来への不安とか過去の後悔とか誰かへの不満とか、そういうものに目を向けるのが人間であります。

だからこそ、その中に筋を一本通していかなければならないのではないでしょうか。神の言葉が押しのけられている、イエス様はそれが貪欲なのだと言われます。あなたの中をいったい何で満たそうとしているのか、神の言葉を押しのけて、あなたは何を立てようとしているのか。そのことをしっかり聞いていかねければならないのではないでしょうか。

お祈りしましょう。
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2014年
5月11日
「生かされていることの幸い」
   マタイによる福音書6章25節~34節

メッセージの勘所
「今、世界全体で『炉に投げ込まれる』ことへの恐怖が広がっているように思います。『今日は生えていて』も、自分が生きていることに実感も喜びも見出せないと言う叫びをあちこちで耳にするのです。
それがさらに自分の先行きへの不安を駆り立てるのでしょう。確かに生きていくことは過酷です。私自身職業柄、何の不安もないかのように見られることがありますが、とんでもない。現実におびえ震えては、主に叫ぶ、それのくり返しなのです。
メッセージを聞く

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2014年
4月20日
「弟子としての覚悟」・・・(イースター礼拝)
   ヨハネによる福音書21章15節~19節


『聖書箇所』
21:15 食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。

21:16 二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。

21:17 三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。

21:18 はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」

21:19 ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。
メッセージの勘所
『私を愛しているか』を主は三度もペトロに訪ねられました。ペトロに『はい』以外の答えがあろうはずもありません。でも、イエスを愛するということがどういうことかを彼に、そして私たちに示すためにイエスはあえてそう訪ねられたように思います。イエスは言われます。『私を愛すると言うことは他人に帯を締められて、行きたくないところに連れて行かれることだ』と。行きたくないところ、やりたくないと思えるところに、主の僕の生きる道はあると言うのです。」
メッセージの要約
こんなにすばらしいイースターの朝を迎えられることを感謝しています。

今朝、主に従う者として、主をキリストと信じる者として、キリストを愛する者としての心備えを、み言葉を通してなしていきたいと思います。

ペトロという人、その人がどんな人か、聖書の中に幾度となく名前がでてくるので皆さんもご存知でしょう。すごい信仰の人かというと、そうでもなく、何度もイエスからいさめられたりしました。「あなたが行かれるところには、どこまでも着いていく。」と言い切ったかと思うと、イエスの裁判の場面では、「私はイエスなど知らない」といって、裏切り、イエスを見殺しにしました。自分が裏切った相手が、何の罪もないのに、殺されていく、そういう経験をした人の気持ちはどんなだっただろうか?と思います。

そういう出来事と折り合いを付けるということはできるのでしょうか。<おまえは、裏切り者、偽善者、生きている価値なし>という声が自分の内側から沸いてくるのは耐え難く苦しいことでしょう。押さえつけようとしても決して逃げることができず、何かで取り繕うこともできず、誰かが自分の化けの皮をはがしてしまうのではないかと恐れたことでしょう。

そんな中、イエスは蘇られました。しかし、ペトロの心のうちまで、リセットされたわけではなかっただろうと思います。むしろ、自分はその人から復讐されるかもしれないと思い、復活されたイエスに出会ったとき、弟子たちがそうであったように、おそらくペトロも恐れただろうと思います。

そんなペトロにイエスは言われました。「ヨハネの子シモン(ペトロのこと)、この人たち以上にわたしを愛しているか。」

イエスさまは、「所詮人間は罪深い者だから、あなたたちにそんなに期待していないから何も気にしなくていいよ」とは言われませんでした。また「そのことには触れないでおこう」とも言われませんでした。これらは、むしろ人を上から見る目線です。イエスは、そのような形で私たちと関わろうとはされませんでした。むしろ、「わたしを愛するか」と真っ向から問われました。これは、言い換えるならば、「あなたの苦しみを自分も分かち合う」というイエスの宣言です。生前もそうでしたが、イエスがとられた態度は、上からおまえを引き上げてあげようというのではなく、一緒に苦しみを分かち合うという姿勢でしたから、復活されたあとも同じだったのです。

さて、愛するか?と言われても、ペトロは、かつて三度、「イエスのことなど知らない」と言った人です。それはイエスとは無関係だと言ったのと同じことでした。マザーテレサの言葉に<愛の反対は憎しみではなく、無関心だ>というのがあります。だから、イエスは「私を愛するか?=私との関係を持つのか?」と問われたのです。

ペトロにとって、この愛するという言葉は自分から最も遠いところにあることばだったでしょう。自分からは二度と口にできないような言葉でした。しかし、イエスはその言葉をペトロになげかけられたのです。「わたしを愛するか」。「わたしはおまえとの関係を持ち続ける。どんなときも、この関係を私から切るつもりはない」とイエスはそう宣言されました。イエスはペトロの三度の否認に対抗するかのように、三度、「愛するか」と繰り返し問われました。

しかし、ペトロには、愛するかと問われても、「はい、愛します」とは言えない自分がいることを知り抜いていましたから、はいとは言えませんでした。だから、「それはあなたがご存知です」というほかなかったのです。しかし、それは私たちすべての人間に当てはまる真理だったのです。私たちがイエスを愛する確かさは、わたし側にあるのではなく、イエス様ご自身のうちに、私たちを知り抜いて下さるイエス様の愛の中にあるのであって、私の真心や、誠意の中にあるのではないのです。

イエス様への信頼は、深い悲しみを伴うものであることを私たちは覚えねばなりません。

その愛は罪の自覚も伴い続けています。だからペトロもこの問いを受けたときに悲しくなったのです。愛というと、喜びにあふれて、自分のうちから湧き出てくるもののように思っていますが、イエス様がおっしゃる愛は、悲しみが益々深くなるところで、満ち溢れるものなのです。

自分のうちから湧き出てくる愛は、一方通行、自分に都合のよいものであることが多いのではないでしょうか。ペトロもそれにつまずいたのです。自分はできる、どんな状況があろうと、たとえ死の淵までも自分はイエスについて行けると宣言したのですから。

しかし、イエスの下さる愛は罪の自覚を伴い続けるものです。その罪を悔い改め続ける悲しみが伴い続けるものだといったほうがいいかもしれません。

私たちはイエス様を信じますといっても、それで人生がばら色になるわけではないのです。むしろ深い悲しみや、不安や恐れの中にイエスの愛がじわじわと染み出てくる、そういう体験をしていくのです。

この悲しみを忘れたときに、イエスに対する愛も、それに根ざしているという隣人に対する愛も虚しくなってくのです。

イエス様は、ペトロに、弟子たちに、そして、私たちの心に、このことを深く刻みつけるために、ペトロに対してこのような問いを三度発せられたのではないでしょうか。

それでは、主を愛するとは具体的にはどういう態度をとるかということを、次に見てみましょう。

18節、「あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れていかれる。」

これは若いときと、老人になったときのことを語っていると取ることもできます。しかし、この言葉はそれ以上のことを示しているように思います。

主を愛するとはどういうことか?それは、<他人に帯をしめられて、行きたくないところに連れていかれるということだ>と。私たちは自分のしたいことをすることが人生の意味あることであり、目的であるとそう思っているところがないでしょうか。心にストレスを感じることなく、自分のやりたいことをやることが幸せなのだとだと良く耳にします。しかし、そういいながらも、それが自分の価値観や正義観を相手におしつけることだったり、押し付けていることもわからずに、相手を見下したり、虐げる。そんなふうに私たちの愛はなっていないでしょうか?

私たちは、そのことをもう一度心に聞いてみなければなりません。イエス様は自分で帯をしめて、行きたいところに行く生き方ではなく、他人に帯を締められて、行きたくないところに連れていかれる、この生き方を貫きなさいとおっしゃっているのではないでしょうか。

この言葉は私自身ぐっとひきつけられている言葉です。あなたは他人に帯をしめられて、行きたくないところに連れていかれる。牧師として、この教会で自分のやりたいことをやりたいなぁと思わないことはないのです。しかし、その度に、この言葉を心に思い浮かべるのです。あなたは自分のしたいことをしたいだけなのじゃないの?と。イエス様は何を望んでおられるか?そう問われるのであります。帯を締められて自分の行きたくないところに行く、自分の人生がこの一句にまとめられるような人生にならなくてはいけないのではないか?私のこだわりのようですが、やはりそう思うのです。
人生を方向付ける言葉はやはりこの言葉だなぁと思います。

前回、分水嶺の話をしましたが、一方は、自分で帯をしめて行きたいところに行く道、私はそういう結末がどこに行き着くか、自分で体験しました。皆さんもそうではないですか?やりたいことが、ほんとうに自分を生き生きとさせ、また他人をも喜ばせるものであっただろうかと思ったときに、そうでなかったことが多かったのではないでしょうか?一方の道は、やりたくないなぁ、なんでこんなことしなければならないのだろうと思いつつもしぶしぶやっていくとき、後で受ける実りは、自分の思いをはるかに越えたものであったと思うような道。

イエスは、ペトロにそういう生き方の転換を求めておられるのだろうと思います。

これを人間の基本の生き方にすることには、抵抗を覚える方もおられるかもしれません。

キリスト教は仏教より厳しいなぁと。

しかし、その厳しさ、試練は薄まることはありません。むしろ、増していくでしょう。だからこそ、イエスキリストが必要なのです。イエスはどんなときにも見放されません。

エゼキエル書18章23節に「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか」という言葉があります。「悪人の死を喜ばない」という意味です。悪人が悪人であるゆえに滅びたとしても、決してそれは神の責任ではない、それは本人の責任だというのが、私たちの世界のあり様です。しかし神は悪人、悪人がですよ、死ぬことを喜ばないと言われるのです。

また31節~32節には「お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」とあります。イエス様は誰の死をも喜ばないのです。私たちが無為に滅びることを決して喜ばれません。

このような神のご意思を信じるからこそ、私たちは私たちの歴史の将来になお望みを持ち続けることができるのです。だからペトロにも愛しているか?と尋ねられたのです。その場から愛するかと問われます。それは滅びるな、私はおまえとの関係を絶対に断ち切らないというイエス様の宣言です。だから「そこから立ち帰れ」と言われます。イエスを裏切った分を何かで補ったのちにではなく、そこから立ち帰って、わたしに従いなさいと言われています。

私たち一人一人の歩みについても、私たちがのぞみを失わないでいられるのは、自分の滅びと死が神の意志ではないと信じることができるからです。それを示すために神はイエス様を蘇えさせられました。

自分を責めたペトロにイエスは、そうやって語りかけられたのです。

エゼキエル書が語っている、神の徹底した救いのみこころは、イエスキリストの上に現されています。イエスのキリストの十字架と復活の上においてです。この愛の心ざしはどんな裏切りを目にしようとも決してひるむことなく、私たちに真っ直ぐに向って来られるものです。どんなに神から離れていようとも神の関わりは絶たれることはありません。

イエスは決してペトロをしくじったままにはしておかれなかった。私たち一人一人に対してもそうです。私たちを一人きりにされることはありません。だからイエスから頂く愛、イエスに根拠を持つ愛を持って行くのです。

私たちの愛には限界があります。すぐに頓挫します。しかしイエスの中の愛を頂いていくのであれば、どんなに挫折しても、わたしたちがそれによって完全に崩れてしまうことはありえません。神の愛はそのときにはまた違う方向にいくのです。そして私たちはそのことによって少しづつ強くされるのであります。

これが今日、イースターの礼拝を通して、主から受けていくことです。

私たちの愛は、他人に帯をしめられて、行きたくないところに行く愛である。それは了承したくないかもしれませんが、そのことを是非心に留めてください。

家の中で、職場、学校で、そういうことに行き会うことが起こってきます。その時、逃げないでイエスが言われる道を歩めとおっしゃっています。イエスの愛が私たちの内にあるのですから。

お祈りしましょう。
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2014年
4月13日
「努力することゆだねること その3」
   ルカによる福音書9章18節~27節


『聖書箇所』
9:18 イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。

9:19 弟子たちは答えた。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」

9:20 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」

◆イエス、死と復活を予告する

9:21 イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、

9:22 次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」

9:23 それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。

9:24 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。

9:25 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。

9:26 わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。

9:27 確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる。」
メッセージの勘所
先週わたしたちはルカ18章から、一人の議員が御言葉に従う営みを続けてきたにもかかわらず、永遠のいのちに自分は到達できるのだろうかという不安を抱いたという記事を扱いました。なぜ彼はイエスを訪ねて聞かずにはいられなかったのでしょうか。それは彼に喜びを与えるのが他人の評価だったからではないでしょうか。自分を他人にゆだねていったいどうして真の喜びや平安を得られるでしょう。イエスが私たちに自分の十字架を負えと言われる理由がここにあると私は思うのです。
メッセージの要約
「受難週に入りました」という言葉を聞くと、自分も少しは聖書を読まなくてはと急に襟をただす方がおられるかもしれません。

受難週はクリスマスを待つのとは少し違う感じがあるかもしれません。私たちの信仰にとって、イエスの苦しみと十字架から復活に至る一連のあゆみがいかに決定的ものであるか、大事なものであるのかを、その意味が十分には分からなかったとしても、日々しっかりとみ言葉に聞いて受け止めていきたいものです。

ルカ9章18節~36節はイエスの人生の分水嶺だと言った説教者がおられます。

たとえていうならば、山の頂で水が日本海に流れるか、太平洋に流れるかの分かれ道になるところです。ですから一番高い、頂きにあたるところでもあるわけです。頂きといったら、十字架と復活ではないかと思われるかもしれませんが、ここからイエスの苦難の歴史が始まっていくという点で頂きといえます。

私たちにとって、決定的な歩みがここから始まっていくという意味でまさしくここは分水嶺なのです。

ここの箇所は[ペトロ信仰を言い表す]というタイトルがつけられたところで、イエスは弟子たちに「群衆はわたしのことを何者だといっているか」と問われました。

弟子たちは答えます。「洗礼者ヨハネ(ヘロデにより首をはねられていたヨハネの生まれかわり)や、エリヤ(生きたまま炎の馬車に乗って天に昇っていった人)、昔の預言者が生き返ったもの」と。他にもイエス様は、マリアの子、大工の息子、預言者の一人と呼ばれました。

では「あなたは私を何者だというのか」とイエスは私にも教会にも問いかけておられます。

ペトロが答えます。「神からのメシアです。」メシアとは、油注がれた者という意で、ギリシャ語ではキリストと言います。日本語では救世主といいますが、救世主というと、何かヒーローのように思いがちなので、少し誤解をうみそうですね。

イエスはさらに弟子たちに次のように言われました。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」と。

イエスはメシアとは言われず、ご自分のことを「人の子」と言われました(22節)。

この時点で、人間の知恵でもって、イエスの正体を言いえたものは一人もいませんでした。

私たちは色々なことをああだこうだというけれど、それを手にいれたと思った時に、するっと手の中からぬけていくことを経験したりしますが、人間の認識では誤解が生じやすいものです。

人は分水嶺の下からしか山を見ないので、山の向こう側は見えないからです。見えないからこそ、向こう側がどうなっているかを知りたくもなります。

先週の[金持ちの議員]の話でも、金持ちの議員は律法を守ることで山を越えることができると信じていました。しかし、心に喜びと平安がありませんでした。あなたの財産を貧しい人々に捧げることがあなたの見たいものを見る道だとイエスは彼に言われました。

しかし彼は、悲しみながら去って行きました。

ここでも弟子たちが聞いたことばはまったく彼らのメシア像とはほど遠いものでした。

22節「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」メシアの歩みは上に上がっていく道ではなく、苦しみを受け(受動態)、排斥され(受動態)、殺され(受動態)、復活する(受動態)、とすべて受動態で書かれていて、自分で何かをするのではなく、人によって何かをされるのをひたすら受けていく人生でありました。

イエスが十字架にかかられる場面でも、議員や兵士たちから、「神ならば、十字架からおりて自分を救ってみよ」と言って侮辱されました。

ペテロさえも「あなたは神のメシアです。」と言いましたが、そのペテロがどうなったかは皆さんご存知です。彼のメシア像もまた、人々から迫害され苦しみを受ける、受動態の救い主像とはほど遠いものでした。

キリストは手に剣をもって、ラッパを吹き鳴らして、敵をバッタバッタとなぎ倒すような方ではなかったのです。

イエスは神に従ったゆえに人間にもてあそばれ、惨めな扱いを受け、殺害されました。
「あなたがたはわたしを何ものだというか」という問いは、[そこにあなたは本当に神の救いの道筋を見るのか?]との問いであります。あなたは神の救いをどこか他のところに求めていないか?私が神の子、キリストである。私がたどっていく道筋に神の救いの業をみることなのだと言われました。あなたはそんなところに神の救いの道はないと思われるかもしれません。しかし神は私をとおして、救いの道をお示しになったのだと言われました。

その時、弟子たちの中にはイエスの問いかけを正しく理解した者はいませんでした。

そして全員イエスから離れていきました。

しかし、やがて、イエスというその山、峰を越え、その向こうに道を見出す人達がでてきます。絶望の淵に沈んでいたが、復活のイエスと出会って、イエスに励まされて、「そうだった、かつてイエス様はちゃんと語っておられた」ということにを見出して、イエスの死という峠の先に真の救いの道を見出していく人たちが現れはじめるわけです。

十字架にかかったイエスにすべてお任せすればいい、イエスにゆだねなさいと言われます。それも大事です。私もイエスにゆだねるしかないという状況を何度も通ってきました。

しかし一方で、23節にあるように、それと反対と思われるようなことも言われました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」と。

イエスは、あなたがたも自分の十字架を負え、私のために自分の命を捨てよとはっきり言われました。一方では私にゆだねればいいと言われ、一方では、自分の十字架を負って私に従えと言われる。なんか矛盾してないかなと思われるかもしれません。

おそらくこのことはキリスト教の歴史はじまって以来問われつづけていることです。

命を捨てなさいとは英雄のよう生き方をしなさいと言われたわけではありません。

イエスは日々、自分の十字架を背負いなさいとおっしゃいました。十字架を背負うことは日々のことなのです。私たちの毎日の中に十字架を背負う歩みはあるのです。どこにありますか?私たちは誰かと共に生きています。そして誰かと共に生きるということはいろんなことがおきます。傷つけられたり、理解してもらえなかったり、悪口さえいう人達がいますが、そういう人達を愛することです。

愛せなくても少なくとも嫌いにならないこと、それだけでも十字架を負うことです。大きなことを背負うのではなく、身近なことのなかで十字架を負うというあゆみの中を生かされていくのです。

自分に利益があるうちは喜んでイエスに従うというときが自分にも多々あったなと思います。

しかし、思うようにいかないと、自分を捨てないで、他人を捨て、信仰を捨てる。ある方からそう言われたこともあります。私たちはあの人が悪い、神が悪いと責任転嫁をしがちですが、そうではなく、自分を捨てて、自分の十字架を負って、生きなさいと言われているのです。

ハイデルベルグ信仰問答というものの中に次のようなものがあります。

信仰を持って生きるとはどういうものかを問答形式で明らかにしているものです。

第1問「生きているときも、死ぬときもあなたのただひとつの慰めは何ですか」

  答「私が身も魂も、生きているときも死ぬときも、私のものではなく、わたしの信じる救い主イエスキリストのものであることです。」とあります。

命を失うとか、自分を捨てるとかいうと、自分にはできない、自分とは程遠い世界に思われるかもしれませんが、それは私がいったい誰のものであるか、私が自分の中でそのことをどう受け止めていくかということです。

私はキリストのものなのだ。キリストの者とはキリストに愛され、見出され、救われているものだということです。自分が自分に対して、価値がないと思えるときでも、キリストは「あなたは私の愛する弟子、高価で尊い」と言ってくださいます。そのイエスキリストに唯一の慰めを見出していくことです。人の言葉や、自分のもっているものにではなく、キリストに唯一の慰めを見出していくことです。

27節には、「神の国を見るまでは決して死なない者がいる」とは、再臨のことを言っているとの理解があります。それも間違っていませんが、この文脈からすると、十字架と復活のただ中に、苦難のただの中に救いの道を見出していくものがあらわれると解釈することもできます。

死なないものがいる=神の国をみるものがいる、それは自分の十字架を負い、自分の試練から逃げない、人を愛することに困難を覚え、自分を愛することにも困難を覚える、そういう中でも自分をあきらめない、神に信頼し、従っていく、その中に真の命に通じる道があるということをしっかりとわきまえ、つかまえていくということであります。

お祈りしましょう。
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2014年
4月6日
「努力することゆだねること その2」
   ルカによる福音書18章18節~30節


『聖書箇所』
18:18 ある議員がイエスに、「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねた。

18:19 イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。

18:20 『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」

18:21 すると議員は、「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。

18:22 これを聞いて、イエスは言われた。「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」

18:23 しかし、その人はこれを聞いて非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである。

18:24 イエスは、議員が非常に悲しむのを見て、言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。

18:25 金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」

18:26 これを聞いた人々が、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言うと、

18:27 イエスは、「人間にはできないことも、神にはできる」と言われた。

18:28 するとペトロが、「このとおり、わたしたちは自分の物を捨ててあなたに従って参りました」と言った。

18:29 イエスは言われた。「はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、

18:30 この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける。」
メッセージの勘所
裸の自分、それが今日のポイントです。この議員は努力して得てきたものを捨てろと言われたとき、自分がしてきたことも含めて、彼自身を否定されたと思ったのではないでしょうか。それほどに私たちは、自分の積み上げてきた経験や財産と自分を取り違えてしまうのです。
だから『持っている物をすべて』と、おっしゃったのでしょう。どんなにすばらしいものであったとしても、あなたと神との間を隔てるものであれば、ただのがらくたでしかないのです。
メッセージの要約
今日の箇所も有名な箇所です。タイトルは「金持ちの議員」となっています。そのタイトルの下に(マタイ19:16~30と、マルコ10:17~31)と書かれているのは、この記事と同じ記事がその箇所にでているので参照してみてくださいということです。

参照してみると、マタイのタイトルは「金持ちの青年」マルコのタイトルは「金持ちの男」と違いがあることがわかります。

マタイは「青年」と年齢のわかる言葉を書き、ルカは「議員であった」とその人の立場を明らかにしている点が違っていますね。著者の関心の違いなどがそのようなところからもわかるでしょう。

さてルカに戻りましょう。この箇所は私が若いころ、痛快で好きな個所の一つでしたが、時がたつにつれて、この記事の持っている深みと迫ってくる視点が変わってきました。

この人が議員であったということは権力と名誉を保持し、ユダヤの政(まつりごと)にも深く関わりをもっていた人物だと思われます。

大勢いた議員の中でこの一人の議員がイエス様を訪ねてきたということには大きな意義があります。

彼はイエス様にこう尋ねました。「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」

イエスは答えられます。「なぜ、わたしを『善い』というのか。神おひとりのほかには、善い者はだれもいない。」

イエス様は彼の発した中の一つの言葉、『善い』についてこだわりを持たれました。

普通なら、いえいえ、わたしそんなに善くも偉くもありませんよという返事が返ってくるところかもしれません。

しかし、イエスはこのことばの中に、この議員の感性というか、落とし穴を見つけられました。

それは彼が人を見るときに、自分の中で序列づけてみているというその在りようを見られたのだろうと思います。

「『善い』と言われるお方は神の他にはおられないのだ」。とイエスは答えられます。色んな人がいても究極的に神の前では皆同じなのだということをこの言葉は指し示しています。神を前にしたならば、たとえ地位があり、人にほめそやされ、才能があったとしても、私たち人間の存在は小さなものなのだということです。

イエスはそれに続けて、言われます。「『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」と。

議員はすぐ答えます。「そういうことはみな、子供の時から守ってきました。」

これは旧約聖書の十戒の中に収められているもので、議員でなくともユダヤ人なら当然果たすべき務めであり、彼はおそらく、心から、そのような掟は守ってきましたとイエスに言ったことだろうと思います。

それに対しすかさずイエスはこう言われました。「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っているものをすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」

さて、この記事の直前に「子供を祝福する」記事が載っています。これはマタイとマルコによる福音書にも同じようにでてきます。ここではルカ18章15節~17節を見てみましょう。

「イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れてきた。弟子たちは、これを見て叱った。しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。『子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。』」

イエス様はここで神の国に入ることの話をされていますが、これは金持ちの議員の話の中の永遠の命を受け継ぐことと同じ問いです。

神の国に入る人、すなわち永遠の命を受け継ぐ人はこのような人だと直前に既におっしゃっていました。それは子供のように神の国を受け入れる人だと。

そしてこの二つのお話が続いているということは、神の国に入れない人はどのような人かをこの金持ちの議員の話で明らかにされたわけです。

すべての掟を守ってきたと言える人ならば、本来なら、「俺は大丈夫、すべてやってきたのだから」と確信して、自信満々でもいいはずです。しかしなぜ彼はイエス様にあえて尋ねなければいけなかったのでしょうか。おそらく彼は非のうちどころのない生活を送っていたにもかかわらず自分に自信が持てない、心に平安がない、周りに後ろ指をさされないように細心の注意をはらいながら暮らすことに疲れていたと想像されます。心の中に喜びがない自分を感じていたのでしょう。現代でも、お金をどれだけ持っていてもまだ安心できない人が大勢おられるように思います。人生の成功者と思われる人ほど心の中の大きな不安と痛みをかかえていることが、時々事件として報告されたりしますよね。

他でもない私たちも経験があるのではないでしょうか。教会生活こうあるべきと言われて、それを一生懸命やる、奉仕、礼拝出席、色々な集会にも出席して、祈り、献金をして頑張る。しかし、もしそれらが人に後ろ指をさされないためとか、自分の地位を守るためだったらどうなるでしょうか。やはりこの議員と同じように、心の中に喜びが満ち溢れることからはほど遠い世界で生きることになるのではないでしょうか?

議員という立場にあるわけですから、仲間うちから「なぜイエスなんかのところに行ったのだ」と責められることは目に見えているにもかかわらず、それでもイエスのところに来たところには好感が持てます。

少なくとも彼は自分の気持ちには正直だったとは言えると思います。人は自分の不安や心のゆらぎをなかなか人前では言えないものです。ほんとうは不安で一杯一杯なのに、そうでないように取り繕う。「えぇ!そんなこと思っていたの」と思われたくない。人からは「あなたはいつも元気ね、明るいね」と言われたい。おそらくそのような思いがこの青年にもあったでしょう。でも彼はイエス様のところにとにかく来ました。

だからイエス様はこの青年の不安と怖れに正面から向き合って、あなたのむくべき方向はこちらだとその方向を指し示されたのです。

イエスは言われました。「持っている物をすべて売り払い、貧しい人に分け与えなさい」と。

それはこういうことです。あなたが望んでいるものを得る道は、今あなたが持っているものの上に何かを積み重ねていくところにはない。そうではなくて、手放すことなのだ。あなたが握りしめているものを手放すことなのだとおっしゃったのでした。あなたが得たいと思うもの、妨げているものは他でもない、あなたの財産であり、地位なのだと。

しかし、私たちは、すぐ<すべて>ということに目がいってしまいがちです。いやぁ、私にはとてもできないというふうに直結してしまいがちです。

ここで、この話の結末に飛んで考えてみたいと思います。

なぜイエスはここで、彼にまた私たちにとって「それはちょっと」と思われるようなことをおっしゃったのでしょうか。

この人は議員であったので、後日、当然イエスが裁判にかけられていた場面にも同席していたと考えるのが同然のなりゆきでしょう。エルサレムで議員だったというとことはそういうことですから。彼は不承不承であったとしてもイエスの殺害に賛成したと思われます。彼は自分の地位と富を守るためにはそうするしかしかたなかったと言い訳するかもしれません。

何かに執着することが周りの人を苦しめ圧迫することを私たちは知っていますが、彼がイエスと話した時点では、将来イエスの殺害に加担するとは夢にも思わなかったと思います。しかし望んでではなかったにしろ、彼がイエスの殺害に同意したということを私たちは事実として受け入れなくてはならないと思います。自分の手で一人の人間の命をたつことになってしまったのです。

それによって、彼の富と地位は守られたでしょう。

しかし、その後の彼の人生を私想像してみるのですが、「仕方なかったのだ、あの場で自分だけ反対することはできなかったのだ」と自分に言い訳をしながら、しかし一方で取り返しのつかないことをしたという後悔を持ちながらの人生になったのではないでしょうか。辛い人生ですね。

厳しいですが、ここで富と地位に執着することはイエスを殺すのと同じ意味をもっているということを心に刻まなければなりません。

富と地位だけではありません。

イエス様はこのあとに、このようにおっしゃっています。「はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける。」と。どれもわたしたちが捨てられないと思うものばかりですよね。

それってかえってイエス様の教えに逆行するのではないかとさえ思えてきます。

しかし私たちは最初の問いに戻るわけです。「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」

「なぜ、わたしを『善い』というのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。」

この世で神に比べられるものは何ひとつないのです。

そうは言っても、すべてを差し出せていわれてもなぁと思われることでしょう。

さて次の19章にはザアカイの箇所がでてきます。ザアカイはイエス様が「今日はぜひ、あなたの家に泊まりたい」と言われたとき、「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します」と言いました。それに対して、イエスさまは「いや、それじゃ足りない、すべてにしなさい」とはおっしゃらなかったでしょう。この違いがわかりますか。

それはザアカイがイエス様を求めて木にのぼり、呼びかけを聞いて喜んだからです。木に登ったという時点で彼は自分を捨てていたのです。ほんとに立派な大人はそんなことはしないのです。木に登る大人は笑い者の種です。笑われてもいい、彼は自分が沢山のお金を持っていても、誰からも尊敬もされないし、喜ばれもしない、いったい何のために生きているのかわからないといった満たされない思いと不安をイエス様に賭けたのです。だから木に登ったし、イエス様から声をかけられた時点で自分が持ちたかったものをすべて手に入れているのです。だから半分を施しますという言葉をイエス様は喜ばれました。

一方、この議員はイエス様の前に来たということはよかったが、それと同時にイエスと自分の間に安全策をもうけていました。だからすべてを施しなさいと言われたときに彼は黙って立ち去るしかなかったのです。彼はきっと傷つきたくないと思っていたでしょう。しかしそれはイエス様を前にしては余計なことです。

イエスは私たちに何が必要かをご存じですから。

イエス様はそれを遠まわしにではなく、はっきりと言われるのです。「手放しなさい」と。あなたが握りしめているものを手放しなさいと。

どんなにそれが大きく見えようとも、それは神の前には取るにたりないものだ。イエスは私たちにそう呼びかけておられるのです。そしてあなたは私に従いなさいと言われています。

ルカによる福音書には、他に「ファリサイ派の人々と徴税人のたとえ」という記事もでてきます(ルカ18:9~14)が、祈りの中でファイサイ派の人は「自分が不正なもの、徴税人のようなものでないことを感謝します。わたしは全収入の10分の1を献げています」と言う記事がでています。それが10分の2でも3でもできる範囲であったら、彼はできますとおそらく答えたでしょう。それは信仰によるものではないわけで、自分ができるからするだけです。そこに神は必要ない。しかし信仰はそのようものではありません。神はこのようにおっしゃいました。「人間にはできないことも神にはできる」と。信仰とはそういう世界に生きることです。

まず神に信頼する、神にゆだねる。神に聞く。聖書は私たちの努力を決してくだらないものとは言っていません。しかしそれと共にゆだねることの必要性に重きを置いて語っています。どれくらいのバランスかなと思うかもしれませんがそれはそれぞれによって違いますし、私たちは、そのような中で何が神の御心なのかを不安をかかえつつもイエスのところに行って尋ねるのです。

そして、大事なことはイエス様の語られることに幼子の心を持ってハイと言っていくかどうかということです。

イエス様の呼びかけに「ハイ」言えなかった体験を積み重ねながら、しかし「ハイ」と言いたいという祈りを持ってイエス様のところに出て行きましょう。そして、神に愛され、神の子とされた者としての人生を歩んで行きましょう。

お祈りします。
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2014年
3月23日
「隣人、それはわたし」
   ルカ10章25~37節


『聖書箇所』
10:25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生 。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」

10:26 イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでい ますか。」

10:27 すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を 尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛 せよ。』とあります。」

10:28 イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いの ちを得ます。」

10:29 しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人と は、だれのことですか。」

10:30 イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行 った。

10:31 たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過 ぎて行った。

10:32 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。

10:33 ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそう に思い、

10:34 近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せ て宿屋に連れて行き、介抱してやった。

10:35 次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあ げてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』

10:36 この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」

10:37 彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言わ れた。「あなたも行って同じようにしなさい。」

メッセージの勘所
私は聖書の中でいちばん分かりやすいのがこの物語だと思います。ですが、それがかえっ てこの物語に対して恐れを抱かされることになっているのではないかと思います。『この サマリア人のようには私はなれない。』早々とその結論を出してしまっていませんか。も しそうだとしたら福音ではなく、福音の妨げとなっていると言えるでしょう。何でそうな ってしまうのでしょうか。
メッセージの要約
l この箇所にできてくる律法学者は神の律法を実生活にどのようにあてはめたらいいかを研究している律法の専門家でした。
l その人がイエスを試そうとして、尋ねます。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」
l イエスは答えます。「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでい るか」と。どう読んでいるかとはどう唱えているのかとも訳すことができます。
l 読むというと黙読や、本を読むの<読む>と受け取れますが、この時代、聖書が手元にあったわけではなく、どう読むかというのは、自分が暗記しているものをどう唱えているかということだったからです。
l 律法学者や、敬虔な信仰に生きている人達は、律法の主要部分、シェマイスラエ ル=イスラエルよ聞けと呼ばれる申命記にあるその部分を、一日に2回繰り返していました。考えなくても暗証できるほどでした。
l 律法学者は答えました。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなた の神である主を愛しなさい、また隣人を自分のように愛しなさい」
l イエスはそれに対して、「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が 得られる。」を言われます。
l 彼は望んでいた答えを発見したはずです。しかしイエスから答えをもらったにかかわらず、彼は満足できませんでした。
l そして、自分を正当化しようとして、次の質問をします。「では私の隣人とはだれですか。」
l 律法学者はなぜ自分を正当化しようとしなければならなかったのでしょうか。ま たなぜこの人は第2の問いを発さないではおれなかったのでしょうか。
l それはこの人が愛することのむずかしさを知っていたからではないかと思います。また愛することのできない自分に失望もしていたのかもしれません。
l だからそのとおりしなさいと言われたときに、できないとは口がさけてもいえな いし、そんな自分を取り繕い、ボロを出さないために、イエスに第二の質問をしたのでは ないかと思います。
l イエスはそれに対して、一つの物語を語られました。「ある人が、エルサレムか らエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつ け、半殺しにして逃げて行った。たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を 見ると、反対側を通り過ぎて行った。 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると 、反対側を通り過ぎて行った。ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、 近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたい をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナリ二つ を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかか ったら、私が帰りに払います。』 この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人にな ったと思いますか。」
l イエスは誰もが知っている交通の要所でのたとえ話をされます。
l 非常によくわかる箇所。教会学校でもよく取り上げられる箇所です。
l もはや彼もこの他の答えがないとばかりに、「その人を助けた人です」と答えました。
l そこでイエスは言われました。「行って、あなたも同じようにしなさい。」
l その人はもはやそう答えるしかないとある意味観念してそう答えたと思われます 。長年研究してきても、どうしても腑に落ちなかったけれど、このときイエス様の答えが ストンと心の中心に落ちたのではないかと思います。そして、自分も同じように生きよう と決意したのではないでしょうか。
l しかし、私たちは、この箇所をこの律法の専門家のようには受け取らないのです 。頭の中で見ているだけで、それを解釈してしまうからです。
l この話を聞いたあとに、益々、自分を正当化したくなる自分、せざるを得ない自 分がいるのではないでしょうか。
l そして自分はこのサマリア人のようにできない。それは私が悪いのでなく、イエスは私たちにできないことを、すなわち理想を語っておられるのだと安易にすませてしま おうとしていないでしょうか。
l 聖書のみ言葉を聞いたとき、これは理想だ、これはできないとの感想を多く聞きます。確かに、右のほほを打たれたら、左のほほを出しなさい、敵を愛しなさいと聞けば、できるかできないかではできないことかもしれません。
l しかしこういう言葉に出会ったら、よくかみしめないといけません。意味を考え
続けないといけません。
l ただ単にこれは理想だといってしまうのは、自分が傷つかなくてすみ、自分で引 き受けなくてすむから楽ですが、そういわれていることの真意もつかむことなく終わって しまいます。
l 自分の力の足りなさに気付くことは真に喜ぶべきことです。自分の足りなさを認 めることは福音にもなりうるのですが、しかし逆に自分の力のなさだけに目をとめると何 もできなくなってしまいます。
l だから、律法学者は自分の隣人とはだれかはっきりさせてくれといいました。そうでないと我々のような普通の人間は生きていけない。そのような思いが律法学者を質 問へと駆り立てたのです。
l この物語はある意味私たちをさばく物語です。私たちの愛の実態と罪の正体をあ きらかにする物語といってもいいでしょう。
l もしもこのたとえにでてくる人々を私の身の回りの人にあてはめてみるとどうで しょう。ああ、やっぱりこの人も祭司やレビ人と同じだった。理屈ばっかりいっているけ れども、ただ片側を通っていくだけだったと、世間がどれほどよきサマリア人からほど遠 いかを思ったりすることでしょう。
l 自分を傷ついた側においておくことはある意味気持ちがいいことです。なぜなら 自分は傷つかないですみますから。私はこんなに傷ついているのに。あの人は、、、と周 りの人達を裁いていく方が楽ですから。
l 私も、以前はこの話は信仰をもっていない人にもわかりやすい話だと思っていま したが、その認識は間違っていたと思うようになりました。
l 10章の23節を見てみましょう。「それからイエスは、弟子たちの方を振り向いて 、彼らだけに言われた。『あなたがたの見ているものを見る目を幸いだ。言っておくが、 多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである』」
l この出来事、このたとえ話は、私たちには当たり前のように思えるかもしれませ んが、それは預言者も王たちもイスラエルの民衆も憧れていた、聞いたいと願いつづけて いたが、聞けなかったお話ではないか。イスラエルが待ち望んできたお話だったとは考え
られないでしょうか。この物語は主イエスキリストにしか話せないお話ではないかと思う
ようになりました。
l ではこのサマリア人は誰をさしているのでしょうか。
l 私たちは自分もこのサマリア人のようにならなければいけないのではないかと思
うわけですが、伝統的に教会はこのサマリア人をイエスさま、あるいは父なる神と理解し てきました。
l それはなぜか、ひとつは次の言葉にあらわされています。
l 33節「サマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い」
l この<憐れに思う>という言葉は福音書の中に3回しかでてきません。内臓という 意味から作られた「はらわたが痛む」という意味です。
l はらわたがえぐられるような痛みに突き動かされて、彼は旅人を助けたわけです。
l 他にこの言葉が使われている箇所を見てみると、ルカ7章13節「主はこの母親を みて憐れにおもい『もう泣かなくてもよい』といわれた」
l ルカ15章20節の放蕩息子のたとえの箇所にも、「父親は息子を見つけて憐れに思 い」とあります。
l 傷ついた人の姿が目に入ったとき、自分の胸がたちまち痛む。だからサマリア人 は通りすぎるわけにいかなかった。もしもそのままにしていたら自分の痛みもいやされな いままになる、自分が自分でなくなる、だから助けないわけにはいかなかったのです。
l 彼は愛の戒めを知っていたから、愛さなきゃいけないからと思って、傷ついた人を助けたわけではありませんでした。
l 全くの本音だったのです。彼のはらわたが痛んだからこそ、駆け寄って、抱き上 げて、傷に包帯を巻き、宿屋に連れていったのです。
l この<はらわたが痛む>という言葉は、神や、イエスの心を現すときに使う言葉で 、人の心を表す言葉としては、どの箇所にも使われていません。
l だからサマリア人とは私たち人間のことではない。イエスさまであり、父なる神 であったといえます。
l そしてイエスがなぜこの世に来て下さったかというと、イエスは傷ついた私たち 人間の姿をみて、気の毒に思って、私たちのところにおいでになった。神様の御心が痛ん だのです。地上にイエス様が生きられた間、私たちへの憐れみのゆえにイエス様の胸の内 は痛み続け、ついに十字架の上で死を向かえることになられるわけです。
l 自己弁護を繰り返し、愛せない自分にほとほと嫌気がさして、それを何とか取り 繕おうとする私たち、しかも、自分の傷の大きさにさえ本当には気付いていない。傷つい ていてもまだ自分でどうにかできると思いあがる私たち。
l イエス様はその私たちの傷の大きさをただ一人正しく知って下さっている方です。だから主、だからキリスト(救い主)なのです。偉大なことや奇跡を起こせるからキリス トなのではなく、そういう私たちの深い深い苦しみや罪をご自分のように感じて痛んでく ださるからキリストなのです。そいう方が私たちのところまで来て下った。この私の隣人 となってくださったのです。
l 私たちはそういう主の憐れみの中に生かされてる者です。
l アガサクリスティーの短編集を集めた「ベツレヘムの星」の中に「水上バス」と いう物語が入っています。
l 主人公はミセスハーグリーブスという婦人です。この婦人、高潔な信念を持ち、信心深い女で、寄付も沢山していました。しかし唯一、人に触れられることが大の苦手で した。そんな彼女の周りで起こる出来事に親身になって関われない自分に疲れ、人の中に いることに疲れて、ふと水上バスに乗ります。そのとき、前の方で美しい、一枚織りの上 衣を来た船首に座っている男の人の衣があまりに美しいので触れてみます。すると不思議 なことに、突然何かが変わり、万華鏡を回したときのように、新しい模様が見えてくるの です。[万華鏡がまわった。模様が変わった。彼女はもはやそれを見ているのではなく、そのなかに、その一部になっているのだった]このあと、彼女はこれまで自分を煩わすも のとしか感じなかった、人の存在や、言動の裏に隠された人々の気持ちを少し思いやれるようになっていくという物語です。
l この衣をきた男性がだれだったかは書かれていませんが、この人が誰だったかは 皆さんにはお分かりになるでしょう。
l 私たちは自分がサマリア人にならなければ、あるいはこのようにしなければと思 いがちですがが、大事なことはただイエスに触れること、またイエスから触れていただく ことだけです。そうしなければ、私たちは人を愛することなどできないのです。
l でも愛するというとどうしても大きなことのように思われますが、サマリア人の した事を見るとそれは前から計画されたような大がかりなことでは決してありませんでし た。包帯を巻いて、宿屋に連れて行って、おそらく2日分のお給料にあたるお金を宿屋に 渡して介抱を頼んだだけで、自分の仕事をないがしろにしたわけでもなく、ただ自分にで きることをしただけでした。
l それでさえ私たちには難しい・・・とひいてしまわないでください。肝心なこと は「私にはできない」と手を引っ込めたくなるときに、イエスに向き直りイエスに触れる ことです。イエスは既に私たちの罪を背負って十字架にかかってくださいました。
l 私たちの罪をだれよりも知り抜いて、私たちの傷を誰よりもおもんばかっておれ るということを素直に心に受け入れるのです。そうすれば自分がではなく、イエスが私た ちの目の前の隣人に関わろうとしておられるとわかるのです。イエスはその人と関わるの に私たちを必要とされているのです。
l 私たちがこの会堂をあとにするときに、私たちを他の誰より知り、そして私たち の傷を思って痛み苦しみ、癒してくださる、そういうイエスさまに触れたという思いであとにするならば、この物語をほんとうの意味で読んだということになるのではないでしょ うか。
l お祈りしましょう。
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2014年
3月9日
「神の力を信じていますか」
マタイによる福音書22章23~33節

[聖書箇所]
22:23 その同じ日、復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスに近寄って来て尋ねた。

22:24 「先生、モーセは言っています。『ある人が子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。

22:25 さて、わたしたちのところに、七人の兄弟がいました。長男は妻を迎えましたが死に、跡継ぎがなかったので、その妻を弟に残しました。

22:26 次男も三男も、ついに七人とも同じようになりました。

22:27 最後にその女も死にました。

22:28 すると復活の時、その女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。皆その女を妻にしたのです。」

22:29 イエスはお答えになった。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。

22:30 復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。

22:31 死者の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか。

22:32 『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」

22:33 群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚いた。

メッセージの勘所
『論語読みの論語知らず』という言葉がありますが、聖書の中にも『聖書読みの聖書知らず』と言われても仕方のない人々が登場します。だからイエスさまはユダヤ人の中の貴族階級といわれていた人々に向かって『あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている』とおっしゃったのです。皆さんこれは人ごとでしょうか。私には
とてもそうは思えません。受浸して何年経っても、聖書も神の力も知らずに平然と過ごしているとしたら、、、それは恐ろしく退屈な人生だと考えなければならないと思います。
メッセージの要約
l 先週の水曜日は教会歴では灰の水曜日にあたります。灰の水曜日とは、受難週の前の40日間(レントまたは受難節)の始まりの日のことです。
l 私たちも主が歩まれた受難と復活をたどるこの時期に、そのことに焦点をあて、聖書の中でイエス様がなしてくださった苦難と語られた一言一言を受けていきたいと思います。
l さて私たちは復活を信じています。しかしそれはこのようなものだと人にわかるように言葉で説明するのは難しいことです。
l しかし、パウロも言っているように、もし私たちがイエスの復活などないと言いきってしまえば、私たちの信仰も意味のないものになってしまいます。
l コリント信徒への手紙1 15章12節~19節、パウロの言葉を見てみましょう。
l 「 15:12 キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。
l 15:13 死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。
l 15:14 そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。
l 15:17 そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。」
l 15:18 そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。
l 15:19 この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。」

l ユダヤの人々も復活に大いなる望みをかけていました。しかし中には復活を否定する人々もいました。サドカイ派と言われる人々です。
l この22章の「復活についての問答」の直前には「皇帝の税金」と題されたお話がでてきますが、そこに登場するのはファリサイ派といわれる人たちです。
l ファリサイ派とサドカイ派は復活ということ関して全く対照的な立場をとっていました。
l サドカイ派は旧約聖書の列王記にでてくるザドク系の祭司、神殿を守り、祭儀を行う人たちの子孫であったと言われています。ユダヤ人の中にあっては、権力と権威をもっており、イエスの時代も貴族階級の人に多かったようです。彼らは富と権力を持っていました。
l また彼らのもう一つの特徴はモーセ5書[創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記]のみを重んじたということです。それらの書物の中には人が死んだらどうなるかについては全く知るされていません。だからサドカイ派の人々は死者の復活はないと言っていました。
l ではユダヤの人たちの中に復活の信仰はどのようにして生まれたのでしょうか?
l ユダヤの人たちは国が滅んで、他国に奴隷として連れて行かれるという恐ろしく痛みに満ちた体験をしました。自由を奪われて、奴隷とされたのです。しかしそんな中でも、神は決して私たちを見捨てられない、いつかこの苦しみから自分たちを解放してくださるという希望を捨てませんでした。
l 聖書の中の多くのものはその苦しみのさなかに編纂されていったのです。国が滅んでしまったけれど、それでもなお神から離れず、過去を振り返りつつ、自分たちの歴史をたどりながらも、自分たちがどこへ向かおうとしているのかをさぐろうとしたのです。その中で聖書の編纂がおこなわれていきました。
l さてその中のダニエル書を見てみましょう。
l ダニエル書12章1節~3節は旧約聖書の中で復活が語られている数すくない箇所です。
l 「12:1 その時、大天使長ミカエルが立つ。彼はお前の民の子らを守護する。その時まで、苦難が続く/国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難が。しかし、その時には救われるであろう/お前の民、あの書に記された人々は。
l 12:2 多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り/ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。
l 12:3 目覚めた人々は大空の光のように輝き/多くの者の救いとなった人々は/とこしえに星と輝く。」

l この中では、死は眠りにすぎないこと、その眠りからいつか目を覚ますときがくること、そして永遠の命にあずかる者がとこしえに星のように輝くという希望がうたわれています。
l ユダヤ人たちは自分たちの国が滅び、多くの同胞たちが奴隷として連れて行かれ、残った者も代わって現れた支配者の重税や圧迫の中に生きなければなりませんでした。詩篇を読んでいると[主よ、あなたはなぜ、私たちを絶望の淵の中に置き去りにされたのか]いう叫びがあちこちに見受けられます。そのような死と絶望の中に打ち捨てられた人々にとって、この言葉はどんな慰めを人々に与えたでしょうか。命が絶えいりそうな、命を支えるのに全力をふりしぼらなければならない人々にとって、それはどんなに大きな希望となったことでしょうか。ユダヤの人々の中にはぐくまれていった復活の信仰は彼らのギリギリのところから見出されていきました。いつの時点から復活の信仰が明確になったかは、意見の分かれるところですが、しかしユダヤの国が滅んでから後の期間の中で、人々はこの復活の信仰を見出していったのです。
l しかしサドカイ派の人々にとっては、モーセ5書には復活は書いてないものとして、切り捨てられていたのです。
l ある人が亡くなってその兄嫁と弟たちが次々と結婚していったと彼らがイエスに話したこの出来事の原型は、申命記25章の戒めの中の一つに基づいています。5節~6節を見てみましょう。
l 「25:5 兄弟が共に暮らしていて、そのうちの一人が子供を残さずに死んだならば、死んだ者の妻は家族以外の他の者に嫁いではならない。亡夫の兄弟が彼女のところに入り、めとって妻として、兄弟の義務を果たし、
l 25:6 彼女の産んだ長子に死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルの中から絶えないようにしなければならない。」

l イスラエルの人にとって、家族が絶えるということはすくい主が生まれてくるのを待ち望むという視点から、絶対にあってはならないことでした。
l それを使ってサドカイ派の人たちは復活はないということを言っていました。長男が死んで、兄嫁と結婚した次男も死んで、3男、4男、、、7男と兄嫁と結婚した男兄弟全員が死に、その妻も死んだ時、復活があるとしたら、その妻は誰のお嫁さんになるのですか?と彼らは問います。もしそんなことが起こったらここに掟として書かれている婚姻関係の問題をどう説明するのですか?説明がつかないでしょう。だから復活などないのですと主張してきます。ねぇ、だから復活なんて、ばかげているでしょうとばかりに。
l 復活は今を生きる私たちにも切実な問いです。死んだらどうなるのか、私たち誰もがいずれ直面する問題でもあります。
l 昨年の12月に私の母が胆管がんといわれてから、この問いは私にとっても切実な問題で、それ以来頭からはなれなくなりました。
l しかし、この問いを私は神さま抜きには考えてはいけないのだとこの聖書の記事から教えられました。
l 死の問題を神さま抜きに考えてしまうと、それはただ単に私たちの頭の中だけのお遊びになってしますからです。
l サドカイ派の人々はユダヤ教の中にある掟を使ってただイエスをやりこめるためにこの問いを発しただけでした。
l この中にも自分自身の命について不安に思っておられるかたもおられかもしれません。死の問題は切実な問題なのに、ただ単に人をおとしめるために使おうとする、サドカイ派の人々。彼らはお金があったので、ギリシャの知識にも富んだインテリでした。しかし、知識が増えたからっていって、すべてが解決するかというとそんなことはありません。
l イエスは彼らに、こう言われました。「あなたたちは、聖書も、神の力をしらないから思い違いをしている」と。聖書を使っているけれど聖書を知らない。神の力も知らない。だから思い違いをしていると言われます。
l 理屈のための理屈、そこにはせっぱつまった切実さも、身につまされる思いも全く感じられない。彼らはイエスからどういう答えを得たとしても自分が傷つかないところに自分を置いていました。
l 私たちにとって問いを発するときに、それが意味をもつのは、自分自身を変えたいという願いを持つときだけです。そしてどんな答えを頂いたとしても、それに真実に向かい合っていきたいという決意があるときだけなのです。
l 彼らはイエスから答えを受けたとき、それに従っていこうという気はさらさらなかったのでした。ただあるのは、今持っているもの、自分たちの立場を守りたいという思いのみだったからです。自分たち以外の者がどんなに苦しんでいようが、うめいていようが彼らには関係のないことでした。
l 私がイエスさまだったら、ユダヤ教の力を持った人からこんな問いをうけたら落胆しただろうと思います。
l しかしイエスはそのような人々にもそっぽをむかず、彼らをも得ようとして最大限の努力をされたのでした。
l 「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。死者の復活については、神があなたがたに言われた言葉を読んだことがないのか。『私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きているものの神なのだ」
l あなたたちは聖書を知らないから復活を否定しているのだ。聖書を知っているといいながらあなたたちは神の力をわきまえていない。それが最大の無知だとおっしゃるのです。
l 聖書を読んで、聖書の中に神の力を読みとることができなかったら、結局は自分の死後の生活を自分が知っている生活の延長の中でしか考えることができません。サドカイ派の人がなぜ復活をいやがったか、それは彼らがすでに富んでいて、色々なものを手にしていたからです。もしも死後の世界で、イエス様が言われたように「貧しい人は幸いである、神の国はあなたがたのものである、飢えている人は幸いである、あなたがたは満たされるようになる」と言われた世界がほんとうになれば、この世と逆転してしまって困るからでした。彼らにとって死後の世界は今もっている権利とかを手放さないでもいい世界でないと困るのでした。
l ではファリサイ派の人は復活をどう考えていたでしょうか。彼らは復活を信じていましたが、例えば、死んだ人がよみがえったとき、葬儀のときに着ていた服でよみがえるのか、だとしたら立派な服装を着せてやらなくてはいけないとか、生前足が不自由だった人は復活後、自由に歩けていたころの姿で復活するのか、それとも亡くなった次点の姿で復活するのかなどを本気で考えていました。頭で復活を考えはじめるとこういうことが気になるようになるのです。
l 復活のとき、天使のようになるというのは、天使のように羽が生えるとかではなく、<神のそばによみがえる>という意味です。そしてそこではめとることも嫁ぐこともないと言われました。
l 最近、お墓についての意識調査がなされたとき、奥さんのほうが夫と同じ墓にはいりたくない。死後の世界でまで一緒にいたくないと思う人が結構いるという話を聞きました。私たちは頭と知識でしか死後の世界を考えられないようです。いかに死後の世界を現実の続きで考えているかということです。
l 私たちの人生が終わったとき、天国で愛する人と会えるという思いもあるかもしれませんが、天国でも家族単位で生活すると考えるのは、思いの勝ちすぎです。
l ただ神のもとにあって、言葉では表せない姿となって生かされ、もちろん先に逝った方に出会うかもしれませんが、また再び夫婦になるとか、親子になるとか、それは、天国でこの人と夫婦になるのはいやだというのと同じこと、ただその逆を言っているのと同じです。しかし私たちはまさしく神の御もとで天使のようになる。今考えても考えきれないような姿になる、とイエスさまはおっしゃったのです。
l なぜそういえるかというと、それを示す聖書の箇所として、[私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である]とあるではないかと言われました。
l これは出エジプト記3章6節に出てくる言葉で、神の山ホレブで神がモーセに語られたときの言葉です。神はモーセ(イスラエルのリーダー)に、実に400年ぶりに現れてくださいました。族長であったヤコブに対して主が語りかけられて以来のできごとでした。
l しかも「私はアブラハム、イサク、ヤコブの神であった」ではなく、「神である」と現在形でご自身を現されました。
l アブラハム、ヤコブ、イサクは死んでしまって、お墓もある。しかしアブラハム、イサク、ヤコブは今生きておられる神の力によって、今も生きている。彼らを呼び出し、生涯を導きつづけた神が今も生きておられるのであれば、彼らも生きていると考えて間違えないと言われました。
l サドカイ派の人達が信じるモーセ5書の中の言葉をもって、彼らにそのことを伝えようとされたのでした。
l わたしは生きているとおっしゃる神が生きておられるかぎり、私たちが死んだと思ったときにも神の手によってつながってるのだ。神の力とはそういう力を言うのだと言われました。神の力とは何も奇跡を起こすこととかだけではないのです。
l だから、教会は葬儀を礼拝という形でするのです。
l 神野兄の葬儀から4月22日で1年がたとうとしています。
l なぜ礼拝という形で葬儀をするのか。それは死に打ち勝った神を礼拝する以外にないからです。葬儀で死んだ人間をほめたたえるのではなく、死に打ち勝つ神を礼拝する以外にないからなのです。その望みに生きる人に対して、神は「その望みは死をもつきぬける」と言われます。
l 私たちはそういう神の力を信頼し、礼拝に来つづけ、願い続けるのです。
l 生けるものの神。あなた方は、私の力によって生きるのだと主は語り続けておられます。
l 教会に偶然に来たとか、仕方なくきたとかであっても、私たちの意識しない時にも神は働いておられます。
l 今日、礼拝で真に命をもつ神のよびかけを聞きました。是非その呼びかけを信じ、私たちを生かしている神の力を手をのばして得ていただきたいと思います。
l 3,11が近づきました。何のために生まれたのかと問いたくなる悲惨な死にかたもあったでしょう。しかしたとえどんな死にかたをしても
主にある希望は死をもつきぬけていると信じたいと思います。
l お祈りしましょう。
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2014年
2月9日
「わきまえて生きる」その5
ローマの信徒への手紙12;1~21

◆キリストにおける新しい生活

12:1 こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。

12:2 あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。

12:3 わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。

12:4 というのは、わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、

12:5 わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。

12:6 わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、

12:7 奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、

12:8 勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。

◆キリスト教的生活の規範

12:9 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、

12:10 兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。

12:11 怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。

12:12 希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。

12:13 聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。

12:14 あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。

12:15 喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。

12:16 互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。

12:17 だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。

12:18 できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。

12:19 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。

12:20 「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」

12:21 悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。
メッセージの勘所
「人類の歴史を通して、すべての時代、すべての民族が共通して持っている意識があります。それは『味方を愛し、敵を殺せ』です。しかし、そんな中にあってキリスト教だけが、敵を愛することを神からの大切なメッセージとして伝え実践してきたのです。
もちろんそれを成し遂げたと思われる人もいましたが、失敗した数はその何倍、いや何千万倍かもしれません。しかし、これに教会が本気で取り組まなかったら、教会の存在意義はどこにあると言うのでしょうか」
メッセージの要約
l すでに4回この箇所を読んできました。臨時のコミュニオンミーティングをしてこの箇所について話し合いたいくらいです。
l 最近の私のメッセージを聞いて、ある人から説教は心の洗濯と思ってきているので、自分の生活を変えなさいといわれるとしんどくなると言われました。
l コリント信徒への手紙Ⅰ15;19で「この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めなものです。」とあります。信仰生活が単に地上での生活を無難にやっていくためだけのものだったら、そういう信仰はこの世の中で最も惨めなものだとパウロはいっています。それは単に自分の臭いところに蓋をし、痛みがあるところにバンドエイドをはるようなものです。しかしそれらはまた何かあればはがれて、そこから膿がとびだしたりする。礼拝でメッセージを聞くというのは、自分にとって役立つこと、いいことを聞くだけではなく、御言葉をまともに引き受けて生きてみるということがどうしても必要なのです。
l 信仰はできるかできないかではなく、みことばを信じるか信じないかを問われているのです。信じるとは、ここで言われていることをまともに受け取って、自分の生活の中でそれにチャレンジしてみるということです。
l コーマ書の12章は信仰者として、どれ一つとっても難しいことですが、その中で究極のものは、「愛するひとたち、自分で復讐せず、神の怒りにまかせなさい」ではないでしょうか。
l 教会はこのことを伝道の策略の一つとしていってきたわけではありません。クリスチャンだからそうする。皆から認められるクリスチャンになるために、、。しかしそれは結局は自分の中の復讐を手放していないことと同じです。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ」。『よし、では憎い敵にもまずはたべさせてやろう』と表面上はことばに従っているように見せて、内面では相手を憎みつづける。クリスチャンでもこういうことをしてしまう。このような考え、態度を偽善といいます。パウロはそのようなことを言っているわけではありません。それでは、「相手の頭に燃える炭火を積む。」ことにはなりません。相手の頭に燃える炭火を積むとは、相手の心を揺り動かすことですが、偽善的な態度では相手の心を揺り動かすことにはならないと言っています。しかしとても自分にはパウロの勧めているようなことはできないなと思われるかもしれません。私も自分ができているなんていうつもりはありません。パウロも同じ思いだったと思います。
l 12章1節「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。神に喜ばれる聖なるいけにえとはどういうことでしょうか?自分が敵として思っている人を、憎しみを神にゆだねて、その人の痛みに心を合わせるようにして、自分のしてあげられる限りのことをしてあげること。泣く人と共に泣き、喜ぶ人とともに喜んでいくことです。そのみ言葉を本気で受けとっていくことです
l それを本気でしようとするならば、神に祈らずにはおれないはずです。
l よくここの箇所は「キリスト教的生活の規範」と翻訳者が題名をつけていますが、ここに書いてあることは高尚な道徳を語っているわけではありません。
l かつて長岡輝子さん、女優にして演出家の方でしたが「ようこそ先輩」か何かで宮沢賢治の詩を子供たちと味わわれたテレビをみました。
l はじめに宮沢賢治の詩「雨にもまけず。。。」をお説教調に読まれました。
l [雨にも負けず、風にも負けず、雪にも、夏の暑さにも負けず、丈夫な体をもち、欲はなく、決して怒らず、いつも静かに笑っている。一日に玄米4合と、みそと少しの野菜を食べ、あらゆることを自分を感情に入れずに、よく見聞きし、わかり、そして忘れず、野原の松の林の陰の小さなかやぶきの小屋にいて、東に病気の子供あれば、行って看病してやり、西に疲れた母あれば、行って、その稲の束を負い、南に死にそうな人あれば、行って、怖がらなくていいと言い、北に喧嘩や訴訟あれば、つまらないからやめろと言い、日照りのときは涙を流し、寒さの冬はおろおろ歩き、みんなにでくの坊とよばれ、ほめられもせず、くにもされずそういう者に私はなりたい。」
l お説教調に読むと、本当に上から『こうしなさい』と押し付けられている気がします。お説教好きの人と誤解されて、宮沢賢治がきらいだという人もいます。しかし、彼はこうありなさいとお説教で言っているのではなく、そうなりたいと言っているだけです。実際この詩の最後は『なりたい』で終わっています。
 福音はしなければならない努力目標ではありません。
 雨にも負けずは、人にでくのぼう、役立たずと言われても自分はこのように生きたいんだという彼の祈りに近いものでした。長岡輝子さんもこれは彼の祈りなんですと子ども達に伝えておられました。
l パウロのこれらの言葉も祈りに近いものです。なぜパウロがここに、これらの言葉を記したかというと、パウロは自分自身の頭に燃える炭火がおかれていることを知っていたからなのです。神はキリストの十字架において、人間への正義の怒りをキリストを罪人とすることによって裁かれました。それによって、私たちを赦されました。
l [復習をゆだねなさい。神の怒りにまかせなさい。できればすべての人と平和に暮らしなさい。善をおこないなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはならない。」
パウロはかつて自分の正義をもって相手を裁き、相手をたたきつぶす、そのように生きてきた人です。そいう彼がキリストの十字架による許しを受けた今、彼の中には十字架がたっているのです。
l 私たちもそれにトライすることによって、自分自身の中にイエス様の十字架をたてていくことが求められているわけです。
l パウロはできれば(18節)といっていますが、私たちはこれを言い訳にしていないでしょうか。『そうね、他の人にはできるかもしれないけど、私にはできません』という具合に。しかし、パウロはここにあなたたちはできるようにしてもらっているという意味をこめていると思います。なぜなら神はすでにイエスを十字架にかけて、私たちを罪から解放してくださったからです。私たちを苦しめ縛っているくさりから既にイエスは解放してくださったのです。
l 私たちはこの世に生きている限り、完全な平和とか、敵が全くいない状況には遭遇しないでしょう。私たちを苦しめる人やできごとは常に存在します。しかしそれは神が私たちに罰を与えているのではなく、そういう状況の中にあって、すでに福音の中にとらえられているから、貴方達は周りの人を思いやるようにしてほしい。あなたがたにはそれができる。既に善をもって悪に勝つようにされているのだからそのように歩みなさいと勧めているのです。
l それはすでに得ているのではなく、それを得ようとしているということです。これはパウロの中にもそうできないそうしたくない思いがあって、それと戦っていたことをあらわしています。イエスの言葉を不可能と思いながらもあきらめずに、チャレンジしていったということです。
l そのためには、どうしても祈りがなければできません。朝ごとに主の前に跪き、悔い改め、神の声をきき、自分の心を神に注ぎたすことがなければできません。
l ある人は礼拝に来て、心が落ち着き、平安になったらそれでいいと言われるかもしれません、それも恵みでしょう。だけど、神は私たちをもう少し先に進めたいとおもっておられるのではないでしょうか。
l 宮沢賢治がそうなりたいと思ったように、これを自分の願いとして、祈りつつ歩んでいってほしいと願っておられるのではないでしょうか。
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2013年
10月20日
ローマへの信徒への手紙11章25~36節
メッセージの勘所
「パウロは自分の人生の中で幾度も、自分の小さな頭で考えた救いの理論で動いていた時の事を思い返したにちがいありません。

彼はイエスに出会うことによってはじめて、神の計画は人間の理解をはるかに超えていることを思い知ったのだと思います。

それに彼は圧倒されただけでなく、それ以来、神に敵対していた自分のようなものに現して下さった神の憐れみと栄光を、自分だけに留めておけなくなったのです。」

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あなたへのメッセージ目次
 (2014年)
「わきまえて生きる」その5(2/9)
「神の力を信じていますか」(3/9)
「隣人、それはわたし」(3/23)
努力することゆだねること
 その2」(4/6)
努力することゆだねること
その3
」(4/13)
弟子としての覚悟(4/20)
生かされていることの幸い(5/11)
生かされていることの幸い(5/18)
御霊の道を閉ざすもの(6/1)
命の風にふかれて(6/15)
命の風にふかれてその3(6/29)
命の風にふかれてその5(7/13)
命の風にふかれてその7(7/27)
命の風にふかれてその6(7./20)
命の風にふかれてその8(8./3)
友こそ人生(9/7)
深き淵より(9/28)
私は何者であるのか(10/12)
忘れずにいるということ(10/26)
語りつたえよ神のみ言葉(11/23)
神の業が現れるとき(12/7)
 
 2015年以降はこちら
 
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