日本バプテスト連盟シオンの丘教会のホームページ

牧師室から 


★牧師紹介
 名前 坂田 浩
 年齢 50さい+あるふぁー
 身長 168センチ
 体重 オットセイくらい
 趣味 囲碁と釣り
 好きな食べ物  奥さんの作るもの
 嫌いな食べ物  レバー
 怖いもの おやじ
 簡単な経歴
 1958年熊本生まれ、1988年西南学院大学神学部卒、日本バプテスト基督教目白ヶ丘教会副牧師、横須賀長沢キリスト教会牧師、伊都キリスト教会牧師を経て、2002年4月よりシオンの丘教会牧師、現在にいたる。

★あなたへのメッセージ
   
2017年
2月26日
   宣教『天国の激変 その2』
  
 マタイによる福音書12章22~32節   
聖書箇所
  マタイによる福音書12章22~32節
メッセージの要約
これから結婚する二人のカウンセリングをしました。お二人はクリスチャンではないですけども、私の語る言葉が染み入っていくものが感じられて、嬉しく思いました。聖書はクリスチャンだから、よく分かっているかというとそうではないのです。ノンクリスチャンの方が入っていくこともあるのです。時にはクリスチャンの方が理解出来なく、そうではない方が理解できることもあるのです。今日の聖書箇所はまさにそうです。
イエスさまの一つの行為が、罪人だとみなされていた人々には受け入れられ、宗教的なリーダーとみなされていた人達から反対を受けました。
「悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった。群衆は皆驚いて、『この人はダビデの子ではないだろうか。』と言った。」
イスラエルの人達が待ち望んでいたメシアが来ているのではないかと、群衆は期待し喜んだということなのです。しかし、そこにいたファリサイ派の人達は驚かなかった。「自分たちこそ、神の言葉を持ち、神の心を知っている。」そのような自意識を持って冷静にイエスさまのなさったことを分析したのです。そんな彼らの出した結論は「悪霊の力で追い出している。」でした。自分は信仰が分かって、知っているという人が、実は本質が全く見えないということが起こるのです。ファリサイ派の人達は、「あなたのなさっている事、自分たちの知恵からすれば、悪魔、サタンの仕業としか思えない。」そのようにイエスさまの業を判断したのです。
今日、一つ覚えてもらいたいことは、私たちもファリサイ派の人達の罪からまぬがれていないという事です。この箇所は、神、聖霊、キリストと関係について視察することを求めているのではなくて、私たちに対する一つの警告です。イエスさまは、最後にこのようにおしゃっています。
「だから、言っておく、人の犯す罪や冒瀆は、どんなものでも許される。」そんなこと言っていいんですかと、こちらが引いてしまうような言葉です。しかし、イエスさまは単にファリサイ派の人たちの罪を断罪しておられるのではないのです。イエスさまは覚悟を持って彼らの罪を背負って、彼らをも得たいと願っておられるのです。単に間違いを指摘するだけでなく、そういうファリサイ派の人たちをも、得ようとしておられるのです。
「『霊』に対する冒瀆は許されない。」一体何のことを言っているのだろうと思われるでしょう。それは、ここに明確な神の働きがあるのに、それを悪霊の業とすることによって、神の働きを認めないということです。それは「この世でも後の世でも許されることがない。」とまでイエスは言われました。神をよく知っている自分たち自身が、神をのけ者にしてしまう。神の恵みの中から出て行ってしまうことになるということです。
「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。」
ファリサイ派の人たちは、イエスさまの業をみて、「サタンの親分の力を借りている。」と言っているのです。私たちも階級社会に生きています。どんな社会にも階級があるので、サタンにも階級があると自然に思いがちです。当然悪霊や悪魔にもそれがあると・・・。でも、悪霊や悪魔は自分こそが支配者である、そういう存在なのですから、他の支配を受けるはずがありません。イエスさまは、そんなことをすれば、悪霊の中で内紛が起こるだろと言っているのです。
「わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。」
イエスさまは癒の業を、自分だけの専売特許だと思ってないのです。あなた方の中にも癒しを行っているものがいるではないか。だからこう言われたのです。「彼ら自身があなたたちを裁く者となる。しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」
「また、まず強い人を縛り上げなければ、どうしてその押し入って、家計道具を奪い取ることができるだろうか。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。」
繰り返しますが、ファリサイ派の人たちは、「あなたのしていることは神の働きではなく、悪霊の働きだ。あなたが悪霊の親分で、その人に取りついて悪霊は自分より地位が上のものの言葉だったから出ていったのだ」と、そのように言ったのです。
私たちはこの世のシステムを信仰の世界にも持ち込んでしまい誤解が生じてしまいます。常識や経験から御言葉を量ろうとするとき、えてしてそういう過ちが起こるのです。もちろん私たちは自分の経験や知恵を持ってしか聖書は読めません。だからといってそれにのみ頼ってしまうと、このような間違いを犯してしまうのです。
この聖書の箇所を読みますと、マザーテレサの本を思い出します。マザーテレサがこの世界に知るようになったのは、イギリスのEBCのキャスターであったマルコム・ボルドリッジという方ドキュメンタリーを作られたことによります。マルコム氏はイギリスの中でも知られた知識人です。マザーテレサに対しても最初から好意的だったわけではありません。どちらかというと懐疑的だったというのが正直なところです。どこかに偽善が現れてくるのではないかと思いながら、マザーテレサのところに行ってドキュメントを取りました。しかし、活動に触れれば触れるほど、自分ではとても出来ないようなこと、神の力が働いているとしか思えない出来事を目に間に当たりして行くのです。マザーテレサが最初に作った死を待つ人々家は、ヒンドゥ教の古くなった神殿を買い取って作られました。窓は上のほうに数箇所あけられているだけで、中は本当に薄暗かつたのです。そこで今まさに、死んで行こうとしている人たちを幾人もマザーテレサとシスター達は世話をしていました。マルコムさんたちは神殿の中に入って撮影を始めるのです。けれども、カメラを回している撮影スタッフたちは、「このような所では良い映像が取れない」と懐疑的だったのです。しかし、マルコム氏はそれでもいいから撮れと言ってきかず、撮影スタッフたちは仕方なく撮りました。しかし、帰って現像してみると、薄暗い神殿の中のあの光景が、外で撮ったどのシーンより、明るく撮れていたのです。撮影スタッフとマルコムさんは驚きました。「どうしてそうなったのか。」マルコムさんがたどり付いた結論は、「彼女たちがイエスと同じことをしていたからだ。」でした。そして、彼は自分が育って来た中でいたる所に宗教画があったけれども、そこに描かれていた人々の背後に光輪が描かれていたことに思い至ったのです。しかし、この映像をイギリスの牧師たちに観せたときに、驚くべきことが起こったのです。「暗い室内でライトアップもしてないのにこんな綺麗な画像が取れるはずがない。これは自然現象のいたずらだ。」彼らは自然現象の影響だとか、器械の何らかの誤作動だなどと言うばかりで、マルコム・マガリッジさんが心打たれたことに目を留め、信じるということはありませんでした。
先ほども言いましたようにこの箇所は、私たちに対する警告なのです。
結婚カウンセリングのことを冒頭でお話ししましたが、私が必ず結婚をするお二人に話すのは、愛するということは、見詰め合うことではなくて、同じ方向を見るということだということです。マルコムさんが見ている所を、イギリスの牧師たちは決して見ることはしなかった。マルコムさんを始め、初めは疑ってかかっていた人たちが、実際にマザーのしていることに触れて、これは神の御業だと喜んでいるのに、神を信じているという者たちがそれに水を浴びかかせるようなことをする。そういう姿でもあるのです。それでもこんな私たちのどうしようもない罪を、イエスさまは許してくださる。二千年の時を経た今でも、神の働きを見ても「そうではない。神ではなく悪霊の仕業だ」と言い張ることが起こる。決して神の働きを見ようとしない。イエスさまは、そのことを悲しまれるのです。
見えないものへの感性がいろんなところで言われています。それでもなお、私たちは見える所にこだわるのです。私たちは神の霊の働きの中に、今も置かれています。どうぞ、自分の生活おいて省みてください。牧師が指し示している方向を、まずは目を向けてみてください。それから自分が目を向けていた方向と比べて、違いに気づいていただきたいのです。牧師が神からこういう事を聞いている。自分は気づかない視点だった。そういうことを思いながら、牧師の説教を聞いてください。そこから、自分に対して示されていることを、受けていただきたいと思います。私も、誤り多い者です。しかし、そのようなものを用いて神が語っておられるのです。そこで語られるメッセージを、りんごをえり分けるように、外側から眺めているだけでなく、目の見えない神の働きを一緒に見て行こうと、神の指示される方向を一緒に見つめてください。
私がクリスチャンになったころ、しばらくして信仰に対して疲れを感じたことがありました。自分と関わってくる人がうっとうしくなって行ったのです。いろんな方が私に礼拝が終わった後、牧師のメッセージの解説をしてくれるのです。親切心だということはわかりますが、それを聞いていて、自分が受けた事と違っていて、だんだんと疲れてきました。それで三週間続けて礼拝を休み、牧師から連絡がありました。理由を話すと、教会で私にはなしてくれたことを覚えているかと聞かれました。「君は自分には許せないものがある。」と言っていたね。でも聖書には「裁きは神のすることだ」と書いてある。今回のこともその原則に従ったら良いのではないか」牧師が私に諭してくださいました。「原点を忘れていた。神さまに委ねることだ。」と気づかされました。それからまた新たな思いで礼拝に集うことが出来ました。
教会生活、信仰生活にはいろんなことが起こってきます。私たちは、その中でイエスさまに従い、語られる聖書の一つ一つを、自分へ向けたメッセージ、この私のための特別な命の言葉として受けて行く。それが、私たちにとって、何よりも大事なことなのです。
「聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも許されることがない。」
私はイエスさまはおそらくこのような言葉を語りたくなかったと思います。こんな厳しい言葉をイエスさまが語らなければならなくなったのは、パリサイ派の人たちの頑なさのゆえです。自分だけが神の業のなんたるかを知っているなどというのは恐ろしい思い上がりです。しかし、教会の中でも起こうることです。私たちは、しっかりと神の業を見分けて、神の指示される方向へ、目だけでなく自分の心も体もに向けて歩んで行きましょう。

お祈りいたします
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2017年
2月5日
   宣教『さあ、起きて!と呼ぶ声』
  マタイによる福音書9章18節~26節
     
聖書箇所
  9:18 イエスがこのようなことを話しておられると、ある指導者がそばに来て、ひれ伏して言った。「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう。」
9:19 そこで、イエスは立ち上がり、彼について行かれた。弟子たちも一緒だった。
9:20 すると、そこへ十二年間も患って出血が続いている女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れた。
9:21 「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と思ったからである。
9:22 イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」そのとき、彼女は治った。
9:23 イエスは指導者の家に行き、笛を吹く者たちや騒いでいる群衆を御覧になって、
9:24 言われた。「あちらへ行きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。
9:25 群衆を外に出すと、イエスは家の中に入り、少女の手をお取りになった。すると、少女は起き上がった。
9:26 このうわさはその地方一帯に広まった。
メッセージの要約
この箇所は他の福音書にものっています。マルコとルカです。
イエスのそばにやってきた指導者の名前はヤイロであるとマルコは記しています。
マタイはこの箇所をマルコの半分ほどに縮めていますが、マタイとマルコの大きな違いは、
マルコでは指導者がイエスのそばに来たとき娘はまだ生きており、一方マタイでは娘は既に死んでいたことです。
しかし、どちらが歴史的な事実かと問うことはあまり意味がありません。それぞれの物語は、作者の意図を持って編集されていて、それぞれに意味があるのです。
マタイはこの物語で、自分と周りに起こりうる死にどのように備えていけばいいのか、危機に瀕するときにどこに行けばいいのかを示しているように思います。
普通は娘が生きているときに治してもらおうとしてイエスの元に来るのが自然でしょう。
マタイの1章~8章までを読んでみてもイエスが死んだ者を生き返らせたという記事は出てきません。もしそういう噂でも聞いていたならば死んだのちもイエスの元に行ったことも考えられますが。
父親なら笛を吹く者たちや騒いでいる群衆と共に嘆きに沈んでいるのが普通のように思えます。
しかし、彼はイエスのところに飛んでいきました。
そうせずにはおられなかったのです。

誰にも信仰の危機が訪れることがあります。信仰を持つと逆に悩みが深くなったという経験をされた方も多いでしょう。
この指導者は信仰的指導者でしたが、イエスの元に飛んでいったことから、彼が12年の間どんなに娘を慈しんで育ててきたか、彼の娘への深い愛情が伺えます。
今、娘の死と共に彼の信仰も危機にさらされています。なぜ私の娘が、この前まで元気だった娘が死ななければならないのか。なぜですか?あなたはなぜこんなことをなさるのですか?
先ほど礼拝の中で一緒に口ずさみました、詩編119編に、「わたしの魂は塵に着いています。御言葉によって、命を得させてください」とありましたが、まさに同じ心境だったのではないかと思います。信仰も滅びる寸前までいっています。
しかし、同じ119編31節では「主よ、あなたの定めにすがりつきます。わたしを恥に落とさないでください」と言っているように、彼もまた「おいでやって娘の上に御手を置いてやってください。そうすれば娘は生き返るでしょう!」と訴えています。
彼が生き返らせてほしいと願ったのは、娘だけでなく、自分の信仰もでした。

イエスはこの人について行かれました。
するともう一つの思いがけない出来事が起こります。
20節「すると、そこへ12年間も患って出血が続いている女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れた」のです。
マルコの記事を見ると、この女は治療のために全財産を使い果たし、12年もの間苦しんできました。他人からは汚れていると見なされ、人に触れることも許されていませんでした。
片や両親に愛され12年間育ってきた子がいて、片や、同じ12年の時をずっと苦しんできた人がいる。これも私達の人生です。
その二つの人生がイエスのところで出会いました。
女はイエスの服の房に触れました。房は服の4か所に付いていて、それを見るたびに神が共におられることのしるしとして、また自分たちの神を忘れることのないように戒めとして付けられていました。
彼女はそれにさえ触れればなんとかなるだろうと一縷の望みを託して、後ろからそっと触れました(マルコの記事)
そして触れた瞬間に癒されました。
イエスは振り向いて言われました。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った」と。
あなたの信仰があなたの病気を直したとは書かれていません。
なぜ『救った』とイエスは言われたのでしょうか。救い、それは私達がイエスの命に、永遠の命に触れることです。イエスの死んでも死なない命に触れた。与った。その時彼女は治ったと書かれています。

それから少女のところに行かれます。
そして、嘆く人々に「あちらへ行きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ。」と言われました。
その時の人々の反応―人々はイエスをあざ笑った―はある意味当然のことです。
イエスは群衆を外に出して少女の手をとりました。すると少女は起きあがりました。
少女もイエスの命に触れたのです。
先ほど主の晩餐式でパンとぶどう酒をうけましたが、私たちは毎週そこでイエスの命を私の内に受けているのです。これはわたしの体である。これはわたしの契約の血である。そう言われているのですから。ですから、私たちも毎月、神の命、永遠の命の恵みを受けているのです。なのにどうでしよう。「私なんてどうせ駄目」、「私なんて生きていても何の意味もない」と思っていないでしょうか。

危機に瀕したとき、どこに行きますか?イエス以外の他のところに行っていませんか?
イエスは私たちの手をしっかりと握ってくださっています。イエスさまだけが私たちをどんな絶望の中でも立ち上がる力をお与えくださる方です。
イエスは、今この時を生きる私たちにも、イエスさまの命に、永遠の命に触れてほしいと願っておられます。にわかには信じがたいと思われるかもしれません。でも少しずつでいいのです。
み言葉に触れ、そのみ言葉を信じ生きてみることによって、永遠の命があなたの中にも生きて働いていることがだれにでもわからせていただけるのです。
イエスさまは私たちのすべてをご存じで、私たちが自分が本当には何を望んでいるかさえ知らなくても、導いてくださっています。
私たちは人生の課題に一喜一憂しますが、どんな時もイエスに視線を向けなおして、イエスさまと共に立ち上がる人生を生きていきたいと思います。
お祈りしましょう。
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2017年
1月29日
   宣教『息苦しさから脱したいなら』
  
マタイによる福音書7章7節~12節     
聖書箇所
 
 7:7 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
7:8 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
7:9 あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。
7:10 魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか
7:11 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知って いる。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。
7:12 だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」
メッセージの要約
トランプ氏はアメリカ大統領就任演説で詩編133:1「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」を引用しました。
しかし、ここでいう兄弟とはアメリカ国民という名札を持っている人に限られるということはその全文を見れば明らかです。不法移民、同性愛の人等、トランプ氏の価値観に則わない人々はそこには入っていません。トランプ氏を大統領に押し上げたのは、自分は誰かのせいで非常な不利益を被っているという怨念を強く抱いていた人々だといわれていますが、今、世界各地でトランプ氏のやり方を見倣って自分の中の怨念を思うがままにぶつけてよいのだという気運が高まっています。日本でもそれはヘイトスピーチという形をとって現れています。

今日の箇所のマタイ7章12節「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言です。」は黄金律と呼ばれてきました。
価値観の押しつけだといわれることもしばしばありましたが、米国の行動原理の背後にはこのみ言葉があったことは間違いありません。しかし、人のことを考える余裕はなくなって、傷ついた自分というイメージが極端に肥大しています。その結果、他者を遮断し、他者との間に壁を作り始めているのです。そして自分と自分と同じ価値観を共有するもの以外はすべて《敵》となっていくのです。
詩編133:1にある《兄弟》の意味ををそのような形で聞きとっていくのは怖ろしいいことです。
今、私達は、この世界の現実がそれほどに深刻さを増しているということををわきまえる必要があるのです。
トランプ氏もクリスチャン。カルバン派の流れをくむ教会の信徒です。
私たち日本バプテスト連盟も、アメリカの南部バプテストという教派からの多大な祈りと献金によってここまできることができたのです。だから今度は私たちが米国のために真剣に祈らなければならないのです。

さて今日の箇所はマタイ5章~7章でなされた山上の垂訓のしめくくりの箇所です。
「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」
余計な心配かもしれませんが、このように断言したら、誤解されるのではないかと心配になります。山上の説教の中には、たとえば、5:22には「私は言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。」5:39「悪人に手向かってはならない。だれからあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」5:44「敵を愛し、自分を迫害するもののために祈りなさい」6:25「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。」等々の言葉が書かれています。
実践する前から自分にはとても無理だと思われる言葉の数々です。
しかし、これらのことはイエスさまにとっては簡単なことだったのでしょうか。そうは思われません。誰が望んで家畜小屋などで生まれたいと思うでしょうか。まして十字架で死ぬなどということを…。イエスさまの生き抜かれた日々も、自分の願ったことがなんでも叶っていくというようなものではなかったことは明らかです。

しかし、人生は厳しいからこそ、求めること、探すこと、門を叩くことを諦めてはならないとイエスは言われます。そう言われるイエスの人生の最後に彼が到達されたところは十字架でした。この苦い杯を取り除けてほしいと願われましたが、しかし、その盃が取り去られることはありませんでした。イエスの願うところではなかったけれど、イエスさまはそれを引き受けていかれました。
なぜでしようか。父なる神は私たちの求めるところを無にはしないという確信があったからこそ、イエスさまは「求めなさい、探しなさい、門をたたきなさい」語られ、それを十字架上に至るまで貫かれたのです。
私たちの求めや願いは、私たちの願うようには果たされないかもしれません。しかし時間はかかっても、またその形は違っても必ず果たされる、しかも私たちの思いをはるかに超えてよい形で果たされるとイエスはおっしゃっているのです。だからこそイエスは私たちにチャレンジし続けられるのです。
人間関係の中で、あってほしくないことですが教会の中でも傷つけたり、傷つけられたりということがあるでしょう。信仰生活を続けながらも「もうあきらめよう」と思ったことも多々あるでしょう。
私たちの肉の心、罪の心は「あきらめなさい。やっても無駄だ」という方向に私達を向かせようとします。けれどもイエスは「求めなさい、探しなさい、門をたたきなさい」と言い続けられるので。それは無駄に終わることはないと言われるのです。

神さまのなさりようは次のようなものではないかと思います。
交通手段が馬だったころのこと。子どもが父親に馬をねだります。父親は大人になったら買ってやろうと言います。時は流れ、時代は馬ではなく、車の時代になりました。子どもが成人したときに、おそらく父親は馬ではなく、車を買ってやるだろうと思います。その時、馬が車になったのだから約束は果たされなかったということになるのでしょうか。
神さまは私たちに何が必要かご存知です。しかし、私たちは自分が本当には何を望んでいるかということがわからないのです。それをを知るためには、人生における試練が必要なのです。それに直面し、悩み苦しむ中で、誰もがそれを見出していかなければならないのです。
自分が親であるならば、神が必ずこの子に良い物を下さる。全てを益として下さるという確信をもって見守らなければなりません。それは簡単なことではありませんが、
そのような思いの中にこの「探せ、求めよ。門をたたけ」があるのです。

今米国、というよりトランプ氏がしていることは、「俺は他者の手は借りない。自分だけの力で何とかしてやる」ということです。人を信頼するより、自分の力で相手を支配することで自分の思いを実現していこうとしています。しかし、聖書はそのような営みはことごとく失敗したと言っています。いっとき成功するように見えても、それらが成功したためしはないのです。
そうではなく、私たちはイエスのもとに道を探さなければなりません。
7:11「ましてあなたがたの父は求める者に良い物をくださるのちがいない」と言われていますから。
こっちにもあっちにも足を突っ込んで、そのうちのどれかは当たるだろうと淡い期待に縋るのではなく、神の約束に期待し、そこに自分の人生を置くことが必要なのです。
そうしなければ神が言われていることの意味を知らないで過ごしてしまうことになります。
神の約束に立ち、神の御言葉を実践し、神の光を指し示す者として歩んでまいりましょう。
お祈りします。
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2017年
1月22日
   宣教『幸いなるかな、心貧しき者』
  
     
聖書箇所
 
 マタイによる福音書5章1~12節
メッセージの要約
テレビを観ていましたら、トランプ大統領が礼拝に出席している様子が映し出されていました。どんな思いで礼拝をしているのだろうと不思議に思いました。そのすぐ近くで、デモをしている人々がいるのです。いったいどんな思いでイエスさまと向かい合うっているのだろうと思いつつ、テレビを観ていました。しかし、それはトランプさんだけにかぎりません。私たちも、礼拝に出ていても、自分の中にさまざまな矛盾があることを知っています。たとえ周りから「あなたは立派なクリスチャンですね」と言われたとしても、自分はとてもそんなものではないということを分かっています。でも、だからどうすればいいというのだと、逆に開き直りさえする、そういう自分が私の中にもいます。

今日、私たちは聖書の中でも理解するのが最も難しいと思うような聖書の箇所を一緒に読みます。
「心の貧しい人々は幸いである、
悲しむ人々は幸いである、
柔和な人々は幸いである、
儀に飢え渇く人々は幸いである、
憐れみ深い人々は幸いである、
心の清い人々は幸いである、
平和を実現する人々は幸いである、
儀のために迫害される人々は幸いである、
わたしたちのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。」

この言葉はまるで私たちの思いを逆なでするかのようです。私たちが幸いだと思うところとは全く違った所に光をあてるのです。実はこの聖書の箇所はある時期非常に不幸な用いられ方をしたことでも知られています。それはアメリカの開拓時代、土地を開墾したり、広大な農場を運営するために、アフリカからおびただしい奴隷が連れてこられたことをご存知でしょう。その黒人たちの反感を抑え付けるために、雇い主たちは奴隷たちにキリスト教を奨励して、彼らの教会を立ててやったのです。どういう意図があったかというと、聖書はこう書いてある「貧しい人は幸いだ。悲しむ人は幸いだ。」だからあなたたちは幸いな人達なのだ。そのようにして、「肌の色は違うけども、あなたたちも神さまに愛されている。だから人を恨んだり復讐を企てたりせず、一生懸命に働きなさい。」そのように支配する者にとって都合よく解釈され用いられた歴史があるのです。
では、この聖書が真に語っているところは何なのか、ご一緒に受けて行きたいと思います。
題に「山上の説教」と書かれていますが、以前は「山上の垂訓」とよく言われました。しかし、そこには道徳のような教訓的な言葉の響きがあって、今はあまり使われません。イエスさまが語っていることは「教訓」ではありません。それは「説教」がふさわしい訳だと思います。キリスト教の説教とは、「ここに神の救いがある」と宣言すること。それが説教なのです。私たちの心に逆行することのように思われるかもしれませんが、「心の貧しい人々は幸いである、悲しむ人々は幸いである…」そこに神の救いがある。そうイエスさまははっきりと宣言されたのです。私たちは神の救い、神の祝福をどこに探しているでしょうか。私たちが幸いとすることは、事柄が自分の思うとおり運んでいる、そうすると私たちは神に愛されて、祝福されていると思いがちです。しかし、イエスさまは私たちが思いもしない所に、幸いを宣言されているのです。
イエスさまは心の貧しい人々、悲しんでいる人々、そういう方々がやがて幸いを、慰めを受ける。だから幸いだと言っているのでは決してないのです。また、ご自身の価値観を私たちに押し付けているのでもありません。イエスさまは心から、貧しい人々、悲しんでいる人々、あなたたちは幸いな人だと呼ばれるのです。
先程も話しましたように、黒人の奴隷たちに対してその雇い主が「貧しくても、悲しくても文句を言ってはいけない」と、聖書の言葉を使って黒人を押さえつけていたという事を紹介しましたが、この言葉は決して悲しんでいる人達や、貧しい人達を抑えつけるために言っている訳ではありません。私たちは富んでいて、悲しみを忘れることが出来て、自分の力を思うままに振舞うことができる。そういう所に幸いがある。そうでもなかったら幸いなんて言えない。そういうふうに思っていないでしょうか。
聖書を読んでみますと、マタイの福音書だけ読んでみましても、その言葉が一番信じられなかったのは、すぐ側にいた弟子たちだったことがわかります。この後、ペトロはイエスさまが「私は多くの苦しみを受け殺される」と、ご自身の受けられる苦難を口にだされると「そんなことがあってはなりません」とイエスさまを諌めようとしたのです。イエスさまは、そういうペテロを厳しく戒められました。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」と。また、最後の晩餐のすぐ後で、「誰が一番後継者にふさわしいか」そんなことを弟子たちは論じあったのです。人の上に立つことが幸いであって、人の下に立つことに幸いがあるなんて弟子たちでさえ信じられなかったのです。イエスさまは、そんなふうに私たちが思ってもみない所に幸いを宣言されました。
また、イエスさまは、幸いを私たちが死んだ後に得られる物としては考えていませんでした。「あなたは、地上において幸いを味わうことが出来る。」と語っているのです。弟子たちは何故、イエスさまが言われたことを直接聞いたにもかかわらず信じることが出来なかったのか。それは、イエスさまが語られた中に十字架を感じ取ったからだと思います。イエスさまは、御自分が語った責任を十字架においてお取りになりました。私たちがこの言葉を聞いたときにそれに対して嫌悪感や怖れを抱くのは、直感的に十字架の苦しみを感じ取るからだと思います。苦しみなんてないほうがいい、貧しいよりは富んでいる方がいい、命令されるよりは、人に命令する方がいい。しかし、イエスさまの言葉はその反対で、その言葉の背後に十字架が透けて見えるからです。私たちは、この世が幸いとしてもてはやしているものを手に入れることが幸せなんだというふうに単純に信じている。それをイエスさまが壊そうとしていると思えて抵抗したくなるのです。
私たちはこれは幸せ、これは不幸と勝手に自分で造っているのではないでしょうか。そして、自分の思っているものが手に入らないと、そういうのは望んでいないと撥ね付けるのです。いま、自分が置かれていることの中に幸いを探そうとしない、そうして自分は不幸だと勝手に決め付けていないでしようか。イエスさまは「ここに神の祝福がある」ごくごく単純にそう語られたのです。しかし、実際それを引き受けてやってみると「あなたがそう言われましたから、私なりに頑張ってみましたけれど、もう耐えられません。」そんな思いになったことがだれしもあると思います。頑張ってみたけど続かない。そこから先が信仰の世界なのです。
あるお坊さんがこんな事を言っていました。「私たちが思う苦しみとは、誰が作り出したかというと、その本人が作りだしたものだ。その人が作り出しているなら、その人が何とかできるのです。」と。これは一見筋が通った話しですよ。でも、私たちの現実はどうでしょう。確かに自分で作りだしている。自分の心の持ちようで何とかできるというレベルのものもあるかもしれませんが、しかし、「悩まない、私が悩むから苦しくなるのだ」と頭でいくら思っていても、それでは如何ともしがたかったという経験がありませんか。聖書が私他たちは罪人であるというのには深い理由があります。それは、私たちはイエスさまの助けをいただきながら自分の直面している現実に相対することを求められているということを指し示しているのです。イエスさまと共に歩む中で、自分の力のなさを痛感させられつつも、自分の思い違いの一つ一つを指摘され、その中で幸いというのは何処にあるのかということを見出すのです。

この信仰の世界の豊かさがどうしてもっと広がらないのだろう、なんでこんなに福音の宣教が一向に進まないと思われるかもしれませんが、いま、私たちは自分自身の人生の軸を何処においているか点検する、そのことを私たちがはっきりさせていかなければ、教会の業が前進することはありえないのです。なぜかというと、宣教とは私たちの生き方だからです。私たちがみ言葉を一心に、まともに、生きること無くして、いったいどうやってこの世の人々は神の真実がここに、聖書に、教会にあるということを受けることができるでしょうか。
私たちが自分の力のみにたよって人生を消耗していけば、私たちは自分自身を不幸に追いやっているだけではなく、周りをも巻き込んで、不幸に追いやって行く可能性があるのではないでしょうか。イエスさまに立ち返って、福音を信じてそれに賭けてみる、教会の信仰生活の命はそこに掛かっているのではないか、そのように思うのです。

お祈りいたします
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2016年
12月25日
   宣教『神の愛に抱かれて』
  
ヨハネによる福音書3章16節     
聖書箇所
 
 ヨハネによる福音書3章16節
メッセージの要約
今日私たちがいただいた聖書の箇所は短い箇所です。でも聖書の中で一番用いられる箇所ではないかと思います。ルターはこのヨハネによる福音書3章18節を「福音のミニチュア」と言ったのです。いくらでも大きく描ける真理を出来るだけ小さく縮小して表現した言葉が、そこにあるのです。ルターはこの聖書箇所について「キリスト者たる者、誰でもしなければならない事がある。まず、この言葉を暗唱すること。」そして
「毎日、自分の心に向かって、これを語り聞かせること。」と言っています。
今日の聖書箇所を、私はこれからもある時は他の誰かがメッセージしているのを聞くでしょうし、自分も誰かに対して語るでしょう。いったいこれから何回この聖書箇所を開くのかと思います。私はこの言葉の持つ豊かさを、まだまだ、千分の一も味わっていない、そのように感じさせられています。
「 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人もほろびないで、永遠の命を得るためである。」
永遠の命というのを不思議に思われるかもしれませんが、この地上にずっと生き続ける意味ではありません。この言葉は神と共にこの地上を、どんな時でも歩いて行ける。神が私たちと共におられる、そういう命を生きるというのが、永遠の命なのです。なぜなら、永遠な方は、神さまお一人だけだからです。神さまと繋がっている。そのことによって、私たちも永遠というのは何か、それぞれが自分の人生を通して味わいさせていただくのです。この聖書箇所はクリスマスの本質を一言で言い表した箇所だと思います。私たちに、神は、その独り子をお与えになったのです。この地上に生きる人間たちがそのしいからではまったくありません。神さまは私たちに自由を与え、神を裏切り、ののしり、神さまから離れる自由をも与えられています。そして実際人間は与えられた自由を、神に逆らうことに使い続けたのです。旧約聖書を読んでいただければ、いったい人間は何度神さまに逆らえば気が済むのかと思わされますが、そういう人間を捨てるという自由をお持ちだったにも拘わらず、神さまは独り子を与えるという決断をもって、人間に応えられたのです。イエス・キリストを信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得る。そこまで言われたのに、そのイエス・キリストに、人間は何をしたのか。「私はあなたを知らない」「殺してしまえ」と叫びました。神さまがこれほど、一方的に愛し、恵をお与えになって下さった。それにも関わらず、人間は受け入れようとはしなかった。それは、二千年前だけに起こった訳ではありません。
皆さんはこの福音に生きておられますか。日々神様から愛されていると実感を思われていますか。私たちの心にあることは、神に愛されているということよりも、人にどう思われているか、自分が何を持っているか。そういう事に尽きるのではないでしょうか。そうして私たちは、小さな自尊心の為に、いつも神に逆らい続けているのです。
人間は与えられた自由をイエスを受け入れることに用いずに、イエス・キリストを十字架にかけて殺したのです。しかし、十字架から復活した後も、イエスさまは「十字架にかけろ」と言った人々の所を周って、痛めつけたりはなさいませんでした。弟子たちはといえば、イエスさまが復活されたと聞いても信じませんでした。逆に怯えて家の中に閉じこもっていました。何故でしょう。私たちは裏切りが何をもたらすか知っているからです。だから、弟子たちも自分たちはイエスさまを裏切ってしまった。復讐されると思いこんで、恐れて家の中に扉という扉にカギをかけて閉じこもっていたのです。そんな弟子たちに、イエスさまは何とおっしゃったかというというと「恐れるな、わたしはあなた方に平安を与える。」だったのです。
私たちは本当に愛されたということを実感している時に、相手の人に対してひねくれた態度で応じるでしょうか。目の前の人が愛を示し、その為にどんな犠牲をはかったかと知った時に、「別に頼んだわけじゃない」と言う人がいるでしょうか。この神の愛を信じた人々が2千年間途絶えることはなかったのです。神は弟子たちを通して、二千年間、許しの言葉を伝え続けてこられた。ですから今日私たちはこの時クリスマスを祝うことができるのです。この地上を見てみると、だんだんと人の心はひからびて、人の言葉が自分の中に入ってこないように、自分の心を閉じている人が増えているのではないでしょうか。
神さまが私たちの為に御子を使わして下さったのです。それほどに、一人も残らず愛されている。目には見えませんが、私たち一人一人が、命を与え、導いて下さる方と共に生きる、それがクリスマスを祝う意味なのです。
教会はクリスマスから一年が始まります。今日、語られた短い御言葉、
「神はその独り子を与えになったほどに世を愛された。それは、御子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである。」
この言葉を、一人一人、心の中しっかりと受け止めて、毎日、自分自身に対して語りかけつつ生活していただきたいと思います。その時その言葉を必要としている人が、きっと皆さんの前に現れます。その時その言葉を分かち合っていただきたい。不安や怖れの中に立ちすくんでいる人に、神は皆さんを派遣されるのです。

お祈りいたします。
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2016年
12月4日
   宣教『恐れを超えて』
  マルコによる福音書4章35節~41節
    
聖書箇所
 
4:35 その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。
4:36 そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。
4:37 激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。
4:38 しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたし ちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。
4:39 イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。
4:40 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」
4:41 弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。 
メッセージの要約
アドベントの時期に入ったのにクリスマスの記事ではなりなと思われる方がおられるかもしれませんが、神がなぜ御子をお与えになったかを考える時、聖書のどこからでもその意味を見出すことができます。
神がどれほどに私達のことを思い、私達に多くのことを求めておられるのかを学ぶことができます。

さて、35節にはイエス様はその日の夕方になって、「向こう岸に渡ろう」と言われたと書いてあります。
イエスは群衆が押し寄せて来たときから舟にのられて、そこから教えておられたという記事がありますのでそれが夕方まで続いたと思われます。
夕方になり、ガリラヤ湖を横切って向こう岸へ渡ろうと言われました。なぜそう言われたかの理由はかかれていません。向こう岸にはゲラサ人がいました。ゲラサ人は異邦人でした。
群衆をあとに残して船出したのですが、一緒に行こうとして、舟を出した人々もいたようです。
漕ぎ出した時には風もなく無事に向こう岸に着けると思ったことでしょう。ペトロを始めアンデレなど少なくとも4人は漁師がいたわけですから、出発する時点で海があれると思ったなら「もう少し待とう」ということになったはずです。
ところが予想外の展開になりました。漕ぎ出したときにはまったく予想もしていなかった突風が吹き始め、舟は波をかぶって水浸しになるほどになりました。
でもイエスは艫(とも)の方で寝ておられました。漁師が4人もいたわけですから弟子達は舟を操って嵐を乗り切ろうとしたことでしょう。しかし自分の力では嵐を乗り切れないとわかってイエスを起こしました。「先生、私たちがおぼれてもかまわないのですか。」
イエスを信頼してたからそう言ったのではなさそうです。
イエスは起き上がって風をしかり、湖に「黙れ、静まれ」と言われました。すると風はやみなぎになった。
イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」
弟子達は「いったいこの方はどなたなのだろうか。風や湖さえ従うではないか」と互いに言ったと書かれています。
この言葉は決してイエスさまを賛美して、イエスさまの力のすごさに感動して言ったわけではないですね。
普通なら、「いやぁー怖かったー、嵐がやんで本当に良かったあ」と言って手を取りあって喜ぶ光景が思い浮かびますが、しかし実際は、イエスさまに「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」としかられていましたね。
弟子達はイエスさまを信頼して起こしたのではなかったのです。
私たちも時々こんなことがありませんか。
「なんで私ばかりこんな目にあわないといけないの!」といいたくなることが。
弟子達は腹を立てていたのです。
「イエスさま、私がこんな目にあってるのに、無視しないでもいいじゃないですか!」と言いたくなることありますよね。弟子たちの心にあったのはそういうイエスさまへの怒りでした。
弟子達は風がおさまって口に出したかどうかわかりませんが、「良かった。死ぬかと思った」と行き残ったことに安堵したことでしょう。
それまでの経験から弟子達は《イエスという方》をわかっていると思っていたけれど、この時自分が本当は何もわかっていなかったということに気づいたのです。そして嵐を静めるほどの方がそこにいることに恐れおののきました。

ここはイエスさまが突風を静めたというお話ですが、中にはこういう奇跡をどう理解しならいいかわからないと言う人もおられるでしょう。
イエスがなぜこのような業をされたか、そのことにどんな意味があるかを考えないで奇跡というだけで退けてしまったら、私達は決して聖書を読んだことにはなりません。
また、イエスさまがすごい人だったのだなとだけ思ったらこれも聖書を読んだことにはなりません。
「もし私が弟子達だったら、あの時どうすればよかったか」と考えることが大事です。

ある人は「そこにイエスが共におられるのだから私達も眠っていればよかったんじゃないか」と言われる人がおられるかもしれません。でもそんなことありませんよね。
私達が自分の人生の中でもしほんとに困ったときには、誰もがイエスさまの名前を呼んで、なんとかしてくださいとイエスに祈るでしょう。
でも祈ったからといって問題がすぐ解決することは少ないです。何十年も祈ってきたという人もおられるでしょう。そして何十年祈ってきても答えがないということもままあるのではないですか。
では私達はどうすればいいのでしょうか。
私達が弟子達だったらどうすればいいのでしょうか。
それは、入ってくる水を力の限り掻き出し続けることでしょう。自分ができることを力の限りすることだと思います。でも時々信仰をもっていても、自分自身が信じられなくなって、自分自身の信仰を嘆いたりするのです。私もそうでした。そうやって疑いまどう中で、自分に求められていることから段々と手を引いて行ったりするのです。

ある方が本の中で紹介してくださっていたエピソードが耳について離れません。
ある修道院の若手のシスターが年長の指導する立場にあるシスターに次のように問うたそうです。
「私は本当に自分が神を愛しているかどうかわかりません」と。
するとその年長のシスターは厳しい口調でこう答えたそうです。
「愛しているかどうかそれを問うているのはあなたでしょう。あなたがすべきことはそのように自分に問い続けることではなく、ひたすらに愛し抜くことです」と。
私達はどうしても頭で考えてしまう。そして結論が出たらしようと思っているんじゃないでしょうか。
でも愛することは神が私達に下さった仕事であります。私達に神は「自分を愛するように隣人を愛しなさい」とおっしゃっているのです。私達になすべきことは、そこに神の配慮と愛があることを信じて、自分に今求められていることを成し続けることなのです。そして自分を忘れるほどに専心したときに、自分という殻が破れて、本当に神がおられること、神が私達に何を求めておられるのかを知るのです。

皆さん、バプテスマを受けられた時に全てがわかってバプテスマを受けられましたか?
そんなことはないでしょう。自分が本当に神を愛しているのか、神が私のために命を捨てられたと言われても本当にそうなのかな?と思われつつバプテスマを受けられたかもしれません。
でもそれでいいのです。そうやって踏み出すこと、わからなくてもまず神の方に一歩を踏み出すことで、そして神を信頼する歩みを続けていく中で、私達は聖書の中に記されている神の奥義に少しずつ触れさせられていくのです。それ以外に神の真理に到達する道はないのです。どんな解説書を読んでも、私達が自分の置かれている試練の中で神を信頼して、自分を忘れるほどに自分にできることを懸命にやっていく、自分ができるかできないかはわきに置いて、とにかく神を信じて取り組んでいくこと、それ以外に私達にできることはないし、求められていることもないのです。

YMCAで高校生に聖書を教えているのですが、クリスマスのことを語ったあとに、一人の生徒が私のところに来てこう言いました。
「イエスがこの世に誕生するのにとても苦労したということはわかった。でも神もイエスも覚悟してこの世に来たんですよね。だから苦労して人間の辛さをわかったと言っても、それには覚悟があったんですよね。でも、この世の中には自分がこのような状況の中に生まれてくることを覚悟して引き受けて生まれてくる人なんていません。だから出発点が違うと思います。覚悟して生まれてこられたイエスと、何もわからずにこの世に放り出された私たちとでは・・・。私も覚悟して生まれてきたわけではない。だから自分はつい逃げたくなるのです。俺が望んだわけじゃないから・・・・と。」と。
この生徒さんの感じておられるような問いが、多くの人の中にあってその人のやる気をそいでいます。
自分は生まれたくて生まれたんじゃない。あの人と自分とがあまりにも違いすぎるのは不公平だ。そこで立ち止まっている人がどれほど多いことでしょう。

皆さんもこの問の答えを生活の中で求めていってほしいですが、
この生徒さんがそういうには、きっと自分も何かの苦しみの中にあって、その問いの答えを求めているのだと思います。

神はすべての人を同じには造られませんでした。確かに皆平等ではありません。
戦禍の中に生まれた人もいれば、何不自由ない中に生まれた人もいます。
むしろその違いの中でその運命を引き受けて、自分が成すべきことをしていくことが、神が本当に私達に求めておられる仕事だと思います。

私の叔母の話ですが、この叔母には4人の障がい者の子がいます。
一人はろうあ者、二人は知的障害、あと一人は身動きすらできません。叔母は苦労をさんざんしてきました。でもその叔母から私は愚痴を聞いたことがありません。
顔は柔和だし、苦労しているようには見えないのです。叔母はクリスチャンではありませんが、叔母はそこが自分の生きる場所と心得ているかのように生きています。
その叔母を見て私は自分はなんて楽なところに自分を置いているのだろうかと思います。
ちょっと問題を抱えると、なんで自分はこうなんだろう、あの人のようでないんだろうとつぶやくのです。そして自分が・・・、自分が・・・、自分が・・・と自分の中でぐるぐる回り続けています。問うているのも私、答えを見つけようとしているのも私、私、私。私から一歩も出ようとしないのです。
しかし聖書は何といっているかというと、「わたし(イエス)を信じなさい」と言うのです。
だから「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」と言われているのです。
この信じるということは、私達がこの答えも出せす、うじうじしている自分を、神の御手にゆだねる、そして私にできることから始めていくということですよね。
弟子達はそのことを全うできていなかったのでイエスさまからしかられたのです。

皆さんも人生を振り返ってみるとありませんか、答えのでない問の前に留まることをやめて、分からないけどイエスを信じて一歩を踏み出す。すると不思議な形で助けが与えられたということが・・・。私たちがこの日曜日に礼拝を守ることが赦されている。それは決して偶然ではないのです。すでに私たちは沢山のものを神から与えられています。そして沢山のものを神から求められています。
私たちは神から本当に愛されている、だからこそ私たちは愛を神に返したと願うのではないでしょうか。

アドベントを過ごしていく中でこの出来事を思いだして下さい。私達はどういう姿勢でアドベントを過ごしていったらいいのか、み言葉からそれぞれ受けて行ってほしいのです。
イエスは自分という枠にとらわれずそれを超えていきなさいと求めておられます。
そして自分が置かれていることに専心し、自分は神を愛しているのだろうか、あるいは自分は神に愛されているのだろうかと頭の中だけで考えるのではなく、自分から人を愛し、人に仕えていく、そこに専心していく、そこに信仰の喜びダイナミズム(広がり)があります。この奥義を味わってほしいのです。
お祈りしましょう。

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2016年
11月27日
   宣教『耳を澄ませて』
  
マルコによる福音書4章21~25節     
聖書箇所
 
 「また、イエスは言われた。「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。聞く耳のある者は聞きなさい。」
また、彼らに言われた。「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。
メッセージの要約
連盟が関わっている世界伝道の働きがどんなに豊かであるか、今日あらためて女性会の皆さんに教えてもらい、感謝します。
佐々木和幸さんが遣わされてルワンダという国はかつて大量虐殺が起こった国です。昨日まで仲良く暮らしていた二つの部族が、ある日を境にその一方の部族が一方的にもう一歩の部族の人々を虐殺したのです。昨日まで仲良く交わっていた人々が、ある日突然、殺人者として現れたのです。身近にある武器でもって、何十万人の人達が殺されたのです。日本では殺人事件を犯した人は元の所に戻る事はありえません。しかし、ルワンダでは刑期を終えた人々がもともと住んでいた町に戻って行くのです。そこには目の前で自分の家族を奪われた人達がいるのです。その人々にとって再び自分の目の前に家族を殺した者が表れるのです。考えただけで恐ろしいことです。この両者がどうやって一緒に生きて行けるのか。佐々木先生はその人達(被害者・加害者)が、もう一度共に生きて行けるように「和解」の為のプロジェクトを進めておられるのです。国家権力の力をもってしても出来ない事を、気の遠くなるような時間と労力をささげて実現していっているのです。クリスチャンの働きはすごいと思います。どう考えても不可能だと思えることに立ち向かっているのです。シンガポール、インドネシア、においても事情は違えど、様々なひずみが生じてきています。そしてその状況はこれからますます厳しくなって行くと考えられます。そのような中でも、何とか道を探して、小さい出来事でも、助けを待っている人達の所へと、助けを届けようと、知恵を働かせ、祈って働いている人達がいることを、この一週間覚えていただきたい。
世界祈祷週間、この時に、この聖書の箇所が与えられたことに、私は神さまという方は本当に私たちのことをよく知りぬいておられるのだと思いました。
「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。」
ともし火を、今だからこそ、掲げ続けなければならない。恐れて升の下、また後ろに隠すのではなくて、高く掲げるのは、今この時だと、神さまから言われているように思います。このようにイエスさまが言われた背景には、弟子たちが、イエスさまが語り、なさっている事に対して、恐れをいだいたという事があるのです。「あからさまに語ると、今まで平和に暮らしていっていた人達とうまく行かなくなってしまいます。」と、そういう恐れが弟子たちの思いに生じたのです。教わり、諭され、訓練されていても、受けた事を輝かせる事が出来ない弟子たちの恐れが、そこにあったという事なのです。
「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。聞く耳のある者は聞きなさい。」
国外宣教に取り組むということは当たり前ではないのです。これまでもたびたび年次総会で激しい議論がなされてきました。「国外宣教も大事だということは分かる。しかし、国内でも牧師のなり手が少なくなって、教会自体が弱くなっているのに、もっと国内に目を向けて力を注ぐべきではないか。」しかし結論として、連盟はそういう中でも国外伝道の働きを弱めることはなかったのです。なぜそれを選び取ってきたか。私たちの助けを必要としている、そういう世界に目を向けるということが、私たちの中から消えていくことは、福音を捨てるということと同じなのです。その時私たちは強くなるどころか、だんだんと弱っていくことを、教会は知っているからです。だから私たちは耳を閉ざしてはならないのです。
アメリカの次期大統領トランプ氏の掲げる政策はことごとく内向きです。「やせ我慢して、世界の警察官になろうとしなくても良い、自分たちのことを第一に考えておけばよい。」と言っているのです。自分たち以外の国のことはその国の人達にまかせておけばよいというのです。トタンプ氏は長老派のクリスチャンだそうです。長老派とはカルバンの流れをくむ人々ですから、産業革命を推し進めてきた人達です。真面目に一生懸命働くことが神の御心であると信じてきた方たちです。それを非難するのではありませんが、自分たちが良ければそれで良いという安易な考えにかたむくと、結局、最後は自分たちの首をも絞めていく事になるのです。
「聞く耳のある者は聞きなさい。」…「何を聞いているのかに注意しなさい。あなたがたは自分の秤で計り与えられ、更にたくさん与えられる。」
私たちはそれぞれの秤を持っていると、イエスさまは言っておられます。自分の経験、価値観です。そのような秤でイエスさまが語られる言葉を聞いて行くとしたら、当然受け入れられるものとそうでないものが出てきます。もしも、自分の価値観、経験でもってイエスさまの言葉を受け止めるとしたら、最初は納得したように思えても、だんだんと失望へと変わって行くと、イエスさまは警告しておられるのです。聖書の中には私たちが聞きたくないようなこともたくさん記されているのです。そのようなところを省いて聞きたいことだけ聞くとしたら、私たちは栄養失調になるか、または一部分だけが肥大してしまいバランスのとれた成長はできないでしょう。ですから私たちがどのように何を聞くか、それが大事なことなのです。そして、秤を、自分の中の秤を、自分で作るのではなくて、神さまからその秤を与えられなくてはなりません。そしてその時その秤とは、悔い改めから生じるものであるはずです。イエスさまの宣教の言葉、それは「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」でした。私たちが持たなければならない秤とは、私たちが悔い改めて神の国を信じ続けるということなのです。周りがたとえどんなに暗くても、神の国がすでに始まっていて、それは私たちと共にあるということを信じる。信じ続ける。そのような人をこの世界は待っているのです。待ち望んでいると言っても過言ではありません。
種まきのたとえに出てくるやわらかい良い地とは何かといえと、悔い改めてから生じる心です。
私たちは自分の価値観で人、神をも量るのです。自分が悔い改めるのではなくて、他人を悔い改めさせたい。そのような思いで行動しても神の国は広がっていきません。この秤とは、悔い改める心なのです。神の命の中に皆、覚えられ、造られて、この地上に送られました。ですから神はたとえどんな悪人であっても、その人々が滅びる事は決して喜ばれないのです。
「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか。」      エゼキエル書18章23節
神さまというお方は、例え悪人であっても、その死を喜ばれるお方ではないのです。その人が立ち返って生きるようになることを喜ばれる方なのです。
「お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を作り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前は死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って生きよ。」             エゼキエル書18章31~32節
方向転換して立ち帰りなさいと神さまは今も私たちに叫んでおられるのです。はたして私たちは「立ち帰って、神の命に生きることを喜ぶ」のでしょうか。もしそうなら私たちは、光を升の下には置きません。それを自分の前に高く掲げて歩むのです。
お祈りいたします。
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2016年
11月6日
   宣教「神の選びとは」
  
マルコによる福音書12章13節~19節     
聖書箇所
   3:14 そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、
3:15 悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。
3:16 こうして十二人を任命された。シモンにはペトロという名を付けられた。
3:17 ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち、「雷の子ら」という名を付けられた。
3:18 アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、
3:19 それに、イスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである。
メッセージの要約

今日の箇所はイエスが弟子を選ばれたところです。
なぜ12人だったのでしょうか?
12というのはユダヤの世界では完全数を表しています。また、この数から思い浮かぶのは旧約聖書の創世記に登場するアブラハムの孫ヤコブの12人の子ども達の子孫が形成していった12部族です。しかし、各部族から一人ずつを選ばれたわけではありません。
大切なことはイエスは宣教をされるに当たって助け手を必要とされたということです。
それは天地創造の業に似ているかもしれません。聖書の神は父、子、聖霊として既に完全な交わりの中におられたのです。神は寂しいから人間を造られたわけではありません。なぜかは分かりませんが、人間と共にやっていきたいと思われたのです。それは神が愛そのものの方だからです。愛は自分のとろこに留まらず外に出ていくものだからです。
そしてその際、神は人間をロボットのようには造られず、人間に完全な自由を与えられました。それはつまり、人間が与えられた自由を神に歯向うことに用いることをも認められたということです。
現に最初の人間アダムとエバからして、神に逆らったのです。しかしそれから人間に何度裏切られても神は人間を諦めたりなさいませんでした。
人間の助けなど借りずとも、御自分で何でもできたであろう方があえて12人を立てられたのです。

12人の中には漁師や人々に裏切り物とみなされていた取税人をしていたものもいました。さらには国粋主義的な思想集団の人までいたのです。
「なぜそんな人を選ばれたのか」と不思議に思うのですが、その人々が選ばれた理由は、ただイエスがこれと思う人だったとしかいえないのです。
イエスがそれほどに見込まれたのだから、それぞれに何か特技とか才能があったのだろうと思いたい
のですが、例えば意志が強いとか、弁舌が立つとか、頭がよくお金の計算が早いとか・・・。しかし、それは私たちの憶測にすぎません。なぜ彼らが選ばれたのかはよくわからないのです。
さらに、19節には、「それにイスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである」という言葉があります。
もし教会の中でそんな重大な裏切り行為をした人がでたら、普通はそんな人は除名されるでしょう。しかしイスカリオテのユダの名は聖書から消し去られることはなかったのです。
なせそんな人物までもイエスは選ばれたのか?
その答えも記されてはいません。しかし、主はこのユダをお選びになったのです。
またこの12人はみんな仲良しと言う訳にはいかなかったと思われます。
マタイという人物はマタイによる福音書を書いた人と言われていますが、取税人でした。取税人とはローマへの税金を同胞から集める仕事をしていた人で、ローマの手先と見られていました。税金の額は決められていましたが、いくら手数料を取るかはその人次第でしたから、儲けようと思えば上乗せする額を多くすれば良かったのです。だから取税人にはローマの犬とみなされて一般大衆から憎しみの対象となっていたのです。
それに対して熱心党のシモン、彼はある思想集団に所属していました。反体制派の集団です。時には暴力を使って対抗していたと思われます。そんなシモンはきっとマタイを許せなかったでしょう。
イエス抜きに出会っていたら二人は争いあっただろと思います。
また最後の晩餐の記事には弟子達は「この中で誰が一番偉いだろうか」などと話し合っていたと書かれていますから、使徒といえども、この集団の中には緊張関係があったことは間違いありません。
考えてみると教会も同じではないでしょうか。どちらも単なる仲良しの集まりではないし、完全にはほど遠いように思います。しかしイエスさまはこのような人々に宣教の業を委ねられたのです。
弱く貧しい者が神の宣教の業を果たすのですから、当然いろんな過ちを犯すことになったのです。しかしそれでも、神はこの時間のかかる面倒くさい方法を敢えて選ばれたのです。

弟子達は使徒と呼ばれていました。使徒とはおつかいということです。
使徒の勤めの第一は、イエスのそばに置くためです。
皆さん、礼拝に行くことを迷うことってありませんか。そんな時はあれこれ考えないでとりあえず礼拝に行ったがいいのです。それが私達にとって最も大事なことです。
私たちの手が冷たいと思ったらイエスさまは暖めたいと思っておられます。
私たちの内に迷いが生じると、それはやがて不安感や、わだかまりが高まっていき、ついには他者との間のきしみとなって表れてきます。
そして往々にして私たちは自分だけでそれを解決しようとするのです。そして自分で迷路に嵌りこんでしまうのです。だから、とにかく、何を置いてもイエスのところに行くのです。礼拝に出るのです。
皆さん、時計が壊れたらどこに持っていきますか。果物屋には持っていかないですよね。
私たちもいろんな出来事で時に傷つき、時には深い闇の中に一人置かれているように感じる時もあるのではないでしょうか。そんなとき私たちはどこへ行くのがよいのでしょう。私たちのことを造って、私たちのことを私たち以上に一番よく知ってくださっている方のところに行くのがいいとは思われませんか。

弟子のつとめの第2は派遣して宣教をさせるためです。
イエスさまがマルコの1章の15節で「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われたように福音を宣教するということです。
どのような暗い時代でも神の時は始まっていることを言い続けること、神は私達と共にいて下さることを言い続けることです。

第3の勤めは悪霊を追い出す権能を持たせるためでした。
すごいなと思われるでしょうか。それともちょっと怖いなと思われるでしょうか。悪霊を追い出すことそのものはイエスさまがされることです。私達はそのお手伝いをするだけです。霊を私達がどうにかできることはないのです。悪霊ならなおさらです。ではなぜこのようなことを言われたのでしょうか。
皆さん、イエスさまを信じてからなんとなく変わったと人から言われたことがあるのではないでしょうか。
例えば、以前ならとっくに放り投げているところを細々であってもそれに関わり続けている自分がいる、自分の課題(病気、挫折)があって追い詰められてもなんとかなる、神さまがなんとかして下さると思える、これが悪霊を追い出す力だと私には思えるのです。
楽観主義になれと言っているのではなく、神は私達に最善のことをしてくださり、神は私達のことを愛してくださる、だから諦めない、どんなことにも関わり続けていく、それが悪霊を追い出す力でもあるのです。
自分の気に食わないと人に当たったり、自分で自分を傷つけるのではなく、イエスさまがそばにいてくださるから、私はあきらめない、これが悪霊を追い出す力だと思うのです。
私たちがそのように生きることで神さまは私達にきっと素敵なことをしてくださる、自分の思っていないような業を神は私達を通してしてくださる。それがこの使徒たちに与えられた力でありました。

イエスさまはこれと思われて12人を選ばれましたが、結末がどうなるかはイエスさまもご存じではなかったのです。ユダの裏切りもイエスさまは最初からそれを知っておられて選ばれたのではないと思います。
しかしこの弟子達を選ばれた時にイエスさまは覚悟だけはされただろうと思います。その後弟子達は全員イエスを裏切りました。イエスは弟子たちが自分のしたことを悔いて許しを乞う前に、十字架上で彼らのために執り成しをされたのです。
イエスさまはどんなことになろうとも弟子達を見放すつもりはなかったし、どんな弟子を選んだとしても自らの命を投げ出す覚悟をして選ばれたということは確かだと思います。
そのイエスさまの覚悟が今もすべての教会を生かし続けているのです。
私たちは一人一人違います。考え方、性格も違う。だから時々ギスギスする。でもそういう痛みや悲しみがあるからこそ私達はイエスさまの人間への愛と十字架の出来事を思い返すのです。
もうちょっとまとまりのある優秀な人達が集まれば、お金も集まり、伝道はどんどん推進するだろと思うかもしれません。でもイエスさまは決してそんなことは望まれないのです。高貴な者を辱めるために貧しい者を選ばれるイエスさまですから。
私たちはそのイエスさまに選ばれたということを信頼して、自分にできることをイエスさまに返していくだけです。祈りもそう、礼拝もそう、お金だってそうです。すべてイエスさまが私たちにゆだねて下さっているのです。だから惜しみなくイエスさまに返していく、それが私達の人生、生き方です。
どんなことがあってもイエスさまのところにまず行きましょう。

先日、泉選也先生の下関教会への牧師就任式がありました。
泉先生は石川姉妹のお孫さんですが、下関教会への召命、受諾、就任に至るまでのことを文章にしておられたものを読みました。その中の一文にはこうありました。
「下関教会は、たとえ無牧師の状態にあったとして、幼稚園の子どもたちや保護者にどうすれば福音を届けることができるのか、そのような教会の使命を自らに与え続けておられました。私は多種多様な教会があって良いのだと思っています。伝道に励む教会、社会奉仕に生きる教会。いずれにしても大事なのは、教会としての使命を持つことだと考えます。以前研修させていただいた伝道所における、ファミリーホームの働きを見てその思いに至りました。幼稚園を持つ教会としての使命、地域に対する使命を掲げて歩んでおられる、あるいは歩もうとされている下関教会の思いに、どうか私も伴わせてください。これら具体的な関わりを通して、共に福音宣教に仕え、御言葉に生きる者でありたいと願っています。」と書かれています。
私が牧師としてこの教会を指導しようというのではない、今ある下関教会の使命に私も伴わせてほしい、イエスの十字架の苦しみを自分も一緒に担っていきたいとおっしゃっておられるのです。
イエスが弟子達を選ぶときに求められたのはそのことでした。共に苦しんでほしいということです。
私たちはそのような者として選ばれてきた者ですから、その使命を自分自身に明確にしてこの一週間を歩んでいきましょう。
お祈りします。


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2016年
10月23日
   宣教
  
使徒言行録9章1~19節     
聖書箇所
    9:1 さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、
9:2 ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。
9:3 ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。
9:4 サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。
9:5 「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
9:6 起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」
9:7 同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。
9:8 サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。
9:9 サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。
9:10 ところで、ダマスコにアナニアという弟子がいた。幻の中で主が、「アナニア」と呼びかけると、アナニアは、「主よ、ここにおります」と言った。
9:11 すると、主は言われた。「立って、『直線通り』と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。
9:12 アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ。」
9:13 しかし、アナニアは答えた。「主よ、わたしは、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。
9:14 ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、祭司長たちから権限を受けています。」
9:15 すると、主は言われた。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。
9:16 わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」
9:17 そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。」
9:18 すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、
9:19 食事をして元気を取り戻した。
「うろこの落ちたまなこから見る風景」
メッセージの要約

今日は召天感謝礼拝という事で、召天者のことを覚えつつ、共に主に礼拝を奉げ、私たちが何処から来て何処へ行くのか。そして、私たちが主にどのように向けていったら良いのかを、ご一緒に御言葉から聞きたいと思っています。石川兄、神野兄、木戸兄、鈴木兄、出崎姉の遺影が会堂の後ろに置かれていますが、それは私たちも、また先に主のもとに召されたあの兄弟姉妹たちも共に礼拝を奉げる者として備えられているからです。この地上を生きている間も亡くなってからも礼拝者であることは変わらないのです。一緒にイエスさまの方を向いて共に礼拝を奉げたいのです。資料に他の方たちの名前が記されていますが、皆、主の御元で、私たちのまだ、見ることが許されない場所でイエスさまと向かいあって礼拝を奉げています。私たちは私たちにもいずれやってくるその日を待ち望みながら、今日この時を、主がくださった御言葉をもって、主に礼拝をするのです。
今日の聖書の箇所はサウロという一人の人の起こった出来事です。良く「奇跡って本当にあるの?」と聞かれます。もし聖書の中の奇跡が作り事であったら、二千年間も教会が続くわけがありません。私は2千年の間騙され続けるほど人間は愚かではないと思います。逆に言えばこれだけキリスト教の歴史が続いたことが、そこに何か真実なるものがあり、そこに流れ続けている真実が人間を生かし続け、助けられ続けてきたからこそ、今日この時があるのです。
サウロに起こった出来事というのは、聖書の中でもっとも大いなる出来事だと思います。私が牧師になって、いく人の方たちに、バプテスマを授けてきました。その方が神を受け入れてバプテスマを受ける事は、それこそが奇跡なのです。目の見えない神を信じて、神と共に歩む人生を選び取るのですから、そういうことが起こるということはやっぱり奇跡としか言いようがありませんし、それを第三者に説明する事は難しいことなのです。神の存在を信じて、神と共に歩む事は奇跡と言わず何と言うのでしょうか。聖書によれば、その人がイエス・キリストを信じるかどうか、神さまの働きなのです。神さまが働いて下さっているからこそ、私たちはイエスさまを自分の救い主と受け入れていけるのです。ここにおられる方々は、そのようにして人生を歩んで、主の元に安らいでおられる方々なのです。
サウロという人は最初、教会に敵対する人でした。ステファノという人が殉教する記事がありますが、その時にも、サウロはステファノが死刑にされていくのを、側で見ながら、ステファノに石を投げる人たちの上着の番をしていたのです。主を信じる者たちに神の名による裁きを与えよう、クリスチャンたちを殺害しようと意気込んで、大祭司の所に行って、(所持万端)何も妨害もなく進むように、道筋を整えて、ダマスコという町へ出かけて行くのでした。
ここからパウロが自分の信じる道に熱心になっているのが分かると思いますが、ここにはサウロの嬉々として迫害に向かう様子が読み取れます。このキリスト者に対して非人間的な行いは、クリスチャンが憎いから、クリスチャンに復讐したいからではなく、サウロの神さまに対する熱心さから出たのです。
「わたしは、キリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人です。そして、この都で育ち、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受け、今日の皆さんと同じように、熱心に神に仕えていました。わたしはこの道を迫害し、男女を問わず縛り上げて獄に投じ、殺すことさえしたのです。」(使徒言行録22章3~4節)
それほどサウロは神に対して熱心であった。私たちは例え神に熱心であったとしても、人間の熱心さには、つねに危険な面が伴っていることを自覚しなければなりません。パウロはキリストと出会い、バプテストを受けた後も、熱心という点では変わりがなかった。しかしそれは、他者を裁き、憎むことに於いてではなく、愛することにおいて、熱心であったのです。
「たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識の通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人人のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。」(コリントの信徒への手紙一13章2~3節)
主によってパウロと名前が変わりますが、主に出会う前には非人間的な振る舞いに、キリストを受け入れた後は、他者を愛することにおいて、自分の熱心に注ぐようになって行くのです。そして、自分自身の知性の働きを決して鈍らせることなく生きた人でありました。
サウロはクリスチャンになってどのように変えられて行くのか。神ご自身がアナニアという人に告げています。
『すると、主は言われた。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名にためにどんなに苦しまなくてならないかを、わたしは彼に示そう。」』(使徒言行録9章15~16節)
サウロは自分の熱心を他者に押し付けるのではなくて、自らが他者の為に苦しむ事を、これからの人生において、主に求められて行くのです。これこそが、私たちクリスチャンの使命でもあるのです。私たちは人を傷つけたり、迫害する為に命を与えられているのではないのです。他者の為に生き、苦しむこそ、私たちは命を用いる。主に求められているのです。そのようにサウロは人生180度変えられたのです。「うろこが落ちた」と書かれていますが、生き方そのものが変わってしまったという事を示しているのです。サウロは主との出会いを通して自分自身の目が、いかに覆われていたか。自分自身が行こうとしていた方向が命を生かす方向でなくて、命をつぶし、消し去る方向に向かって行ったか。サウロは知らされていくのです。
私たちは皆、人を愛する力を、神から与えられています。ですが、私たちはその力を正しく使えているでしょうか。残念ですが、一人一人ご自身の胸に手を当てて考えてみでください。自分がその力を人を愛するためにその力を用いているか、それとも反対の方向に使っているか。力そのものは良くも悪くもないのです。それをどの方向に用いるかが大事なのです。その力が人を押しつぶしていく方向でなく、壊れた瓦礫を取り除いて、新しいものを創造していく、そのように用いられたとき私たちは真にその力を用いたといえるのです。神はそのような自由を私たちに与えられている。だからこそ、私たちは、その使い方を聖書から学んで行かないといけない。
サウロはその使い方を主から示されていくのです。あなたは人を傷つけたり、痛めつけたりするのではなく、自分の熱心を相手に押し付けて、自分の言うとおりにさせるのではなく、あなたがその人の痛みや悲しみを自分の悲しみや痛みとしていく方向へとその力を用いるのだ。そういう人生へとサウロは変えられて行ったのです。
この大いなる人生転換は、私たちの人生を、まったく違ったものにして行きます。私たちはさまざまな事態に直面します。病気、事故、挫折、その人にとっては人生大きな事態かもしれません。ですが、その一つ一つの問題そのものが問題である事はほとんどないのです。大事なのは、そういう事に対して、私たちがどういう態度を取るかではないでしょうか。自分自身が今、直面している苦しさや問題に対して、何を選べばよいかという事なのです。それをこそ知らされて行くことが、「目から鱗が落ちる」ということなのです。よく考えてみますと、試練や困難は決して人生の特殊な領域では決してありません。誰の人生にも、ごく当たり前の事として、与えられていることです。私たちはキリストと出会い目が開かれる時に、どういう事がその人に起こるかと言うと、自分が挫折の中にある時、その自分が「これが問題だ」と思うものに意識が集中してしまう。そしてこの問題があるから駄目だと、私たちは決め付けるのです。そうではなくて、悩みの時を生きようとも、健やかに生きていた時期と何にも変わりがない。むしろそういう時こそ、それに優る価値を与えられている。そういう時を生かされていることを、私たちが知る事ができる。それが大切なポイントなのです。私たちが人生の中で見るものは、生も死も、何の変わりがないという事です。死は特別なことではないのです。なぜなら、私たちの命は神さまから与えられたものだからです。そして、この地上で神さまを礼拝しつつ生き、地上を去っても、神さまの間近で礼拝する者として、生涯を歩む事が許されているのです。神さまは私たちを造り、どんな状況の中でも、背負ってくださる。聖書の約束であります。その約束が私たちの「目が開かれて行くこと」であることをもう一度自分の心の中に刻んで行きたいと思います。主が私たちの目からうろこを取り去ってくださり、今、自分がどんな人生を生きていようと、そここそが自分の最高の人生となるべき場所であることを知ることができるのです。それが福音、キリストの力なのです。どうぞ、その事を心に納め、後ろに置かれたお一人お一人がそのようにして人生を全うされたことを覚え、私たちもその後に続いていけるように、支えてくださる主に祈りを奉げたいと思います。

お祈りいたします
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2016年
10月2日
   宣教「主の憐みが私を変える」
  
 マルコによる福音書1章40節~45節    
聖書箇所
 
1:40 さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。
1:41 イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、
1:42 たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。
1:43 イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、
1:44 言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」
1:45 しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。
メッセージの要約
重い皮膚病、聖書によってはらい病と書いてあるのもあるかもしれません。
レプラというギリシャ語が使われています。現代ではハンセン氏病と呼び、開発途上国では今でもハンセン氏病を発症する人が多いです。
感染力はそれほど強くないのですが、治療をちゃんと受けられないと菌が段々と体を蝕んでいきます。
日本ではらい病と言っていましたが、その病気とわかるともうその村には住めなくなりました。
当時のユダヤではらい病がわかると、次のようにしなければなりませんでした。(レビ記参照)
13:45 重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらねばならない。
13:46 この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない。
普通の人が生活する空間にはいることができなくなったのです。
普通なら病になったなら同情を受け、世話を受けるべきなのに、人の世界の外に追いやられる。
追いやられた人の苦しみはどんなだったでしょう。
「なぜ自分はこんな病気にならなければならなかったのか。」と答えのない問いを問い続け、神を呪うことさえしただろうと思います。またまわりから受ける蔑み、敵意など、それによる苦痛は想像を絶するものがあります。
人間の世界の外に追いやられるというのは人間ではなくなるということです。
世界中にレプロシーミッションというキリスト教団体が運営している活動があるのですが、ネパールにあるレプロシーミッションに応援のため物資を持っていったことがあります。
そこで初めて私はらい病がどういうものであるかを目の当たりにしました。驚きで言葉がでませんでした。眼がなくなったり、手がなくなったり、鼻がなくなったりしておられました。また痛みを感じないためにやけどをしても全く平気なのです。
今では特効薬が開発されていますが当時は不治の病でした。

さて今日の箇所では、この人はイエスのもとに来てひざまずいて願いました。「御心ならばわたしを清くすることがおできになります」。なぜ癒すと言わなかったかというと、レビ記に書いてあったように汚れているとされたからです。だから汚れからすくってください、清くしてくださいと言ったのです。
周りの人はこの人の存在に気づいた時おそらくドン引きしただろうと思います。ライ病という病に対する恐怖と、そんな奴がなんでこんなところにいるのだという敵意が生じたでしょう。
しかし、イエスはその人を深く憐れんで「よろしい、清くなれ」と言われました。
この「深く憐れんで」という言葉は「内臓が引き裂かれる」というのが本来の意味です。内臓が引き裂かれるような痛みをイエスさまはそこで覚えられたということです。
そこでドン引きしている周囲の人達、本当ならそういう病の人の苦しみと痛みを理解しようとも、寄り添おうともしない人々のありようにイエスは憤りを感じ、また悲しまれただろうと思います。
イエスの言葉とともに、たちまちその人のらい病は癒されて清くなりました。

そのあと、以外な展開が起こります。
イエスさまはその人をすばやく立ち去らせようとして厳しく注意して言われました。「誰にも何も話さないように気を付けなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」
そこら中の人に「私、治りましたよ」と言ってどこが悪いのだろうと思いますがイエスさまはそれをお許しになりませんでした。
その人を人の暮らしの外に追いやった人たち、差別していた人達のところに戻りなさいとイエス様はおっしゃったのです。いくら治ったとはいえ、これので受けてきた蔑み、敵意を彼はなかなか忘れられないでしょう。そんなところへ行きたいなんて思わなかったでしょう。この人自身も周囲に対して怒りや憎しみを燃やしていたとしても何ら不思議はありません。しかしイエスはこの人が彼の一番嫌なところに行くことをあえて求められたのです。
しかし彼はそこを立ち去ると大いにこの出来事を言い広め始めました。
皆さんは彼がしたことをどう思われますか。
このことにより、人々が押し寄せてイエスさまは町に入ることができなくなりました。それでもイエスさまの評判が広がり宣教が成功してよかったじゃないかと思われますか。
しかし教会はそのようには受け取らなかったのです。
なぜか。この人は「御心ならば私を清くすることがおできになります」とイエスに訴えました。そしてそのとおりに癒されました。一方イエスさまも後に同じように祈られることになったのです。十字架にかかられる前にゲッセマネという場所で。
「この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」と祈られたのです。でもイエスに対してはその杯は取り去られなかったのです。つまりイエスさまは十字架刑という痛ましい運命を受けて行かなければならなかったのです。その十字架と復活のできことが人間にとっての真の救いのできごととなっていったのです。
ですから教会はイエスキリストを単に病を治す人としては述べ伝えなかったのです。
もしイエスさまを信じれば病気が良くなりますよ、抱えている夫婦関係も会社での関係もみんなよくなり、運が向いてきますよと告げ知らせたならば、教会はもっといっきに大きくなったかもしれません。
しかし教会はそれをしませんでした。イエスさまがここで注意されたように。
なぜならもしそうするならばただ欲望を露わにし、欲望を満たされることだけを人間は弱さの故に追い求めてしまうからです。教会というのは紀元後4世紀に公認されますがキリスト教徒などという存在にはじめの200年くらいは誰も注意を向けなかったのです。パウロがアテネで福音を述べ伝えたときに、十字架と復活の話まで来ると、「もうその話はいい、後でまた聞かせてもらうから」と無視されたことがありましたる。聴衆には十字架にかけられた罪人が人々を救う救世主だとは思えなかったからです。

イエスさまは私たちが見ようともしない罪を問題にされます。
福音というのはつまるところ、苦しみへの寄り添いのことですよね。
イエスさまは苦しんでいる私達の傍らに寄り添ってくださり、その苦しみを背負って歩いてくださる方なのです。だから教会は人々が自分自身の苦しみを引き受けていけるように導いていったのです。
そのような苦しみを通して人生の真実であったり、福音の豊かさを知らされていくのです。
御心をと祈りながらその祈りがかなえられず、十字架を引き受けていかれたイエスさまをキリストと仰ぐわけですが、私達がそれぞれの状況の中において、共に歩んでくださる方、苦しみに最後まで寄り添って下さる方、倒れたら手をとって引き上げ、その人が最後まで自分自身に向き合い、人生をその人らしく全うできるように助けて下さる方イエスが、この私の傍らに片時もはなれずいてくださるものとして歩むのであります。

ライ病を患っていた人は、彼を敵視し、自分を追い出したところに戻るようにイエスに言われましたが、彼はそうでない道を選びました。そのことを誰も責めることはできないかもしれません。
しかしイエスさまは憎しみや敵意とも逃げないで向かい合っていくように望んでおられるのです。私達は自分が行きたいところに行くのではなく、イエスさまが願われるところに行くことを通してはじめて神のしもべと呼ばれるにふさわしい存在になるのです。
これからも教会とクリスチャンの歩みはそういうものです。
それは獣に脅かされるような状況かもしれませんがどうぞそこには先週も学んだように天使もいてくださることを信じて、恐れないで一週間を歩んでまいりましょう。
お祈りしましょう。
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2016年
9月25日
   宣教「主が私を呼ばれたのです」
  
 マルコによる福音書1章16~20節    
   
メッセージの要約

今日の聖書の箇所は単純なお話しです。イエスさまがガリラヤ湖のほとりを歩いておられた。湖のほとりを歩いておられると、シモンとその兄弟アンデレが湖で網をうっているのをごらんになった。そしてその様子をじっと見つめておられたというのです。イエスさまは彼らに「私について来なさい。人間を取る漁師にしよう」と言われました。すると二人はすぐに網を捨てて従ったのでした。「また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、船の仲で網の手入れをしていると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に船に残して、イエスの後について行った。」
教会の歴史が始まってすぐに、教会はさまざまな非難や批判にさらされました。いろんな憶測が飛び交い、教会とは何か、クリスチャンとは何者なのだ。その元をたどってみると、イエスという男について来いと言われて、良く考えることも、相談もせず、すぐにほいほいとついて行った、そういうやつらから始まった集団だ。とても分別のある者のすることとは思えない。そういう批判があびせられたのです。分別のある人から見れば、真に軽率にみえる。しかし、そうやって人々が非難した生き方こそが、他に例にはない確かのものであったのです。
何かを信じるという事はハードルが高いとよく言われます。信じることは理解と動機が必要だと。そう考えるのも無理からぬ話です。しかし、クリスチャンになるには、十分な理解、動機があって、主イエスに従うということが実現するというのなら、私たちの考えがふらついたり、変わったりしたら、どうなるのでしょうか。このような思いこそ実は錯覚なのです。聖書では、私たちが信仰を得るというのは、私たちの業ではなく、聖霊、神の業だと、はっきり言っています。
「聖霊によらなければ、誰もイエスは主であるとは言えないのです」(コリントの信徒への手紙一12章3節)
ペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネも、言われてすぐについて行った。この4人は最後にどうなったかというと、殉教の死をとげたと言われているのです。彼らの中に真に確かなものがなければ、最後まで信じて道を歩くことなどできるでしょうか。私たち人間は、自分の中のどこを探してみても、最後にはあやふやなものが残る。しかし、私たちに確かな揺らがない動機がないとしても、神さまの方には十分な動機があるのです。神さまの方にはペテロ、アンデレを、そしてヨハネ、ヤコブに対する十分な動機がおありになったのです。私たちの信仰は神の中に基礎があるのです。私たちは試練の中において、たとえ心が揺らごうとも、神は揺らぐことなく、私たちを導いてくださるのです。だから、その道を歩み通すことが出来るのではないでしょうか。
私が信仰をもった時の事を考えても、どれほど理解していたか。その後、どんなことが起こるかなんて全く分かりませんでした。イエスさまに従って行く中で、だんだんと分からせてもらえる。それが信仰における恵だと思うのです。
でも、イエスに従うということは家族を捨てなければならないのではないかと思われるかもしれません。この4人は家族をすてたように見えますが、29節を見ると「すぐに、一向は街道を出て、シモンとアンデレの家に行った。」とあります。
18~20節だけを見ると彼らは残酷にも家族を置き去りにして捨てていったようにみえますが、彼らは自分の家に戻って、家族の者の病をイエスさまによって癒していただいているのです。イエスさまに従うことによって、彼らは真の家族とは何かを知らされ、本当の家族になっていったと言えるかもしれません。イエスに出会うまでは一家を養う分を稼ぐため、すべての事は自分たちに掛かっていると思っていた。しかし彼らは、イエスさまと出会い、自分の中心にイエスさまを迎えることによって、人生の中心は何か、命の源とはどんなものか、知らされていったのです。同じことが多くの弟子たちに起こっていったのです。そしてイエスさまの背中を見ながら歩んで行く者となったのです。イエスさまはこのようにして、シモン、アンデレ、ヨハネ、ヤコブを招かれました。彼らはこの事を多くの人に伝えていったのです。今に至るまでその歩みはとどまることなく、それによってイエスさまを信じる者がおこり続け、イエスさまの背中を見ながら歩いて行く人生に、喜び、平安があると教会は、キリスト者は証言し続けているのです。実に二千年間それは起こり続けて来たのです。私たちが真に求めているもの、願っているもの、それがここにあるのです。二千年の間起こり続けている、これを奇跡といわずして何と言いましょうか。私たちは、それぞれ一人一人置かれている状況はまったく違っています。しかし、共通している事はただ一つ、私たちは「主から呼びかけられている」という事なのです。主から呼びかけられたアンデレ、ペテロそしてヤコブやヨハネ、そして次は彼らを通して神は人々を招き続けられました。今も私たちを通して神は語って行かれるのです。今も神の呼びかけはクリスチャンを通してこの世界に響き続けているのです。
「私に付いて来なさい。あなたを人間を取る漁師にしてあげよう」
今日も私たちは礼拝を受けて、主の弟子として出て行くのです。一人ではありません。主と共に出て行くのです。主は私の先に立って歩いてくださるから、家族の所へ帰って行くのです。友達の所へ出て行くのです。難しいと思っている自分の職場に戻るのです。イエスさまを信じてそれで終わりという事ではないのです。私たちはイエスさまの背中を見ながら歩み出すのです。今までは誰かの人の背中を見ながら歩いて行ったかも知れません。しかし今、私たちの目の前にはイエスさまが先立って歩んでくださる。私以上に私を知り、私を愛してくださり、「あなたは私にとって何より尊い」と言ってくださる方が私を導いてくださるのです。その言葉通り、自分の命まで奉げてくださったイエスさまが、私の前に歩んでくださるのです。これ以上に確かな人生はあるのでしょうか。主が共にいてくださっている事、先立ってくださっている事、そのことを深く心に留めて、感謝してこの一週間を旅立って行きましょう。

お祈りいたします
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2016年
9月11日
   宣教「真の人生に踏み出す時」
  
 マルコによる福音書1章1節~15節
聖書箇所
   1:1 神の子イエス・キリストの福音の初め。

1:2 預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの道を準備させよう。

1:3 荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、

1:4 洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。

1:5 ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。

1:6 ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。

1:7 彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。

1:8 わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」

◆イエス、洗礼を受ける

1:9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。

1:10 水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。

1:11 すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

◆誘惑を受ける

1:12 それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。

1:13 イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。

◆ガリラヤで伝道を始める

1:14 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、

1:15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。
   
メッセージの要約
皆さんは土居健郎さんという方をご存じでしょうか。
「甘えの構想」と言う本がしばらく前に有名になりました。
その中に大変興味深く指摘をしておらます。
なぜ現代に心の病気が増えるのかを論じたところです。

「現代人の幸福獲得戦争」―戦争など災害時に心の病気がよくなり、平和時に心の病気が増えるのは皮肉な話である。この事実から人間は不幸を直視できるときには病気にならない。不幸だが病気ではない。ところが不幸を直視できずなんとか幸福になろうと焦ると心の病気になる。」であるから戦争の時のようにみんなが不幸でどちらを向いても不幸だらけの時は誰も不幸から逃れようとしないから心の病気が減るのだろうと思われる。しかし平和な時は、平和なだけにめいめいが幸福になろうと懸命になる。実に今日の時代精神はなるべく多くの安楽を、苦痛のあたう限りの除去を、心を高揚させる刺激を追い求めることをもってよしとしている。

わたしもこの指摘には思い当たる部分が沢山あります。
自分自身に襲ってくる試練を直視せずに、誰かに責任転嫁したり、そこから逃げ出そうすしたり、しかしそうすればするほどさらに追いまくられるようにさえ思えます。
そんな中で私はキリスト教に出会ったのですが、出会ったときは、この宗教によって心の健康を回復させたいなと単純に思ったわけです。確かに宗教にはそのような面があることは否定できません。しかし反対に宗教心ゆえに心が益々病むことだってありうるのです。
宗教を持ったがゆえに自分自身は正しいと思いこんでしまう。そしてそこで与えられた正しさによって周りの人を裁き始める。自分自身の分を超えて自分を神と等しいかのように考えてしまう、そこであらたな病が生じてしまうようなことが起こり続けています。
そしてまた何かを信じる、しかし信じてもうまくいなかいと、自分の努力が足りないから駄目なんだ、もっと献身しないから駄目なんだと自分自身を追い詰める。
私達は宗教を信じていくときも、信じていないときにも心の在り様が定まらないために、自分の望まないような方向に行ってします。皆そのような経験を持っているのではないかと思います。

ここに登場してくるバプテスマのヨハネですが、彼はどうようなことを語ったでしょうか。
ルカによる福音書3章の7節から―
そこでヨハネは、洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆に言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。
悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。
斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」
そこで群衆は、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。
ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。
徴税人も洗礼を受けるために来て、「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と言った。
ヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」と言った。
兵士も、「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言った。

ある意味全うなことではありますが、イエスの時代、飢饉が起こったり、ローマからの重い税に苦しんでいたり、イスラエルの人たちは自分たちの希望をどこに見出していいかわからなかった。皆自分のことで精一杯だったのです。誰もが自分を守ろうと必死だった。これは今の日本にもいれることかもしれません。
コンビニで店員さんを怒鳴り続けている人がいたり、電車の中でも大声で怒鳴っている人を見かけたりしませんか。まるで自分が神にでもなったかのように、他者を弾劾している人を見るとやり切れなくなります。
しかしヨハネは下着を2枚もっているものは一枚を人にあげなさいと言うのです。
皆さんはどう思われますか。
この二枚しかないと思い、それらにしがみついているときには、周りにいる者が自分からそれを取り上げようとする敵だとみなしても不思議はありません。しかしそれを分かち合うことができればもはや相手は敵ではありません。
私達と同じように呼吸をしている人になるのではないでしょうか。
徴税人は同胞から憎しみを受けている人でした。ローマへの税金をローマ人に代わって取り立てていたからです。人々から憎まれる分、満たされないものをさらに沢山取り立てることで心の満足を得ようとしていました。
しかしヨハネは規定以上のものを取り立てるなと言われます。
それでは俺たちは憎しみを受けるのだけに甘んじろというのか、という叫びが聞こえそうです。
でも江戸の敵を長崎で打つようなことをし続けても本当の幸せは得られないのです。
このままいけば自分の行動によって、益々人との距離は開き、敵意が増していくような方向にエスカレートするのです。それを絶ち切れるのはあなただけだとイエスは言われたのです。
兵士も自分の命をかけて国を守る。ですから当然不安と怖れとがあると想像されます。自分が死んでしまえば家族を養えなくなるから、前もって安全な方法を取ろうとする。人のお金をゆすりとってまで・・・。しかしヨハネはもらっている給料で満足せよと言うのです。

つまりヨハネが言っていることは、不幸をごまかさずそれに耐えて行きなさいということではないでしょうか。
この当たり前の方向に自分自身を向けることは言葉で言うほど簡単なことではないかもしれません。
ヨハネは罪の赦しを得させるために悔い改めのバプテスマを宣べ伝えていました。
悔い改めるというのは向きを変えるということです。つまりそれは生き方を変えるということです。
私達人間には誰の中にもバプテスマのヨハネの問いかけに響く部分があるのではないでしょうか。
自分の罪を認めることはなかなか勇気がいることでしょう。
私にとってもそうでした。
わかるんだけどそこまでする必要あるのかなと思いました。

自分の中の見たくない部分、バプテスマのヨハネもイエスさまも、自分の中のみたくない部分を今問題にする点では一致していると思います。
見たくない部分を指摘された時にはやっぱり反発を覚えます。やりたくない。しかしそういうものを指摘されたときだからこそ、「そうです。私はおっしゃる通りの人間です。」と神の前に腰を折ってみる。そこから見えてくる人生もあるのではないかと思うのです。
そういう姿こそ人間にとってのもっとも尊厳のある生き方、姿ではないでしょうか。
見たくないものを拒絶して、誰かのせいにして、何かで補おうとするときに、お金の盲者になったり、化粧品や健康器具を買いこんだり、様々な資格を取ることで自分の埋められないところを保障してみようとしたり、あるいは地位に上り詰め人から認められ称賛されることで自分を偽装し、みたくないものをなかったことにしようとします。
しかし私達は向かい合わなければならないものに、謙虚になって向かい合わなければ本当に幸いな人生というのは決して開かれてこないのです。
バプテスマのヨハネが人々に語ったことはまさにそのことでした。
人々はそこに真実があると思ったからこそ反応したのです。

でも、罪がないイエスさまがなぜバプテスマを受けられたのかと多くの人が問います。
大事なことはイエスさまが洗礼の招きに答えられたということです。
多くの人と同じように、自分にこのバプテスマはふさわしいと思われたということです。そのことこそが最も大事なポイントであります。
そしてイエスさまはそこからご自分の公生涯、今までの大工として家族を支えるという人生から、自分の人生を全ての人に捧げるという人生に移っていかれたのです。

マルコ1章9節にもどりましょう。
そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。
水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。
すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
霊が鳩のように御自分に降って、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声をお聞きになったのです。

そのあと、なんと霊は荒野へとイエスを連れていきました。
マルコ1:12―
それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。
イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。
聖霊を受けられたイエスさまは天使に囲まれた安らかな天国のような生活を送られたわけではなかったのです。
天使たちが仕えていた。しかし天使が一緒の生活とは野獣と一緒の生活において展開するということを示しているように私には思えます。
天使も一緒、野獣も一緒。それが聖霊に満たされた者の姿ではないかと思うのです。
私達の人生には沢山の苦難があり、私達はそれに対してどう向かい合っていいかわからいない時が沢山あります。
病気になったり、失敗をしてしまったり、色んな意味で挫折を経験し、そんな中でも私達は自分の心の在り様をどうもっていったらいいのか、そんな中でも変わらない生き方はあるのかと模索するでしょう。
イエスさまはそういういう生き方がここにあるよと言われているのです。
それは「時が満ちた。天国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という呼びかけに答えることです。
確かにあなたがたは野獣と一緒のような不安が襲ってくる中を歩いているかもしれない。しかしそこには天使も一緒だよとイエス様はおっしゃっているのです。
それが福音ということです。
私達の人生にはただ困難や苦難が単独であるわけではないのです。そうではなく神も共におられる、天使も共におられる。だから安心して自分の苦しみを引き受けて行きなさい。それが信仰者の姿であります。信じればすべてのことが解決して、心が平安になるというではないのです。
安心して潔く苦しんで生きていくことができる、まさにそのことこそ福音の持つ本当の力なのです。
それを避けようとするあまり、どこかに桃源郷、楽園があるんじゃないかと思う。しかし楽園は今ここにあるのです。なぜなら天使が共におられることを私達が知ることさえできれば、私達はもう一度、試練を自分に与えられたものとして引き受けて行こうという覚悟と、時が満ちることを待つ覚悟が生まれていくからです。
イエスさまはそれをここで見せてくださっているように思います。
ですから皆さん安心して信仰を持ちバプテスマをお受けになってください。
バプテスマは決して私達が特別な者になるという儀式ではありません。
クリスチャンになる、それは目の前にある人生に対してどこに自分の目を向けるかをはっきりさせ、自分の見えていなかったものが周りにあることを知ることができるものなのです。

この出来事の後、イエスさまの困難は十字架に至るまで続いていきました。
師匠がそうでありますから、私達も同じであります。人生は試練と困難の連続です。だからこそ、どんな時も私たち共に歩んでくださる方がいてくれる意味ははかりしれなく大きいのです。
そのことをしっかりと心に刻んでこの1週間を共に歩んでまいりましょう。
お祈りします。
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2016年
9月4日
   宣教「真実には真実をもって」
  
 マルコによる福音書1章1節~11節    
聖書箇所
  1:1 神の子イエス・キリストの福音の初め。
1:2 預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの道を準備させよう。
1:3 荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、
1:4 洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。
1:5 ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
1:6 ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。
1:7 彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。
1:8 わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」

◆イエス、洗礼を受ける
1:9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。
1:10 水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。
1:11 すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
 
   
メッセージの要約
聖書教育の順番では今日から列王記に入るところですが、少し聖書教育を離れてマルコによる福音書を読んでいきたいと思います。

聖書には4つの福音書があります。
マタイによる福音書はイエスキリストの系図から始まっていき、ルカによる福音書はイエスの誕生にまつわる記事から始まります。まず、洗礼者ヨハネの誕生があり、そこからイエスさまの誕生が続いていくことがわかります。
マルコはイエスの誕生、公生涯以前のことは飛ばし、いきなり荒野でヨハネが洗礼を授けている記事から初めていきます。
マルコ1章1節には「神の子イエス・キリストの福音の始め」。マルコの福音書のタイトルになるような言葉でこの福音書が始まっています。
2節:預言者イザヤの書にこう書いてある「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』
そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。
ルカによる福音書を読むと、このヨハネとイエスさまは親戚関係にあったことがわかります。ヨハネの父親は神殿に仕える祭司の一人でした。ですからヨハネは父親と同じように神殿に仕える祭司になってもよかったのですが、彼は神からの召し出しを受けて、まるで旧約の預言者エリアのようないでたちで、荒野において「悔い改めよ、洗礼を受けよ」と述べ伝えていたのです。洗礼はヨハネが初めて行ったのではありません。異邦人がユダヤ人の神を信じたいと思ったとき、洗礼をうけなければなりませんでした。また、世俗化した社会を離れ、聖書に忠実に生きることを目指して荒野に移り住んだ人々も、一年に一度洗礼を行っていたことがわかっています。しかし、本来ユダヤ人は洗礼を受ける必要はなかったのです。なぜなら既に神によって清い民とされていたからです。

ヨハネはイスラエルの人々に対して、礼拝が形骸化し、神の民としての生活から神が抜け落ち、信仰が空洞化していることを厳しく糾弾したと思われます。その彼の叫びは一般民衆だけではく、王侯、貴族、祭司や律法学者やパリサイ人といった人々の心を揺り動かしました。それで、多くの人がヨハネのもとに来て洗礼(バプテスマ)を受けていました。

ヨハネの語っていた《悔い改め》とは、回心―心を神さまの方に向ける―ということを意味しています。礼拝に出ても、聖書に書いてあることを実行しても、心が神に向かっていなければ意味がありません。ヨハネは神殿で神に仕えるよりも、荒野で神と一対一になって、神を信じるとはどういうことか、その神との出会いを体験するなかから、預言者として建てられて、神の言葉を取り次ぐ働きをしていたのです。
彼はこう言っていました。
「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちにバプテスマを授けたが、その方は聖霊でバプテスマをお授けになる。」

イスラエルの人々がヨハネのさび賭けに自分の中の罪を見出したのは理解できます。しかし、どうしてイエスさままでもがバプテスマを受けられたのでしょう。罪のない、神と等しい方である方がなぜと思うのです。

それはイエスさまの心にバプテスマのヨハネの真実が映し出され、共感されたからだろうと思います。
「悔い改めよ」と人にせまる、皆さんがそのような使命を与えられたらどうでしょうか。
まず自分が人に悔い改めをせまれるだけのものを持っているだろうかと問われると思います。そして自分の生活を点検し、これなら人の前に出て恥ずかしくないとなって出て行くように思います。しかしどうしてもそのような立場に立つと、私は正しいもの、あたなは悔い改めるべきものと上から目線で言ってしまうように思います。
しかしヨハネの中にはそのような思いはなかったことが「わたしはかがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。」と言っていることからもわかります。
ヨハネは自分を絶対化していません。
そして、私は水でバプテスマを授けるがその方(イエス)は聖霊でバプテスマを授けられる、真にあなた方を変えて下さる方だと言うのです。
自分を謙虚に相対化して、つまり自分を棚に上げて人を裁くような傲慢なところは全く見受けられません。
ですから彼の語る悔い改めには実がある。厳しさと共に謙遜、そして優しさがあります。だからこそ人々は、そしてイエスさまも彼からバプテスマを受けることを良しとされたのだろうと思います。

この礼拝堂にもバプテスマを受けた方々がおられますが、キリスト教には真理があると思えて信仰を持っていかれたのではないでしょうか。
私もある方から信仰を伝えられましたが、その方も神に従う厳しさに震えながらも、自分は赦されており、その喜びを伝えたいと自分を絶対化せず語ってくださったからこそ、イエスさまを信じる決心に導かれたのです。

イエスさまもヨハネの呼びかけに応えてごく自然に洗礼を自分にふさわしいものとして受けていかれました。
イエスさまは自分は神と等しいものだからバプテスマを受けるなんてありえないなどと思わず、ヨハネの前に身をかがめることから公生涯を始められたのです。
このできごとは悔い改めを通して注がれてくる神さまの恵みがいかに豊かであるかということを示しているようにも思います。

イエスさまがバプテスマを受けられるとどのようなことが起こったかというと、
10節「水の中から上がられるとすぐ、天が裂けて、霊が鳩のように御自分に降って来るのを御覧になった。」
天が裂けたというのですから、それはすごいことが起こったのです。そこから霊が鳩のように降ってき、そして、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえたというのです。
このバプテスマによってイエスさまは御自分がどのような者であって、自分に何が託されているかを知られたのです。

バプテスマを受けられたイエスさまは、その後与えられた霊に導かれて荒野へと行かれました。(12節~)
そこで40日間過ごされ、サタンから誘惑を受けられました。その間、野獣と一緒におられたが天使たちが仕えていたと書いてあります。
野獣とは、オオカミ、ヒョウ、ライオンなどでしょうか。そういう野獣が牙を抜かれたようになって猫のようにおとなしくなっていたのでしょうか。
私はそうではないように思います。
それらの野獣はイエスさまがこれからたどられる、人々からの蔑みや裏切りや暴力、そういった試練や苦悩の現実の中を歩まれたということを象徴しているのだと思います。
しかしそのような中で天使もそのそばにいたというのです。
ダビデの生涯を思いだしてみてください。彼は野獣と戦い、巨人とも思えるような歴戦の戦士と戦い、数々の戦にも勝利しました。そして一国の王にまでなりました、そこからがまた大変で、自分の欲望の成就と引き換えに人を殺し、沢山の人を巻き添えにし、自分の家族からも裏切られ、苦しみの連続でした。
しかしその苦しみの多い人生の中でも神さまが共におられるということを感じていたのです。ですから彼はここにある悔い改めと同じような道を何度も人生の中でたどったのです。間違う度に神さまの方に向きを変え、自分心の中の苦しみや痛みを神さまにゆだねて歩んでいったのです。

私達の人生も野獣と一緒にいると思う面が多くあるのではないでしょうか。
学校にいっても、職場に行っても、あるいは家庭でも、いわれのない敵意を向けられたり、針の筵に座らされているような現実を味わっ他ことがおありだと思います。また自分の限界を思い知らされることもあるでしょう。病気やけがあるいは事故によって体を壊し、以前できたこともできなくなって、自分が生きていることが苦しいと思われることもあるでしょう。
しかしその現実の中に天使もおられる。天使が共におられることを感じさせる存在こそ聖霊という方であります。だから私達はイエスを信じると同時にバプテスマを受けて、聖霊を受けつつ、人生の旅路を歩むのです。
洗礼は特別なことではなく、イエスさまに起こったようにごく自然なことです。そしてそこからが始まりなのです。
だから、マルコは1節で「神の子イエス・キリストの福音の始め」と記しているのです。
初めがあれば中間があり、終わりがあるのですが、私達は今その中間にあります。その中で礼拝を通して、今聖霊が共にいて下さることを繰り返し知らされ、そしてまた自分の現実へと戻っていくのです。一週間の中で苦しみや痛み、しかしそこに神さまは共におられたことを確認してまたそれぞれのところに遣わされていくのです。
どうぞ、ご自身の心の中に、ここにすなわち御言葉の中に、それを信じている人々の生き方の中に真実があると思われるならば是非見なさんも洗礼へと信仰告白へと至っていただきたいと心から祈るものであります。
お祈りします。
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2016年
8月28日
   宣教「歴史を導かれる神 その8」
  
 サムエル記下24章1~25節    
メッセージの要約
よく旧約聖書の神は怒る神で、新約聖書の神は愛の神である。そんなふうに言われる方がおられ、今まで何回か聞いてきました。しかし、それは間違いです。決して旧約聖書の神は単に怒るかみではありません。旧約聖書の神が新約聖書の時代になって突然愛の神になるなどという事ではないのです。神は一貫して愛の神であられると言う事は間違いのない事なのです。今日の物語の中にも記されているのです。
今日私たちはダビデの晩年の出来事に触れるのですが、人生というものは最後の最後まで試練を免れないものだということを思わされます。
『主は、「イスラエルとユダの人口を数えよ」とダビデを誘われた。』
発端は主のダビデへの誘いでした。
『王は直属の軍の司令官ヨアブに命じた。「ダンからベエル・シェバに及ぶイスラエルの全部族の間を巡って民の数を調べよ。民の数を知りたい。」ヨアブは王に言った。「あなたの神、主がこの民を百倍にも増やしてくださいますように。主君、王はなぜ、このようなことを望まれるのですか。」』
ヨアブは、なぜこの時に人口調査なのかとダビデに訊ねたのです。かつてのダビデだったら、その理由をヨアブに説明しただろうと思います。しかし、この時のダビデはたとえ誰であろうと自分の言葉に異を唱える者を決して許さぬといった猛々しさがありました。
そもそも主が誘われたときに、ダビデは「なぜ今人口調査をするのですか」と尋ねる心があったはずなのです。この下りを読みますと、ダビデは神さまの命令を、神への信頼から実行したというのではなくて、ダビデの隠れた願いのゆえに行ったのでした。人生の晩年を迎え、「はたして自分に生きてきた意味があったのか。」ダビデも心の中でそう自分に問うていたと思われます。それを知るのに人口調査は願ってもない事だったのです。その結果、自分が軍隊を百三十万人も所持しているということが判明しました。具体的に数字として出てきたのです。しかし、どんなものを持っていたとしてもそれははたして人生の意味を保証することになるでしょうか。
私たちは信仰を持とうと、持つまいと、私たちは自分の人生はこれで良かったのか、そういう問いをいつか自分に問うのではないでしょうか。私たちにとって死というのは、聖書的に言えば与えられた命をお返しする、たったそれだけの事ですけども、私たち実感はそれでは済まされないのです。自分の生きてきたことに意味があるという事を確かめてみたくなる。この出来事の発端は神さまだったわけですが、神を知らなくても、同じような誘惑は誰にも起こるのではないでしようか。自分の人生は意味があったと思いたいし、それを何かで確かめたくなる。ダビデも人生の終わりにあって、そのチャレンジに直面したのです。ダビデが何故こうも強固にヨアブに命令を出したのか。それはダビデもその欲求にあらがえなかったという事を示しているのです。そして、数は明らかになった。しかし、そのとたんダビデは呵責を覚えたのです。ダビデは自分が何をしたのか悟りました。
『ダビデは主に言った。「わたしは重い罪を犯しました。主よ、どうか僕の悪をお見逃しください。大変愚かなことをしました。」』
それは、自分の人生の価値を、自分の所有している物の量や、自分が成し遂げた出来事で計ろうとすることの愚かさとむなしさを彼が悟った瞬間でした。彼の人生は神によって見出されることによって始まりました。彼がなしたことはすべて幼いときから神から与えられた力によるものだったのです。いつしか、それが彼の中で自分の力だと思うようになって行ったのです。ダビデは人口調査とそれに伴う災厄を通して、命をふくめ、自分が成し遂げてきたことも、神から預けられた力によるものだったことを自分がどこかに置き忘れてきてしまったことを思いだしました。私たちが生きているという事そのものが神の恵みだということを忘れていたのです。何ができるのか、何を持っているかで、自分の人生の良し悪し計るとき、私たちは大きな落とし穴に落ちることになるのです。しかし、神の方に向き直るときに、私たちは自分の人生がたとえそれがどんなに過酷なものであつたとしても、「すべてよし」と受け取って行けるのです。
ガドは主から受け取った言葉をダビデに告げました。ダビデは主の手に掛かって死にたいと思いました。しかし、死んだのは七万人の民だったのです。災いをもたらす御使いはなおも民を滅ぼそうとしますが、神はその災いを思い返されて、御使いに「もう十分だ」と押し止めました。ダビデは御使いが民を討つのを見て『「罪を犯したのはわたしです。わたしが悪かったのです。この羊の群れが何をしたのでしょうか。どうか御手がわたしとわたしの父の家に下りますように。」』
そう祈るしかなかったのです。すると、その日ガドが来て、「アラウナの麦打ち場に上り、そこに主の祭壇を築きなさい。」ダビデは主が命じられた言葉に従って上って行きました。そこで、祭壇を築き礼拝を献げたのでした。
『主はこの国のために祈りにこたえられ、イスラエル下った疫病はやんだ。』
ダビデが祭壇を築き、献げものをしたからではなく、神の憐みが災いを防いだ。そのことを、私たちは間違ってはなりません。
神は愛するダビデを最後に試みられました。それは神さまがダビデを信じていなかったからではありません。チャレンジを受けたのはダビデだけではないのです。聖書にヨブ記というのがありますから是非読んでみてください。私には自分の代わりにダビデが試練を受けたように思えます。神はダビデを信じていなかったのではなく、彼がこの試練にも耐えると信頼して、それをお与えになったと思います。私たちはいろんな意味で、それぞれのステージで誘惑や試練に直面するのです。ダビデは自分の行いによって、最後の最後まで多くの命を自分が背負っているということを知らされた。それは彼にとってはとてつもない重荷、十字架だったと思います。それを下ろすことは、神のもとに行って、初めて成し遂げるのです。彼は自分自身の神への姿勢が、周りの人にも影響するということを、改めて思い知らされたのです。

最後に一つの詩を紹介して終わりたいと思います。
「最上のわざ」  ヘルマン・ホイベルス
この世の最上のわざは何?
楽しい心で年をとり
働きたいけれども黙り
失望しそうな時に希望し
従順に、平静に、おのれの十字架をになう。
若者が元気いっぱいで神の道をあゆむのを見ても、ねたまず、
人のために働くよりも、謙虚に人の世話になり
弱って、もはや人のために役立たずとも、親切で柔和であること…。
老いの重荷は神の賜物、
古びた心に、これで最後のみがきをかける。まことのふるさとへ行くために…。
おのれをこの世につなぐくさりを少しずつ、はずしていくのは
真にえらい仕事。
こうして何もできなくなれば、それを謙虚して承諾するのだ。
神は最後にいちばんよい仕事を残して下さる。それは祈りだ…。
手は何もできない。けれども最後まで合唱できる。
愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために・・・・・
すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声をきくだろう。
「来よ、わが友よ、われなんじを見捨てじ」と・・・・・。

私たちはそれぞれ、さまざまな歩みを通して自分の人生の最後に向き合って行くのです。自分に信仰があって良かったと思えるのは、出来る出来ないではなくて、神が命を下さって、どんな死であろうとも、神は知っていてくださり、私たち命を最後まで守って導いてくださる。そういう確信の中に生きることが、最上の祝福なのです。自分が何をして来たか、何を今出来るか、考える必要がないのです。私たちは神の御手にあって、備えられているのだ。ダビデは人生の最後に悲しみと痛みの出来事を通して私たちに伝えてくれているのです。人生のどんな時にも、神はわが主であり、命を与える主であり、私たちはその方にただ喜び従って生きる時に、本当の平安を得るということを。神から与えられている物を、周りの人と分かち合って喜びとする。そのような人生を歩んで行きましょう。

お祈りいたします
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2016年
8月21日
   宣教「歴史を導かれる神 その7」
  
 サムエル記下21章1~14節    
『聖書箇所』
21:1 ダビデの世に、三年続いて飢饉が襲った。ダビデは主に託宣を求めた。主は言われた。「ギブオン人を殺害し、血を流したサウルとその家に責任がある。」

21:2 王はギブオン人を招いて言った。――ギブオン人はアモリ人の生き残りで、イスラエルの人々に属する者ではないが、イスラエルの人々は彼らと誓約を交わしていた。ところがサウルは、イスラエルとユダの人々への熱情の余り、ギブオン人を討とうとしたことがあった。

21:3 ダビデはギブオン人に言った。「あなたたちに何をしたらよいのだろう。どのように償えば主の嗣業を祝福してもらえるだろうか。」

21:4 ギブオン人はダビデに答えた。「サウルとその家のことで問題なのは金銀ではありません。イスラエルの人々をだれかれなく殺すというのでもありません。」ダビデは言った。「言ってくれれば何でもそのとおりにしよう。」

21:5 彼らは王に答えた。「わたしたちを滅ぼし尽くし、わたしたちがイスラエルの領土のどこにも定着できないように滅亡を謀った男、

21:6 あの男の子孫の中から七人をわたしたちに渡してください。わたしたちは主がお選びになった者サウルの町ギブアで、主の御前に彼らをさらし者にします。」王は、「引き渡そう」と言った。

21:7 しかし、王はサウルの子ヨナタンの息子メフィボシェトを惜しんだ。ダビデとサウルの子ヨナタンとの間には主をさして立てた誓いがあったからである。

21:8 王はアヤの娘リツパとサウルの間に生まれた二人の息子、アルモニとメフィボシェトと、サウルの娘ミカルとメホラ人バルジライの子アドリエルとの間に生まれた五人の息子を捕らえ、

21:9 ギブオン人の手に渡した。ギブオンの人々は彼らを山で主の御前にさらした。七人は一度に処刑された。彼らが殺されたのは刈り入れの初め、大麦の収穫が始まるころであった。

21:10 アヤの娘リツパは粗布を取って岩の上に広げた。収穫の初めのころから、死者たちに雨が天から降り注ぐころまで、リツパは昼は空の鳥が死者の上にとまることを、夜は野の獣が襲うことを防いだ。

21:11 サウルの側女、アヤの子リツパのこの行いは王に報告された。

21:12 ダビデはギレアドのヤベシュの人々のところへ行って、サウルの骨とその子ヨナタンの骨を受け取った。その遺骨はギレアドのヤベシュの人々がベト・シャンの広場から奪い取って来たもので、ペリシテ人がギルボアでサウルを討った日に、そこにさらしたものであった。

21:13 ダビデはそこからサウルの骨とその子ヨナタンの骨を運び、人々は今回さらされた者たちの骨を集め、

21:14 サウルとその子ヨナタンの骨と共にベニヤミンの地ツェラにあるサウルの父キシュの墓に葬った。人々は王の命令をすべて果たした。この後、神はこの国の祈りにこたえられた。
メッセージの要約
先週、夏期休暇をいただいて熊本の実家に私一人帰らせていただきました。一週間両親と3人で過ごしたわけです。生まれてこの方こんなに家の中にずっといたのは初めてでした。朝、昼、晩と食事を作り、薬を飲ませ、着替えを手伝い、後片づけをし、洗濯物を干し、デイケアに送りだし、病院に行くという両親の日常を共に体験してみて、普段世話をしてくれる妹の大変さと同時に、一緒にいてやれない親不孝な自分を思い知らされました。最後の日、両親をデイケアに送りだした時、はっと気づかされたことがありました。夕方になれば、彼らは家に戻ってくるけれど、いつか送りだしてもう二度と会えない日が来るということを。その時、さびしさ、恐ろしさ、空虚さが私の中に大挙して押し寄せてまいりました。もし、地上での人生が終わり、天国で再会する希望が与えられていなかったら、それに堪えられる者などいるだろうか、と思ったのです。
今日の聖書の箇所で取り上げられていることもまた、イエスキリストの十字架の出来事のはるか前に起こったことではあるのですが、イエスキリストの救いと深く関連した出来事であると思わされます。
ダビデの世に3年連続して飢饉が起こった時のことです。この時、この困難はサウルがギブオン人に行った罪と関連しているということが判明し、ダビデはギブオン人の要求を受け入れてサウルの子、ヨナタンを除くサウルの親族7人を彼らに引き渡したのです。そして、7人は全て殺されるという痛ましい事件が起こりました。神さまが何故この時期にこのようなサウルの罪を問題にされたのかは、私達には理解することは出来ません。しかし、神さまは、私たちの犯した罪をそのままにしては置かれないし、罪は犯したその本人だけでなく、周りの者たちの命にも関わっていくと言うことが明らかになったのです。この悲惨な出来事を前に、自らのありようを一人一人が省みるということを通してイスラエルの国が一つとなり、神さまへの信仰を新たにさせられたのです。そこで飢饉は止みましたが、それは人間が悔い改めたからではなく、神の私たちへの憐れみのゆえだったことを忘れてはなりません。
皆さんは、ヨナの記事を覚えておられるでしょう。ヨナの宣教を聞いたニネベの人々は悔い改めて預言された裁きは回避されました。しかし、これを不満としたヨナは神から顔を背けました。その時に神さまがこのヨナに対してなされた取り扱いは有名ですよね。ここでは神さまがイスラエルの民だけの神ではなく異教の民や家畜の命も大切に思っておられる神であることを示されたのでした。
ダビデとイスラエルに起こったこの悲しい出来事を通して、今日しっかりと心に留めましょう。なぜ7人のサウルの親族が殺されねばならなかったか、私たちの頭では理解しがたいことです。しかし、私たちはこの7人の方々も神はご自身の身手の中に省みて下さっていると確信するのであります。なぜなら、神はご自身のひとり子であるイエス・キリストの命さえも惜しまず、罪にまみれた私たちに差し出して、私たちへの愛を示して下さったからです。地上では悲惨な事件が後を絶ちませんが、そのような出来事を通して神が私たちに語り掛けて下さっています。「人はどんな死を迎えたとしても、死で終わるものではない。わたしがいる。わたしにとってすべてののちは尊い」と言ってくださる神がいるのです。これからの1週間、そのことをしっかりと心に刻んで生きて行きたいと思います。
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2016年
7月31日
   宣教「歴史を導かれる神 その5」
  
 サムエル記下6章12~23節    
『聖書箇所』
6:12 神の箱のゆえに、オベド・エドムの一家とその財産のすべてを主は祝福しておられる、とダビデ王に告げる者があった。王は直ちに出かけ、喜び祝って神の箱をオベド・エドムの家からダビデの町に運び上げた。
6:13 主の箱を担ぐ者が六歩進んだとき、ダビデは肥えた雄牛をいけにえとしてささげた。
6:14 主の御前でダビデは力のかぎり踊った。彼は麻のエフォドを着けていた。
6:15 ダビデとイスラエルの家はこぞって喜びの叫びをあげ、角笛を吹き鳴らして、主の箱を運び上げた。
6:16 主の箱がダビデの町に着いたとき、サウルの娘ミカルは窓からこれを見下ろしていたが、主の御前で跳ね踊るダビデ王を見て、心の内にさげすんだ。
6:17 人々が主の箱を運び入れ、ダビデの張った天幕の中に安置すると、ダビデは主の御前に焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげた。
6:18 焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげ終わると、ダビデは万軍の主の御名によって民を祝福し、
6:19 兵士全員、イスラエルの群衆のすべてに、男にも女にも、輪形のパン、なつめやしの菓子、干しぶどうの菓子を一つずつ分け与えた。民は皆、自分の家に帰って行った。
6:20 ダビデが家の者に祝福を与えようと戻って来ると、サウルの娘ミカルがダビデを迎えて言った。「今日のイスラエル王は御立派でした。家臣のはしためたちの前で裸になられたのですから。空っぽの男が恥ずかしげもなく裸になるように。」
6:21 ダビデはミカルに言った。「そうだ。お前の父やその家のだれでもなく、このわたしを選んで、主の民イスラエルの指導者として立ててくださった主の御前で、その主の御前でわたしは踊ったのだ。
6:22 わたしはもっと卑しめられ、自分の目にも低い者となろう。しかし、お前の言うはしためたちからは、敬われるだろう。」
6:23 サウルの娘ミカルは、子を持つことのないまま、死の日を迎えた。
メッセージの要約

障がい者施設で大勢の人が殺されるという悲しいできごとが起こりました。無抵抗の人間を自分の一方的な主張のゆえに殺害するということは決してあってはならないことです。必死の思いで共に生きてこられたご家族の思いも同時に踏みにじってまで、この犯人はいったい何をしたかったのでしょうか。なぜこのようなことが起こるのか、神はこんなことを黙って容認されるのかと叫びたくなります。
しかし「神さまなんていない、いても無力だ」と思いたくなる現実の中で「否!、神は確かにおられる。神は決してこの現実に満足しておられるのではない。」と宣言すること、私たちはこの礼拝をもってこの世に向かって叫ぶのす。

このような時だからこそ、ダビデのようにただひたすらに、主に向かって心の底から礼拝したいものです。
今日の箇所はダビデの人生の中でとても大事な箇所です。神の箱を都と定めたエルサレムに運び入れるところです。
神の箱にはモーセが受け取った十戒が収められていました。神の箱と主の箱とは同じです。この取り扱いについてはきめ細かな規定がありました。
この箱は一度ペリシテ人に奪われたことがありました。
サムエル記上4章にはその経緯が書かれています。イスラエルの人々はかつて戦況が悪くなったときに、神の箱を運んできて助けてもらおうとしたことがありました。それはただ困ったときの神頼み、ご利益信仰、自分の目的のために神を利用しようとした行為だったため、その戦いに惨敗してしまい、神の箱をペリシテ人に奪われてしまいました。しかし神がペリシテ人に災いを下されたので箱は戻され、イスラエルの地キリヤト・エアリムに安置されて三十数年の時が経っていました。

ダビデは最初3万の兵士と共に楽器を奏しながら威厳をもって神の箱を運ぼうとしました。それは、はた目には神さまを大いに敬っているように見えたことでしょう。しかし牛がよろめき、箱が落ちないように押えたウザが死んでしまうということが起こります。落ちようとする箱をとっさに抑えようとするのはウザでなくとも誰もがすることです。なぜウザは死んだのか、ただ箱に触れたからというだけではないと思われますが、しかし真相はわかりません。それを見てダビデは怖くなって箱をガト人(ペリシテ人)オベド・エドムの地に送りました。
オベド・エドムの人達も怖かったことでしょう。イスラエル人でも箱の扱い方を間違うとこのような被害にあうのならば、異邦人の自分達がミスでもしたらどうなるかと思ったことでしょう。
しかし、主はオベド・エドムの人達を祝福されました。それは思ってもみなかったことだっただけに周りの人々の関心の的となったのです。

箱は3か月そこにありました。その間、ダビデは何を思ったでしょうか。
自分のどこがいけなかったのか、どこに間違いがあったのか、考えに考え抜いただろうと思います。自分は3万の兵と音楽隊で精一杯、主への畏敬と感謝を表わしたつもりだったが、しかし、自分には真実に「神を喜ぶ」んでいただろうかと。すごい歓待ぶりを示すことで、自分には力があり、自分の信仰を周りの者たちに認めてもらいたかったのではないかと。「神がこの私を愛してくださっている」なら、それへの感謝は私が直接主に向かってなすべきだったのではないかと。
14節には「主の御前でダビデは力のかぎり踊った」と書かれています。立派な服、立派な馬、大勢の家来に認められた自分でなく、どんな敵にも一人で立ち向ったかつての自分、小さくて、鎧もきれず、武器も持てなかったが、神お一人が味方であれば他に何も必要ないと思っていた自分。神の前で裸であることを恥と思わなかった自分に。裸だったけれどすべてのものを持っていた自分に。人と一緒にでなく、この私、自分自身が主を心から信じているということが大切なんだと。
あなたは自分の信仰をどのように表していますか。
私はこの物語から自分の信仰に装飾をつけて、自分で自分を安心させようとしていないかと問われました。

民と共に祝ったダビデは家の者にも祝福を与えようと家に帰ります。その一行の様子をミカルは見ていました。ダビデの妻ミカルはサウル王の娘で、一度はダビデの妻になりましたが、ダビデが逃亡生活をしている間に父によって別の人間の妻とされました。サウルの死後、ダビデは再びミカルを妻として迎えたのでした。夫ダビデと父サウルとの確執、そして逃亡、さらには別の人間との結婚生活、十数年を経ての再再婚、それはミカルの心に大きな傷を残したのかもしれません。
この時、ミカルはダビデを見て「今日のイスラエルの王は御立派でした。家臣たちの前で裸になられたのですから。空っぽの男が恥ずかしげもなく裸になるように」といいました。ダビデのことを「空っぽの男」と呼んだのです。
こんなことを言われてよくダビデが怒らなかったなと思うのですが、ダビデにとっては神に愛されていること以上のものはなかったのです。ミカルは人の力に翻弄された人生を生きてきたといえるでしょう。彼女にとって神は試練を与える神ではあっても、その試練の中でその人の成長を促し見守り、そのような形で人を愛する神だとは信じられなかったのかもしれません。何の迷いもなく、主の前を行くダビデと、彼を導いている神の仲が恨めしかったのかもしれません。彼女にとって裸のダビデは、弱さとみじめさの象徴にしか見えなかったのでしょう。
一方ダビデは主の前で踊っていたのです。これは大事なことです。神がいるということが疑われ、神が遠くにいるように思える時にも自分を神の前におくこと。
信仰があるということはどんな状況の中でも神がここを支配しておられるという視点を持ち続けることです。そしてある時、自分は空っぽだったと知らされる時が訪れても、「空っぽでいいんだ。この空っぽの私を神は愛し、空っぽだからこそ神ご自身の愛と祝福で満たして下さる。」それが私達の信仰ではないでしょうか。
どうぞ、この物語をご自身で味わってください。私はどのように神を喜んできたか、これからどうやって神を喜んで生きるのか、信仰とは何かを問いかけてみてください。
お祈りします。
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2016年
7月24日
   宣教「歴史を導かれる神その4」
  
 サムエル記上24章1~23節    
メッセージの要約

今日私たちが神から受ける事、結論を先にもうしますと、私たちはどのようにしてこれが神の御心なのか、その事を私たちは知る事が出来るのだろうか。それを見分ける事が出来るのかという事なのです。ダビデはサウルによって何度も襲撃を受け追い回され、追い詰められました。23章には、サウルがダビデを追跡されている事が記されています。
『 ペリシテ人がケイラを襲い、麦打ち場を略奪している、という知らせがあったので、ダビデは主に託宣を求めた。「行って、このペリシテ人を討つべきでしょうか。」主はダビデに言われた。「行け、ペリシテ人を討って、ケイラを救え。」だが、ダビデの兵は言った。「我々はここユダにいてさえ恐れているのに、ケイラまで行ってペリシテ人の戦列と相対したらどうなるでしょうか。」ダビデは再び主に託宣を求めた。主は答えられた。「立て、ケイラに下って行け。ペリシテ人をあなたの手に渡す。」』
ここを見るとダビデとダビデに従う者たちの間に対立が起こっています。ダビデは主から聞いて、行ってペリシテ人と戦おうとする。他の者たちは、ただでさえ私たちを追い詰められているのに、ここに居て苦しい思いしているのに、「ペリシテ人と戦ってどうなりますか。それは神の御心ではない」というのです。多数決を取ったらダビデは負けていたでしょう。しかし、ダビデはそれが神の御心であると全員を説き伏せ、戦いに出て行くのです。ここには、ダビデが主から聞いたと書かれていますけども、ダビデの従者たちも皆、同じ言葉を聞いたのなら事は簡単だったのです。しかし、聞こえたのはダビデだけだったのです。神の御心かどうかというのは、多くの人に一斉に何か知らせられるということも原理的にはありえますが、そうではない事がほとんどです。ですから、私たちは何かしようとした時に、これは神の御心なのか、と思い悩み苦しむのです。
『 ダビデとその兵はケイラに行ってペリシテ軍と戦い、その家畜も奪い、彼らに大打撃を与え、ケイラの住民を救った。
アヒメレクの子アビアタルが、ケイラのダビデのもとに逃げて来たとき、彼はエフォドを携えていた。』
アヒメレクは祭司であり、ダビデが助けを求めた人物です。今度はその子アビアタルが、ダビデのもとに逃げて来たのです。
しかし、『ダビデがケイラに来たと知らされたサウルは「神がダビデをわたしの手に渡されたのだ。彼は、扉とかんぬきのある町に入って、自分を閉じ込めてしまったのだ。」と言った。彼は兵士全員を戦いに向けて召集し、ケイラに下ってダビデとその兵を包囲しようとした。ダビデはサウルが自分に危害を加えようと計画しているのを知って、祭司アビアタルに、エフォドを持って来るように頼んだ。ダビデは主に尋ねた。「イスラエルの神、主よ、サウルがケイラに進んで来て、わたしゆえにこの町を滅ぼそうとしていることを僕は確かに知りました。ケイラの有力者らは、サウルの手にわたしを引き渡すでしょうか。僕が聞いているように、サウルはケイラに下って来るでしょうか。イスラエルの神、主よ、どうか僕にお示しください。」主は「彼は下って来る」と言われた。ダビデが、「ケイラの有力者らは、わたしと兵をサウルの手に引き渡すでしょうか」と尋ねると、主は「引き渡す」と言われた。』
助けたケイラの住民はダビデたちを裏切って、サウルに引き渡すというのです。それで、ダビデはそこにいられなくなって、『ダビデとその兵およそ六百人は立ち上がって、ケイラを去り、あちこちをさまよった。』
ダビデは裏切り行為に頭に血が上ってケイラの住民を滅ぼすという選択もあったのですけども、しかし、ダビデはそのような選択をしなかった。彼はその状況の中で、自分が助けた者に裏切られたわけですが、しかしその事だけを見なかったのです。
『 サウルはダビデがケイラから非難したと知らされて、出陣するのをやめた。ダビデは荒れ野のあちこちの要害にとどまり、またジフの荒れ野の山地にとどまった。サウルは絶え間なくダビデをねらったが、神は彼をサウルの手に渡されなかった。
  ジフの荒れ野のホレシャにとどまっていたダビデは、サウルが自分の命をねらって出陣したことを知った。そのとき、サウルの子ヨナタンがホレシャにいるダビデのもとに来て、神に頼るようにとダビデを励まして、言った。「恐れることはない。父サウルの手があなたに及ぶことはない。イスラエルの王となるのはあなただ。わたしはあなたの次に立つ者となるだろう。父サウルも、そうなることを知っている。」二人は主の御前で契約を結んだ。ダビデはホレシャに残り、ヨナタンは自分の館に帰って行った。
 ジフの人々は、ギブアに上ってサウルに報告した。』
ある日、ダビデをサウルに売る者が出てきたのです。
『「ダビデはわれわれのもとに隠れており、砂漠の南方、ハキラの丘にあるホレシャの要害にいます。王が下って行くことをお望みなら、今おいでください。王の手に彼を引き渡すのは我々の仕事です。」サウルは答えた。「主の祝福があるように。あなたたちはわたしを思ってくれた。戻って、更に確かめてくれ。ダビデが足をとどめている場所と誰がそこで彼を見たかをはっきり調べてくれ。彼は非常に賢い。彼が隠れた場所をことごとく調べ上げて、確かな情報を持って来てくれれば、あなたたちと共に出て行こう。この地にいるのであれば、ユダの全氏族の中から彼を探し出す。」人々はサウルに先立ってジフに戻って行った。』
追いかけっこも中々結末が付かないので、確実な情報をもって来いとサウルは言うのです。
『ダビデとその兵は砂漠の南方、アラバのマオンの荒れ野にいた。サウルとその兵はダビデをねらって出て来たが、ダビデはその知らせを受けると、マオンの荒れ野にダビデを追跡した。サウルは山の片側を行き、ダビデとその兵は山の反対側に行った。ダビデハサウルを引き離そうと急いだが、サウルとその兵は、ダビデとその兵を捕らえようと、周囲から迫って来た。』
四方八方から囲まれて、絶体絶命のピンチにおちいったのです。
『そのとき、使者がサウルのもとに来て、「急いでお帰りください。ペリシテ人が国に侵入しました」と言った。サウルハダビデを追うことをやめて、ペリシテ人の方に向かった。そのため、この場所は「別れの岩」と呼ばれている。』
ダビデはこのようにしてサウルの執拗な追跡を何度も受けたわけですが、危機一髪ところで逃げおおせたのです。そして、さらに24章では、また、サウルがダビデを追って出てきている状況が書かれています。サウルが用を足すために入った洞窟の中に、先にダビデとダビデに従う者たちが隠れていた。今度は「ご主人様今こそ好機が来ました。これは神があなたに、サウルを渡されたのです。」しかし、ダビデはそうしませんでした。サウルを倒すのにこんな機会はないというような事が巡って来たのです。しかし、ダビデはサウルの上着の端を、ひそかに切り取っただけで、サウルに危害を加えずに逃がした。サウルをそのまま行かせてしまいました。
『しかしダビデは、サウルの上着の端を切ったことを後悔し、兵に言った。「わたしの主君であり、主が油を注がれた方に、わたしが手をかけ、このようなことをするのを、主は決して許されない。彼は主が油を注がれた方なのだ。」
  ダビデはこう言って兵を説得し、サウルを襲うことを許さなかった。』
ダビデはこのように自分を従う者たちとも、意見が一致していた訳ではありません。ダビデに従う者たちはいつもダビデの言う事をならなんでも従っていたわけではなかった、むしろダビデに反対している事も度々あった訳です。違う所では「そんな事をしたら負けますよ」また、「前栽一遇のチャンスです。それこそ神の御心です。」とダビデの周りの者たちは言ったのです。しかし、ダビデは「そうではない」それは主の御心とは違うと、周りの者たちを説得したのでした。神に従う人生というのは、決して単純なものではないということなのです。神に従っていれば何でも明らかになるものではないのです。周りの人が自分の考えに反対する時もあります。もちろん、その逆もあります。周りの人たちが、神の御心を知って、自分だけがそうではないという事も起こるのです。私たちは主の御心を知りたいと、誰もが願うのです。そして、今がこの時が主の御心なのかという事を判断するために、私たちが心に留めるのは、周囲の状況なのです。神さまというのは、不思議なことをなさる方で、人の思いを超えたことをなさるかたです。ですから自分の都合のいいチャンスが、状況がそこに出現したとき、「これは神の御心だ」と判断することは、ある意味無理からぬ事です。不思議なことが起こり、状況の流れが自分に追い風がふいていると思えるときに、それに反対して「そうじゃない」と判断するのは、勇気がいるのです。私たちの信仰が試されるのです。
私もいろんな意味で、聖書を読んで考えて来ました。結論から言えば、これが主の御心なんて言ってはならない。そういう事なのかもしれません。でも、これが主の御心だと進んで行くしかないことも多いと思うのです。そして、主の御心であると、私たちが判断して、それに従って行くときに、必要不可欠なことは、私たちが自分自身をどう見ているかだと思っています。
「水は低きに流れる」ということがよく言われます。そのとき私たちの立ち位置が、そこに示されるのです。私たちが何処に立っているのか。
ダビデはサウルをどう見ていたのでしょう。ダビデの言葉によると、ダビデはサウルを「主が油注がれた方」だと見ていたのです。そして、自分の事を何と言っているのかというと、「死んだ犬、一匹のノミ」と言っているのです。そこまで言わなくてもという思いもしますが、そこがダビデのダビデたるゆえんかもしれません。自分自身の小ささや、頼りなさ、その事を示していますけども、それと同時にダビデが知っていたのは、神の果てしない愛計り知れない恩寵、圧倒的な恵みが自分を包んでいる世界に、彼は生きているのです。一方サウルはダビデをどう見ていたのでしょうか。彼にとってダビデは単なる脅威でした。そして、競争相手でした。自分は王であり、ダビデはその臣下としか見なかったのです。サウルは、ダビデは自分の手中にあると思っていた。サウルにとって自分の都合のいい状況によって神の時かどうか判断するしかなかったのです。24章の中でも、
『お前はわたし善意を尽くしていたことを今日示してくれた。主がわたしをお前の手に引き渡されたのに、お前はわたしを殺さなかった。』
サウルは主が自分をダビデの手に引き渡された。と考えた。状況としてはそのように見える。ダビデの周りの人たちが言っていた事、ダビデはそうは思っていなかった。そのように判断しなかったのです。私たちは状況の中から、今自分に風が吹いている、これこそ神の御心の時だと判断してしまう。そう判断してよい時もあるかもしれません。ですが、私たちはいつでもそのように、状況によって「神の御心なのだ」判断するとしたら、とんでもない所に私たちを導いて行くことになりかねない。先ほど自分自身をどう見ているかどうか、それが大事だと話しました。ダビデは自分の事を「死んだ犬、一匹のノミ」と言いました。
詩篇22編
『指揮者によって。「暁の雌鹿」に合わせて。賛歌。ダビデの詩。
 わたしの神よ、わたしの神よ。
 なぜわたしをお見捨てになるのか。

わたしは虫けら、とても人とはいえない。
 人間の屑、民の恥。
 わたしを見る人は皆、わたしをあざ笑い。
 唇を突き出し、頭を振る。
 「主に頼んで救ってもらうがよい。
 主が愛しておられるなら
   助けてくださるだろう。』
先ほどの死んだ犬、一匹のノミ、このような事をダビデは詩の中で言っているのです。自分の事をそこまで言う必要があるのか。これは自分の事を否定しているのではないのです。
教会ではよく「あなたは神に愛されているのです。それほどに、あなたは神に愛されるように尊くすばらしい存在なのです。」と言います。それなのに「わたしは虫けら、とても人とはいえない。」というなんて、なんて罰当たりな…。ダビデはどうしてその事を言うのか。先ほど言ったように「あなたは神に愛されるように尊くすばらしい存在なのです。」これは誇張でも決して間違いでもありません。神との関係を続けて行く中で、神と神の恵みは私にとってすこしづつ大きくなり、それを分かって行く中で、それに比例して自分自身がいかに小さい者か、私たちは知らされて行くのではないか。信仰の深化、深まり、成長、成熟とは、そういう事を言っているのです。
神さまと私たちとのギャップははるかに大きなものなのです。神さまはそれをものともせず、ご自分の愛情を私たちに注ぎ、ついには御子をも人間の手に引き渡された、それほどの思いを持ってくださったのです。私たちは信仰を持った時には、自分の足で歩み、聖書に聞き、人と出会い、ある時に仕え、ある時には苦しみ、血を流して、それでも私たちが神に従っていく中で、私たちは少しずつ信仰の成長を体験されて行くのです。よちよち歩きの子供が保育園に行き、小学、中学に上がって行くように、私たちもそのようにして、日々成長させられて行く事を通して、私たちはこれが神の御心なのかどうか、という事を判断する力が与えられて行くのではないかと思うのです。
パウロは最初キリスト教に敵対する人でしたけども、彼はクリスチャンになりました。クリスチャンになった後、彼はどうしたか、今度は「ユダヤ人は敵だ」自分たちこそ神の御心を、神の正道を歩む人として、ユダヤ人を敵として見て、排除したかというと、そういう事はしませんでした。それでは前と同じです。パウロでさえこのような視点を獲得するのに一兆一石ではいかなかった、パウロがそれにいたるまで、彼はどれほど苦しんだか。私たちはパウロの手紙を読む中で知らされるのです。
彼は自分の行い、自分のおかして来た事、自分がかつて考えて来た事振り返り、キリストに聞く中でさまざまな恵みを私たちに残しています。ローマの信徒の手紙7章21節
『それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。「内なる人」としては神の立法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。』
クリスチャンになってから、彼は自分がどれほど惨めな人間なのかという事を思い知らされた。しかし、そのどん底から
『わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。』といきなり喜びの絶頂へと跳ね上がっています。この節は括弧に括った方が筋は通るのです。
24節から26節へ飛ぶほうが話が分かるのです。でも、自分自身のどうしようもない惨めさを思い知らされたその所で、彼を神の恵みが包んでくれたか気づいて行ったのです。自分の小ささに気づいていくと同時に、私たちは神の恵みの計り知れなさを知って行くのです。それが私たちの信仰の深化と呼ばれるのです。そういう中に私たちは、ダビデが通ったように周りの者が「これが御心です」と言って「それは違う」と言い、何が御心なのか、判断して行く事が出来るように出て行くのです。ダビデの人生は、私たちに良いお手本だと思うのです。皆さんどうぞ、聖書を親しんでいってほしいです。周りのチャンスを生かして、自分で聖書を読み、そして、自分の信仰を深めて行こうという思いが無いと、いつまでも同じ所に留まって堂々巡りをしてしまいます。それは誰もが望まない事です。私たちの信仰が深まって行く事を、神さまだけではなく、この世界が望んでいます。いろんな意味で、これからも大きな恵みと共に、苦しいことや問題が、私たちに示されて行くだろうと思います。そういう中で、何を神の御心として受けて行くのか、その事を私たちはそれぞれの所で主と共に歩み、問いかけ、周りの方々の言葉にも耳を澄まして歩む中で、さらに聖書に親しみ、聖書から聞いていっていただきたいと願っています。

お祈りいたします。
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2016年
7月3日
   宣教「歴史を導かれる神」
  
 サムエル記上16章1~13節    
『聖書箇所』
16:1 主はサムエルに言われた。「いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか。わたしは、イスラエルを治める王位から彼を退けた。角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした。」

16:2 サムエルは言った。「どうしてわたしが行けましょうか。サウルが聞けばわたしを殺すでしょう。」主は言われた。「若い雌牛を引いて行き、『主にいけにえをささげるために来ました』と言い、

16:3 いけにえをささげるときになったら、エッサイを招きなさい。なすべきことは、そのときわたしが告げる。あなたは、わたしがそれと告げる者に油を注ぎなさい。」

16:4 サムエルは主が命じられたとおりにした。彼がベツレヘムに着くと、町の長老は不安げに出迎えて、尋ねた。「おいでくださったのは、平和なことのためでしょうか。」

16:5 「平和なことです。主にいけにえをささげに来ました。身を清めて、いけにえの会食に一緒に来てください。」サムエルはエッサイとその息子たちに身を清めさせ、いけにえの会食に彼らを招いた。

16:6 彼らがやって来ると、サムエルはエリアブに目を留め、彼こそ主の前に油を注がれる者だ、と思った。

16:7 しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」

16:8 エッサイはアビナダブを呼び、サムエルの前を通らせた。サムエルは言った。「この者をも主はお選びにならない。」

16:9 エッサイは次に、シャンマを通らせた。サムエルは言った。「この者をも主はお選びにならない。」

16:10 エッサイは七人の息子にサムエルの前を通らせたが、サムエルは彼に言った。「主はこれらの者をお選びにならない。」

16:11 サムエルはエッサイに尋ねた。「あなたの息子はこれだけですか。」「末の子が残っていますが、今、羊の番をしています」とエッサイが答えると、サムエルは言った。「人をやって、彼を連れて来させてください。その子がここに来ないうちは、食卓には着きません。」

16:12 エッサイは人をやって、その子を連れて来させた。彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった。主は言われた。「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。」

16:13 サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。サムエルは立ってラマに帰った。

メッセージの要約
今日から旧約のサムエル記からメッセージを受けていきます。
「歴史をみちびかれる神」という題をつけました。
神は人に自由な意志を与え、それをもって神に従っていくことを願われました。
しかし人間はその自由をもって神に逆らうという道を選んでしまいました。そのことにより様々な苦難を自らに招いたのです。ひと言で言えば、旧約聖書は人間の失敗の歴史ということもできます。

なぜ人は神に逆らったのでしょうか?
イスラエルの歴史を世界中の人々が見ています。しかしその歴史は人間の争いと失敗の連続であるとすれば、それが公開されているということはある意味では世界中に恥をさらしているともいえます。
イスラエルの王国の中で、王になった人々も全員が神さまに従うことに躓きました。
しかし、そのような中でも神さまは人間をけっしてあきらめられませんでした。神さまが赦されたのは7の70倍どころではありませんでした。神さまは心を痛めながら、人間が神さまのものに戻ることを願い続けておられます。イスラエルの歴史を学ぶことで、今に生きる私たちにとってそのことを学ぶことができます。

さてイスラエルの歴史はアブラハムから始まります。そして3代目ヤコブのときに飢饉が激しくなってエジプトに身を寄せます。それからエジプトにいた430年の間に民族と呼ばれるに足る力をもつようになります。その後モーセに率いられて出エジプトがあります。約束の地カナンへは一ヶ月でいけるところを神にそむいたためになんと荒野を40年さまようことになりました。その後やっとヨシュアに率いられカナンの地へ入りました。そして12部族それぞれに嗣業の地が与えられました。
国づくりを進めていく中で、幾度となく近隣の諸民族との戦いがありました。そんな中から周りの国同様、一つになって隣国に当たるために王を立てる要求が高まります。
民が王を求めた様子はサムエル記上8章1~5節にでています。民が王を立ててほしいという願いはサムエルの目には悪と映りましたが、神は彼らの言うようにしなさいと言われます。「彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上に私が王として君臨することを退けているのだ。」色々人々は理由づけをしているが彼らの心は神から離れていたことをご存じだったのです。荒野をさまよっていたときには、神が神のパンであるマンナと、肉であるうずらをもって養い、また火の柱、雲の柱をもって人々を導かれました。しかし、カナンに到着し、神さまが親としての任務を終えられた途端、人々は神さまから離れていったのです。自分で食料を得ることができ、さまよう必要もなく神さまに守ってもらわなくても自分で何とかできるようになったからです。
しかし、人間、心の中に不安や恐れがあると、それを自分でなんとかしようとして、それが神に背くと分かっていながら、時として神に反することをするのです。
サウロがそうでした。サウロはイスラエルの歴史の中で初めて王として選ばれた人でした。非常に美しく背も民のだれよりも肩から上の分だけ人より高かったと書かれています。しかしある時、神の命令に背いて戦利品をかすめ取るということをしたために王位から退けられることになります。預言者サムエルを通して神は過ちをおかしたサウロにこう言われます。「あなたは自分の目には取るに足らぬ者と映っているかもしれない。しかしあなたはイスラエ諸部族の頭ではないか。主は油を注いであなたをイスラエルの上に王とされたのだ」
神はサウロの心の中を既にご存知でした。自分に足りないものがあると思っていることを、そのための不安や恐れがあることを。不安や恐れによりなんとかしようと自分自身で動いて神に反することをしてしまうのです。それは私たちの罪と結びつくものです。私たちはどうしても表面に見えるものにとらわれてしまいがちです。
しかし神は私たちの不安や恐れをご存じの上で私たちを愛して、私たちを守り、ご自身に従うように導かれているのです。

今日の箇所はそのサウロに代わって新しい王が油を注がれて選びだされるところです。
サムエルはエッサイの息子たちの中から新しい王を選ぼうとしていますが、最初サムエルは身目麗しいエリアブに目をとめ彼こそ主の前に油注がれる者だと思います。
しかし、神は言われます。「容姿や背の高さに目を向けるな。私は彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」
今日はこの言葉を覚えて帰ってほしいのです。
人は人の目をひくようなものにひかれますが、しかし神がのちに立てられたメシアはどういう容貌をしていたのでしょうか。それはイザヤ書53章に書かれています。
「わたしたちの聞いたことを誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。乾いた地に埋もれた根からはえ出た若枝のようにこの人は主の前に育った。見るべき面影はなく、輝かしい風格もなく、好ましい容姿もない。」そして十字架上で「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ多くの痛みを負い、病を知っている。」ものとして死んでいかれたのです。イエスを見て、人々はこんな人間がメシアであるはずがないと思ったのです。こんな人が神の子であるはずがないと思ったのです。しかしそのように生き続けたイエスから命の泉がわき続けているのです。十字架につけられたイエスがキリストであり、イエスこそが命の源である。神は今も変わらずイスラエルの人達が味わったのと同じ祝福をイエスキリストを通して私たちにくださろうとしているのです。
アブラハムから始まってイエスまでをまとめましたが、歴史の中で私たちは神に出会い、それぞれの人生の中で神はご自身を表していかれるのです。その時に私たちがどこに目を向けようとするのか、うわべではなく、心の奥を見られる神の眼差しを心に刻んでいくときに、何が真実であるのか、どこに寄り頼むべき祝福があるのかを知らされていくのではないでしょうか。祈りましょう。
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2016年
6月26日
   宣教「闇を照らす一条の光」
  
     
『聖書箇所』
ヨハネによる福音書9章1~3節
メッセージの要約

ヨハネ福音書から黙示録と読み進んできたわけですが、最後にここだけは味合わっておかないと、どうしても終われないと思いますので、ヨハネの中でも、最も有名で、それゆえに多くの解釈が存在する箇所を、もう一度味わいたいと思ったのです。この聖書の箇所を読んで、見なさんどのように感じられましたか。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」私たちは自分に悲しい事や、悲惨な事が起こると、なぜこんな事が起こるのか、どこに原因があったのかと、答えの出ない問の中をぐるぐると際限なくめぐる、そういう経験されたことがおありと思います。日本には自分の身に辛いことが起こると、高いお金を払って、お祓いをしてくれる人の所に行って、除霊してもらったと問うような記事が週刊誌に今だに載るのです。私たち誰もが、人生で良いことも悪いことも様々な経験をします。辛い経験をしたときに、それを過去に亡くなった知人とか、有名人の霊のせいにしたい気持ちもわからないではありません。しかし、これで、本当に効果があるのか。本当には分からないですけども、原因を自分以外のものに見出して安心したり、本当に目を向けなれければならないところに目をつぶったり、そういう部分が私たちにもあるのではないでしょうか。普通に日本人として育っていれば、そういう所が自然と体に染みついていると言えるかもしれません。宗教に関係なく、育ったとしても、いろんな出来事が起こった時に、私が悪いから、何か間違った事をしたから、と思っている人もいるのではないでしょうか。何としても原因を探さないと、落ちつかない。それが人間の持つ弱さなのかもしれません。
今日読んだ聖書に出てくる人は生まれつき目が見えないという、その事だけでも、しんどい思いをしているのです。そうなったのは、この人が悪いからですか。親が悪いのですかなんて、その人の面前で普通は言いません。しかし、私たちに代わって、そして私たちの中にも抜きがたくある疑問を明らかにする為に、神さまは弟子たちの口を通してそれを明らかにされたのだと思います。イエスさまは何と答えられたでしよう。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に表れるためである」責任はそんな所にはないと、つまり因果応報と私たちはよく言いますが、この人の目が見えないこととその人の罪や周りのものの罪とは何の関わりもないとイエスさまははっきりおしゃいました。しかしね因果応報によって縛られている人が世界には多くいるのではないかと、思えるのです。
私がまだ神学校に行く前ですけども、教会で同じ箇所を牧師がメッセージした時に、隣に座っているご婦人が、牧師の「この世に因果応報という事はないです」と言った時に、そこから、メッセージが終わるまでご婦人はずっと泣いておられました。私はメッセージ所ではなくなって、どうしたら良いのか、おろおろしながらその人を見ていた事が、今でも思い浮かぶのです。ところが次にその方が例はいに来られたらメッセージの間ずっとすやすやと寝ておられました。私はその変わりようにもう一度びっくりさせられました。すぐにはわからなかつたのですが、後になって牧師からその理由を聞かされたときなるほどと思いました。「先生、あの方、先週は泣いていたか思っていたら、今日はすやすやと寝ておられました。いったいあの方は何なんですか。」との私の質問に、牧師がその訳を教えてくれました。その方のご主人の親戚も、ある宗教に入っていて、何か自分たちの一族に不運の事が起こると、「おまえが信じていないから悪いんだ。」と責められ、改宗せずにいることが悪のように言われ続けてきたというのです。それで、家でゆっくり休む事ができなくなり、「すべて悪い事が起こるのは自分のせいなのだ。」と自分を責めるようになって夜も眠れなくなったというのです。だから「僕が因果応報なんてない」と言った時は本当に安心たというのです。いかに私たちが「原因は何処にあるのか」、そういう考えにとらわれて、そして、その言葉にがんじがらめになった時に、持っているエネルギーを費やしてへとへとになってしまう様子がよくわかります。
イエスは「神の業がこの人に表れるためである。」と言われました。悲惨な出来事や辛い出来事が起こった時に、皆さんもクリスチャンになってから、この言葉を思い出されると思います。この悲惨な中で神の業が表れると言うのはどういう事なのか。東北の大震災が起こった時に、ノンクリスチャンの方が、「キリスト教では、この悲惨な事が起こった時に、そこに、神の業が表れるためと、言うそうじゃないか。どこに、神の業が現れているのだ。キリスト教はいいがげんな事を言う。」そう言ってその人は激しく怒られたそうです。私たちは因果応報という事はないのだ。分かっていても、それでも、すべての謎が解けた訳でも、多くの人の心が癒されるという事でもない。イエスさまだけがこの言葉を言える方なのです。私たちはイエスさまに信頼することを選び取って行く時に、私たちの思いもしないような方向に導かれて、「神さまがいらっしゃるのになぜこんなことが・・・」と、思うような事も、神の業が表れるのはこういう事だったのかと、あとになって体験させられ、知らされるのです。
「翼をください」の作詞をした山上路夫さんをご存知ですか。山上路夫さんという方は、小学校4年生くらいから高校くらいまで、小児喘息で、学校を三分の一しか行けていない方なのです。私より20歳ぐらい上の方ですけども、遊びざかりの時に、自分独り暗い家の中にいて、天井を見つづけていなければならなかったのです。きっと自分の死を意識し、それと向き合い不安と悲しみに押しつぶされそうなときもあっただろうと思います。そういう人生を歩んできた方だからこそ、「翼をください」と、強く願われたのではないかと思います。布団の中に入って何処にもいけない。他の人が感じられる世界のすばらしさ、そして、少年時代の経験のすばらしさが、体験できない悲しさ、辛さ。しかし、それを単に避けるべきもの、無意味なものとされなかったのです。その思いが様々な縛りの中で息苦しさを感じている人々の心に強く響くのではないかと思います。
生まれつき目が見えないという事が、この男の人をどれほど縛りつけて来たか。でも、私たちもいつも何かに縛られていませんか。健康だけでなく、心の弱さに怯えている。自分の意思の弱さに、そして、優しさのなさに、いつも怯えて悲しんでいる。あるいは、自分の健康の事が気になって、その事でエネルギーを使い切っている。私たちは、皆いろんな形で、自分のこだわりの中にうずくまって、身動きが出来なくなる。そして、何で自分はこうなのかな、あの人のようではないのかな、そんなふうに思って、答えのない中で、堂々巡りをする私たちに、イエスさまは「誰の因果が現れている訳でもないのだ。神の業があなたの上に現れるためなのだ。」と、そうおしゃてるのです。何度も言いますけども、いろんな苦しみが起こるときに、どうしてこんな目に遭うのか、私たちは自然とそんなふうに思ってしまいます。でも、因果関係が説明ついたとしても、それがどうなのだ。と、イエスさまはおしゃってると思うのです。また、この人に神の業が起こるのかどうか。皆で高みの見物といこう。そういう事でももち路にありません。イエスさまはこの言葉で呼びかけられているのです。『神の業のために一緒に働こう、ここにおいで、私の手を取って、私と一緒に生きて行こう。』そう言われるのです。私をお遣わしになった父なる神の業にあなたも加わってほしい。私たち一人一人に誰もがイエスさまから呼びかけられているのです。だいたい高みの見物をしていったい何になるというのでしよう。神の業が起こるのを確認で来たら信じましょうではなくて、『わたしの働きの中にあなたから飛び込んできてほしい。どうか私の言葉に従ってほしいと』、そう私たちは皆招かれているのです。私たちは従って行きたいと思う、そのすぐそばで、それに対抗するように声が起こってくるのを体験するでしょう。「自分には能力も、体力も、財産もない」、そんな言い訳がたくさん起こってきます。そうやって、イエスさまが届けて下さっている光に自分から背を向けて、自分の世界にうずくまってしまうのですか。いくら目が見えていても、私たちの心の中がいかに暗いか、私たち自身が一番分かっているはずです。イエスさまはその事を、この箇所で示しています。世界だけではなく、私たち自身の心の中にある暗闇の中にもイエスさまの福音の光はすでに届いているのです。私たちはそれをしっかりと受け入れて、その言葉を感謝して従って行く、そのことが私たち一人一人に問われているのです。
今日、詩篇93篇読みましたけども、この詩篇をイスラエルの人たちが口ずさんだ時、彼らも『この暗闇の中からどうやつて逃れられるというのか』、そういう混乱の中にありました。何処で分かるかと言うと、
「主よ、潮はあげる、潮は声をあげる。
潮は打ち寄せる響きをあげる。
大水のとどろく声よりも力強く
海に砕け散る波」
自分のいるところを、海の波のように圧倒的な力を持った軍隊が攻めて来て、自分たちが滅ぼされる、そういう状況がここでイメージされているのです。自然の持つ圧倒的な力を私たちは時々見せつけられます。さらに私たちは時々押し寄せてくる運命の波に、ただ呑まれるしかないと思われるときに、詩篇はこう言うのです。『どんな大波が私のはるか上を超えていこうとも、世界は神の御心により固くされて、けして揺らぐ事はない』と。何百年にもわたる歴史の中でそのことを体験してきた人々が詠んだ詩編の言葉だからこそ、それを口ずさむ人たちは、自分の受けている試練の中で同じように主を信頼することを選びとることを促されるのです。そうやって主への信頼を苦しみの時に日々新たにして行ったのです。「主よ、あなたの定めは確かである」いろんな事が崩れ去って行く私たちのただなかで、『あなたの定めはけして変わることはない。』との言葉は何と頼もしいことでしょう。だから、そういう神に私たちは目を向けて行こう。イエスさま、父なる神に信頼して行こう。たとえ目の前に広がる荒れ野が、混乱に満ち、巨大で果てがないと思われても、イエスさまは、神の業を表して下さる。だから、神さまに信頼しよう。そのように、ヨハネによる福音書、黙示録は、私たちに語りかけているように思うのです。皆さんイエスさまを信じて歩みだしてください。いつ、何処からでも、今からでも出来るのです。今日からその道は始まっています。皆さんの心の中に届いている、神さまの光にご自身を向けて、イエスさまが差し伸べられている手を、しっかり握って歩みを始めていただきたい。そう心から願っています。お祈りいたします。

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2016年
6月12日
   「固く立って動かされず その7」
  
ヨハネの黙示録22章1~17章      
『聖書箇所』

22:1 御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、

22:2 都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。

22:3 もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、

22:4 神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。

22:5 もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。

22:6 御使いはまた私に、「これらのことばは、信ずべきものであり、真実なのです。」と言った。預言者たちのたましいの神である主は、その御使いを遣わし、すぐに起こるべき事を、そのしもべたちに示そうとされたのである。

22:7 「見よ。わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを堅く守る者は、幸いである。」

22:8 これらのことを聞き、また見たのは私ヨハネである。私が聞き、また見たとき、それらのことを示してくれた御使いの足もとに、ひれ伏して拝もうとした。

22:9 すると、彼は私に言った。「やめなさい。私は、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書のことばを堅く守る人々と同じしもべです。神を拝みなさい。」

22:10 また、彼は私に言った。「この書の預言のことばを封じてはいけない。時が近づいているからである。

22:11 不正を行なう者はますます不正を行ない、汚れた者はますます汚れを行ないなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行ない、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。」

22:12 「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。

22:13 わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」

22:14 自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都にはいれるようになる者は、幸いである。

22:15 犬ども、魔術を行なう者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行なう者はみな、外に出される。

22:16 「わたし、イエスは御使いを遣わして、諸教会について、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」

22:17 御霊も花嫁も言う。「来てください。」これを聞く者は、「来てください。」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。
メッセージの要約

黙示録を読んでみてつくづく神の言葉は命の言葉だと思いました。
私たちは神の国に向けて旅をする旅人であります。
旅の先にここに書かれているような世界が待っていると信じて日々を過ごしていくのです。
22:2には「川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって」と書かれています。これはまさしく創世記にあったエデンの園にあった木と同じです。人は罪を犯したことによりそこから追放され、その時から人間の放浪の旅が始まったのです。

クリスチャンになりたての頃、大きな聖会で一人の婦人から「あなたは救われましたか?」と聞かれたことがあります。その時は「一応バプテスマは受けましたが、、、、」と答えましたが、「はい」と胸を張って言えない自分が確かにいました。
しかしパウロでさえ、最後まで信仰を守り通せるかという問いに、はいと言えない自分を自覚していたと思えるのです。(コリントの信徒への手紙1 9:27「むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。」)
パウロは以前はクリスチャンを迫害する者でした。それがイエスと出会いそれまで確かだと思っていたものがひっくり返されたのです。引っくり返ったからそれでそのあとずっとそのまま行けるかと考えた時、彼には自分の弱さがよく見えていたので、もう決して引っくり返ったりしないとは言い切れなかったのだろうと思います。
だからフィリピの信徒への手紙でも「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自信は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標も目指してひたすら走ることです。だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。」(フィリピ3:12~14)と言っています。

私たちのキリストとの結びつきはまだ不完全です。なぜなら私たちの側に、キリストに従うことと、拒否することの判断が与えられているからです。
マタイによる福音書10:22にも「最後まで耐え忍ぶものは救われる」と言われています。「あなたは信仰告白をして、バプテスマを受けたから間違いなく天国へ行ける」とは言われていないのです。

黙示録にでてくる7つの教会も(黙示録はその7つの教会に宛てた手紙です)迫害を受けていただけでなく、信仰を捨てる誘惑は間断なくキリスト者に押し寄せてきていました。
これは私たちも同じです。

イエスは私たちの最終目的地、また宿屋でもあり、巡礼の旅の同行者でもあります。
それでも私たちは気を緩めるわけにはいきません。安全な目的地に全員が着くと確約されているわけではないからです。そのようなことがわかってきた今なら「あなたは救われましたか?」というあの婦人の問いに「はい、救われつつあります」と私は答えると思います。

旅を続けていかねばならない私たちにとって、究極的には祈りはただ一つです。「主よ来てください。あなたの命の水を今日わたしに飲ませて下さい」ということです。それなしに人生を生き抜くことはできないからです。
そのために黙示録が人々に求めていることは「礼拝を守りなさい」ということです。
天使も言っています。「神を礼拝せよ。」(19:10、22:9)
ヨハネに黙示録が与えられたのは、日々怖れと不安と闘っている者に対して、神さまが神の国の前味をちょっと味合わせて下さるためだったということが言えるかもしれません。神戸牛を食べたことがある人なら「それを食べたいか?」と問われたとき、すぐさまその味を思いだし「はい、食べたい」と答えるでしょう。ヨハネの教会の人々も、この黙示録の言葉を聞くことによって、神の国の到来を待ちこがれる思いが強められ、「マラナタ・主よ来てください」との祈りを口ずさんだのだと思います。
マラナタは「主よ、来てください」という意味です。
わたしたちも主の晩餐式のときに歌いますね。
キリストの十字架の犠牲によってこの地上にもたらされた救いに預かるものとなったので、それを記念するために主の体なるパンと主の血の象徴である葡萄酒をいただくのです。主が再び来られるときまで…。主の憐みがなけれは私たちの生活は立ちゆかないものであることを心に刻むのです。イエス様は毎回毎回わたしが来るまでこれを繰り返せと言われました。そこに命があって、そこに教会のすべてのすべてがかかっているからです。
私たちは今日も、この一週間も、これからも旅を続けていきます。一日一日が主と共なる旅路です。主は待ってもおられますし、私たちと共に歩いておられます。でも主が共におられるからと言って、私たちの人生から苦難や誘惑、試練が消えてしまうわけではありません。その時、その時、主に祈りつつ一つ一つ選択をしていかなければならないのです。
だから最後まで耐え忍ぶ者は救われる、耐え忍ぶために主は礼拝を与えてくださったのです。
ですから霊と真を持って礼拝をしなさいというのはそういう意味も含まれているのです。
どうぞ日々の祈りの中で「主よ来てください。そしてあなたのもとから流れる命の水を十分に飲ませてください。そして私たちを力づけ、私たちの証をあなたの証となさって下さい」という祈りを口ずさみましょう。
それを今週一週間の祈りとして行きましょう。

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2016年
5月15日
   「固く立って動かされず その7」
  
ヨハネの黙示録22章1~17章      
『聖書箇所』

22:1 御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、

22:2 都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。

22:3 もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、

22:4 神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。

22:5 もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。

22:6 御使いはまた私に、「これらのことばは、信ずべきものであり、真実なのです。」と言った。預言者たちのたましいの神である主は、その御使いを遣わし、すぐに起こるべき事を、そのしもべたちに示そうとされたのである。

22:7 「見よ。わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを堅く守る者は、幸いである。」

22:8 これらのことを聞き、また見たのは私ヨハネである。私が聞き、また見たとき、それらのことを示してくれた御使いの足もとに、ひれ伏して拝もうとした。

22:9 すると、彼は私に言った。「やめなさい。私は、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書のことばを堅く守る人々と同じしもべです。神を拝みなさい。」

22:10 また、彼は私に言った。「この書の預言のことばを封じてはいけない。時が近づいているからである。

22:11 不正を行なう者はますます不正を行ない、汚れた者はますます汚れを行ないなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行ない、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。」

22:12 「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。

22:13 わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」

22:14 自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都にはいれるようになる者は、幸いである。

22:15 犬ども、魔術を行なう者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行なう者はみな、外に出される。

22:16 「わたし、イエスは御使いを遣わして、諸教会について、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」

22:17 御霊も花嫁も言う。「来てください。」これを聞く者は、「来てください。」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。
メッセージの要約

黙示録を読んでみてつくづく神の言葉は命の言葉だと思いました。
私たちは神の国に向けて旅をする旅人であります。
旅の先にここに書かれているような世界が待っていると信じて日々を過ごしていくのです。
22:2には「川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって」と書かれています。これはまさしく創世記にあったエデンの園にあった木と同じです。人は罪を犯したことによりそこから追放され、その時から人間の放浪の旅が始まったのです。

クリスチャンになりたての頃、大きな聖会で一人の婦人から「あなたは救われましたか?」と聞かれたことがあります。その時は「一応バプテスマは受けましたが、、、、」と答えましたが、「はい」と胸を張って言えない自分が確かにいました。
しかしパウロでさえ、最後まで信仰を守り通せるかという問いに、はいと言えない自分を自覚していたと思えるのです。(コリントの信徒への手紙1 9:27「むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。」)
パウロは以前はクリスチャンを迫害する者でした。それがイエスと出会いそれまで確かだと思っていたものがひっくり返されたのです。引っくり返ったからそれでそのあとずっとそのまま行けるかと考えた時、彼には自分の弱さがよく見えていたので、もう決して引っくり返ったりしないとは言い切れなかったのだろうと思います。
だからフィリピの信徒への手紙でも「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自信は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標も目指してひたすら走ることです。だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。」(フィリピ3:12~14)と言っています。

私たちのキリストとの結びつきはまだ不完全です。なぜなら私たちの側に、キリストに従うことと、拒否することの判断が与えられているからです。
マタイによる福音書10:22にも「最後まで耐え忍ぶものは救われる」と言われています。「あなたは信仰告白をして、バプテスマを受けたから間違いなく天国へ行ける」とは言われていないのです。

黙示録にでてくる7つの教会も(黙示録はその7つの教会に宛てた手紙です)迫害を受けていただけでなく、信仰を捨てる誘惑は間断なくキリスト者に押し寄せてきていました。
これは私たちも同じです。

イエスは私たちの最終目的地、また宿屋でもあり、巡礼の旅の同行者でもあります。
それでも私たちは気を緩めるわけにはいきません。安全な目的地に全員が着くと確約されているわけではないからです。そのようなことがわかってきた今なら「あなたは救われましたか?」というあの婦人の問いに「はい、救われつつあります」と私は答えると思います。

旅を続けていかねばならない私たちにとって、究極的には祈りはただ一つです。「主よ来てください。あなたの命の水を今日わたしに飲ませて下さい」ということです。それなしに人生を生き抜くことはできないからです。
そのために黙示録が人々に求めていることは「礼拝を守りなさい」ということです。
天使も言っています。「神を礼拝せよ。」(19:10、22:9)
ヨハネに黙示録が与えられたのは、日々怖れと不安と闘っている者に対して、神さまが神の国の前味をちょっと味合わせて下さるためだったということが言えるかもしれません。神戸牛を食べたことがある人なら「それを食べたいか?」と問われたとき、すぐさまその味を思いだし「はい、食べたい」と答えるでしょう。ヨハネの教会の人々も、この黙示録の言葉を聞くことによって、神の国の到来を待ちこがれる思いが強められ、「マラナタ・主よ来てください」との祈りを口ずさんだのだと思います。
マラナタは「主よ、来てください」という意味です。
わたしたちも主の晩餐式のときに歌いますね。
キリストの十字架の犠牲によってこの地上にもたらされた救いに預かるものとなったので、それを記念するために主の体なるパンと主の血の象徴である葡萄酒をいただくのです。主が再び来られるときまで…。主の憐みがなけれは私たちの生活は立ちゆかないものであることを心に刻むのです。イエス様は毎回毎回わたしが来るまでこれを繰り返せと言われました。そこに命があって、そこに教会のすべてのすべてがかかっているからです。
私たちは今日も、この一週間も、これからも旅を続けていきます。一日一日が主と共なる旅路です。主は待ってもおられますし、私たちと共に歩いておられます。でも主が共におられるからと言って、私たちの人生から苦難や誘惑、試練が消えてしまうわけではありません。その時、その時、主に祈りつつ一つ一つ選択をしていかなければならないのです。
だから最後まで耐え忍ぶ者は救われる、耐え忍ぶために主は礼拝を与えてくださったのです。
ですから霊と真を持って礼拝をしなさいというのはそういう意味も含まれているのです。
どうぞ日々の祈りの中で「主よ来てください。そしてあなたのもとから流れる命の水を十分に飲ませてください。そして私たちを力づけ、私たちの証をあなたの証となさって下さい」という祈りを口ずさみましょう。
それを今週一週間の祈りとして行きましょう。

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2016年
5月8日
   
  
ヨハネの黙示録12章1~18節       

『聖書箇所』
ヨハネの黙示録12章1~18節

メッセージの要約

この黙示録の12章には竜が登場します。竜の使いと大天使ミカエルとその使いが戦ったとあります。ここまでくるとファンタジーですよね。パウロがアテネで説教をした時にイエスさまの復活の話になったとたんアテネの人々が去っていった話を思い出しませんか。そんなありえない様な話を聞かされても、現実の事なら分りますが天での戦いにどう言う意味があるのか?先ほどファンタジーと言いましたがこの話はもちろんファンタジー的な語り口で話されていますが、でもファンタジーは決して単なる空想を語っているわけではありません。そこに人生の真実がおりこまれているからこそ、幾世代にもわたって語り継がれてきたのですから。おとぎ話や昔話という物が無かったら私たちの人生は殺伐としたカラカラの乾ききった物になっていたでしょうね。

生前イエスさまも例え話を用いておられましたが、その題材としてイエスさまが用いれたのはカラスであったり辛子種であったり豚であったり、普段人々が目にする物でした。しかしここでは竜とかが出てくる。それによってしか表せれない、強大な物、計り知れない邪悪さが込められているのです。竜が必ずしも邪悪と言えるか疑問かも知れませんが、そう言う形で象徴される物、そしてその時代この話を聞いていた教会の人達はそれが何を意味するか一目瞭然で理解していました。以前からお話ししていますが、当時の教会の人達は、ただでさえ天災であったり飢饉であったりそのような事が繰り返し起こってる状況の中で、同胞のユダヤ人達からも攻撃され、権力者であるローマからも厳しい圧力を掛けられていたわけで、無力な剣も持たない軍隊も持たずイエスを信じその御言葉をもって生きている生き方が、いかに権力者によって無残に踏みにじられていったか目の当たりにしていたのです。火あぶりにされ殺されたり、あるいはライオンのいる穴に落され殺されたり本当にあった話なんですね。そのような本当に人間業とは思え無いような迫害の中にキリスト者は置かれていた。その中にあって自分たちが現実に戦っている、直面しているこの試練に本当に意味があるのだろうか?これは恐らく皆さんも人生の中で何故自分がこの様な苦境に立たされるのだろうか?そういう状況に立たされたと気誰もが問う問いなのではないでしようか。

ファンタジーの中に竜は良く登場するのです。日本の昔話でも竜は登場するのですが、皆さん「竜と鶏」と言うお話をご存知ですか?ある日竜が女の人の姿になって貧しい医者の所に来るわけですよね。そして耳の中に何かがいるという事で、医者に診てもらったところ、その女の人の耳の中にムカデがいて暴れているんです。そこで医者はこの女の人は只者では無いと思って「治してあげるから貴方も本性を現しなさい」と言いました。そうしたら女の人は竜になるわけです。そしてあらためて竜はお医者さんに頼むわけですが、お医者さんは鶏を連れて来て竜の耳の中に入れるてやるわけです。そして竜の耳の中で鶏とムカデの格闘がありまして最終的にはムカデを咥えて出て来て治療は成功し竜はお医者さんにお礼を言って去っていくのであります。面白いでしょう?皆さん。

また竜から少し離れますが皆さんシンデレラと言うお話を知ってます?フランス語では「サンドゥリヨン」と言うのですが、これは灰被りと言う意味なのですね。ディズニーのアニメでしかこのお話を知らないと、このシンデレラを虐めるお母さんは継母となっていますよね。でも原本ではつまりオリジナルは実のお母さんなんです。後代の人は実のお母さんがそんな娘を虐めるなんてあってはいけない。それは道徳的にもこのストーリーは良くないという事で書き換えられたんですね。中世辺りに。でもね、今皆さん毎日児童虐待の話を聞くでしょ?やっているのは継母ではないですよね?実の親ですよ。シンデレラのお話もそうですが昔話は何を伝えようとしているかと言うと、人間と言うのは決して神でも悪魔でもないけど時には、そのような本性を持っている恐ろしい物になる、母でさえ実の子供をその様に扱う可能性があるという事です。

灰谷美代子さんと言う日本のファンタジー作家が居られますけど、「竜ノ子太郎」と言う童話を書いておられます。これは現代の新しい童話ですけど、この童話に出てくる竜は、実はあるお母さんが村の禁を犯して入ってはならない所に入って食べ物を食べてしまったために、罰として竜にされてしまうんですね。竜になった後、子供を産むのですがその子供はドンブラコと川を流されて、あるお婆さんに拾われるわけですが、その子供は光る玉をもっていたんですね。その子供は光る玉を舐める事で泣きもせず良い子に育っていくのですけれども、その球が段々と小さくなって消えてしまって子供は泣き止まくなり、仕方なくお婆さんは竜の所に連れて行くわけです。おばあさんは竜にこの子を泣き止まして欲しいとたのむと、竜はどうしたかと言うと目の玉をくり抜いてその子にあげたんですね。最初に持っていた玉と言うのは竜の片目だったんです。でもう一つの目を与えてしまったために、その竜は盲、つまり目が見えなくなってしまうんです。母親って言うのは子供の為にその位犠牲を払うって言うね、そういう事がこのお話の一つのテーマでよね。だから実の子にたいしてもあのような虐待をするし、またある時は本当に子供の為には自分のあらゆるものを投げ捨てと言う姿、どちらかじゃ無いのです。どちらにもなりうるのです。

だからもしファンタジーと言う物が無くなってしまったら、私たちは人間と言う物の理解や或いは人生の素晴らしさ、過酷さ、奥深さ、そう言う物全てを失ってしまう事になるんです。人間と言うのもが如何なるものか、人生の複雑さや広がりや私達の人生の喜びや悲しみ痛みと言うものを、ファンタジーや昔話はそれとなく私達に教えてくれるのです。説教臭くじゃなくね。

今日この聖書の箇所を読んでみると「なんだこれは」と思われるかも知れませんが、ここには正に黙示録の示すもう一つのクリスマスの出来事が記されているんですね。クリスマスと言うと、ルカによる福音書かマタイによる福音書しか書かれてないと思っておられるか知れませんが、この12章はまさしくクリスマス出来事の背景にある物語を物語っているんです。

普段、私達が目にするイエス様はヨセフとマリアとの間に色んな出来事があって最終的に生まれるのだけれども、しかし貧しい家畜小屋で生まれ最後にはエジプトにまで行かなければならなかった、そう言う流れを知っていますけども、その地上での出来事の背後に壮大な言ったら良いのでしょうか言葉がありませんけれども、しかしそれは天の世界で実はもう一つの戦いがあったという事なんです。それは現在にまで続いている物なんだ。竜が現れますけれども、どんな姿をしていたか書こうにも書けない状況が続いていますが、しかしその力の強大さは、天の星の3分の1を掃き寄せて地上に投げつけた。天の星の3分の1が真っ暗闇になる様なそんな力を持っていたという事です。竜は女が子どもを産んだらその子を食べようとして待ち構えていた。女ごと食べてしまえばと思うのですが、しかしこの竜は子どもだけを食べる、つまり正に人類に絶望を与えようとするならば、一番その喜びの瞬間に奪うのが最も効果的でまりますから、そのような事をしようとしていたのです。しかしその男の子は天に上げられ、玉座へ上げられた。女性も穴に逃げ込んで無事であった。しかしそれだけでは終わらなかった。天ではミカエルとその使い達が竜に戦いを挑んだ。竜とその使い達も応戦したが勝てなかった。そして最早天には彼らの居場所は無くなった。その巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わすものは投げ落とされたのです。

皆さんイエスさまのご生涯の中で12弟子を派遣するときにですね、こんな出来事があったのですね。彼らが派遣されて帰ってきた時に、『わたしは天からサタンが投げ落とされるのを見た』と書かれた場所があるので皆さん探して見て下さい。本当にこの黙示録と言うのは、ただ黙示録だけの物語ではなくて、やっぱり福音書や新約聖書全体と非常に深く関わっている書物であります。その使い達諸共投げ落とされた。私達は天で大きな声が次のように言うのを聞いた。今や我々の神の救いと力と支配が現れた。神のメシアの権威が現れた。我々の兄弟達を告発する者、昼も夜も我々の神のみ前で彼らを告発する者が投げ落とされたからである。兄弟たちは、子羊の血と自分たちの証の言葉とで、彼に打ち勝った。彼らは、死に至るまで命を惜しまなかった。兄弟達は子羊の血と自分達の証の言葉とで彼に打ち勝った。彼らは、死に至るまで命を惜しまなかった。この兄弟達と言うのは、ミカエルとその使い達の使い達と同じ意味なんですよ。だからその天での戦っている使い達とつまり、天での戦いと地上での教会における、イエス様を信じそれに従う人達の戦いと言うのが同時に入り込んで記されているのです。

天でどんな戦いであったのか想像するしかありませんが、地上において主にある教会の人達の戦いはその人たちが持っている武器は、子羊の血と自分達の証の言葉で戦ったんです。武器じゃ無かったんですよ。剣とか鎌とか鉄砲とかじゃ無かったんです。向かってくる者はつまりローマの人。時の権力者は彼らを剣で動かし、脅し傷つけていったんですよ。彼らはそれに対しても子羊の血と自分達の証の言葉とで戦ったんです。それが教会の歴史なんです。でも教会の中には教会自身が剣をもった時代も確かにありました。十字軍と呼ばれるそう言う出来事も確かに起こったわけであります。そしてある時は魔女裁判であったり、人々を剣によって脅したりして従わせようとしたりした。信仰と同時に聖書だけでなく剣をもって同じように人々を支配していたという歴史が教会の中にも確かにあるわけですけども、しかし本当に私たちが成すべきはそうでは無くて、私たちの戦いは子羊の血と自分達の証の言葉で戦っていくというのです。

まぁこの世の人達から見れば、信仰なんてこの世の権力に何の役に立つのか?そう言われると思います。確かにそうでありますね。見た目には如何にも弱弱しい。イエス様の十字架なんて、十字架に掛かるよりもっと偉大な力を示して、空を飛んでみたり奇跡を起こしたり、そんな方法だってイエス様にはあったわけであります。そしてその機会があったしそれを選び取る事もイエスさまには出来たのです。あの悪魔による荒野の誘惑の時に。しかしイエスはその事を選ばれなかった。自身が苦難を受けて十字架に掛かる道、神の言葉にのみに立つ道を行かれました。そして神の言葉で悪魔の誘惑に勝って行かれたように。私達もそのイエスさまの弟子ですから、どんな状況になったとしても、私達に与えられているのは、イエスさまが私達の為に血を流してくださった、命を捧げて下さった事実と聖書の御言葉ですよ。これだけが私達の武器なんです。竜はここでこの生んだ女性を様々な形で追跡します。つまりこの女と言う言葉が表しているのは、地上の教会の事ですよ。本当に悪しき勢力、権力が教会を迫害しそして、追い詰めていこうとした。しかし女性は神の力に守られて竜でありそして蛇ある者から守られていった。そしてなぜ竜が怒ったかと言うと、その残りの者達が神の掟を守ってイエスの証を守り通したからですよ。それで戦ったからなんですよ。剣を持ったり、この世がやっている方法で戦おうとする時に悪しき勢力は逆に喜ぶわけです。「良いぞ良いぞもっとやれ」と。そうすればお互いに傷つき合う事は分り切っているわけですから。

しかし教会はこの物語の中から、本当に私達が目にしている現実の背後でどんな大きな神の戦いが起こっていたか、そしてそれが最終的にすでに決着が着いていることを知らされていたのです。竜には残された時間が少ない、残された時が少ないのを知ったと書かれていますけどこの12節の終わりの所にですね。だから本当にこの地上に落された竜は焦っている。そして最終的には勝利が下ってしまったのだけれども、ここで何とか一矢報いるため必死にやっているわけですが、しかし私達が神の教えに生き、そして証の言葉を私達が手放す事がないならば、私達に勝利が訪れないなんてことは決して無いんですね。キリスト者の勝利の人生とは正にその事なんです。別に事業に成功したり、病気が治ったり、若々しくなったりそんな事で勝利するでは無いのです。私達はその戦いの中で確かに疲れ果てるんです。だってイエスさま自身が、私達の師匠があんなに苦しんで十字架にまで掛けられたんですから、なのに私達が楽な人生を歩めると思う方が間違いですよね。だけどどんなに大変な状況の中に置かれたとしても、私達に最終的な勝利は決まっているんだ。竜は焦って何とか挽回しようと色んな事を画策します。私の隣人の所へ行って色んな事を吹き込むかも知れない。そしてそう言う人を用いて私を動かそうとするかも知れない。皆さんの所にも起きうる事ですよ。起こっている事だろうと思います。時の権力者を動かしたりして色んな状況、各国を動かしたりして。しかし私達にとって寄って立つべきものは子羊の血と証の言葉これのみなんです。そこにのみ本当に私達の命と、そして私達の勝利がかかっている。このヨハネの黙示録を読み進めて来てこの12章に来た時に、最初はそんな風に「あー他の書物をやば良かったかなぁ」と最初は思った私ですが、今まで自分が散々説教で聞いてきた事がやっと納得した思いがしました。本当にこの私達に12章が伝えようとしているメッセージは、喜びと励ましと希望に満ちたメッセージなんです。初代教会の人達も本当にどんな苦しみの中にあっても、もう既に私達は世に勝っているとイエスが言われたその事はこの事だったんだ。そして私達の戦いと言うのは血肉に対する物では無いと週報の中に書きましたが、これは皆さんエフェソ6章12節の言葉です。書き留めてエフェソ6章12節を家に帰って見てみて下さい。

私達の戦いを本当にここで初代の教会の人達が戦っていった様にイエスの十字架にしっかり繋がって、そしてイエスが下さった聖書の言葉にしっかりと立って歩んで行きましょう。
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2016年
4月17日
   「主の栄光を仰ぎ見る者」
  
ヨハネによる福音書4章1~11節       

『聖書箇所』
4:1 その後、わたしが見ていると、見よ、開かれた門が天にあった。そして、ラッパが響くようにわたしに語りかけるのが聞こえた、あの最初の声が言った。「ここへ上って来い。この後必ず起こることをあなたに示そう。」

4:2 わたしは、たちまち“霊”に満たされた。すると、見よ、天に玉座が設けられていて、その玉座の上に座っている方がおられた。

4:3 その方は、碧玉や赤めのうのようであり、玉座の周りにはエメラルドのような虹が輝いていた。

4:4 また、玉座の周りに二十四の座があって、それらの座の上には白い衣を着て、頭に金の冠をかぶった二十四人の長老が座っていた。

4:5 玉座からは、稲妻、さまざまな音、雷が起こった。また、玉座の前には、七つのともし火が燃えていた。これは神の七つの霊である。

4:6 また、玉座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。この玉座の中央とその周りに四つの生き物がいたが、前にも後ろにも一面に目があった。

4:7 第一の生き物は獅子のようであり、第二の生き物は若い雄牛のようで、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空を飛ぶ鷲のようであった。

4:8 この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その周りにも内側にも、一面に目があった。彼らは、昼も夜も絶え間なく言い続けた。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、/全能者である神、主、/かつておられ、今おられ、やがて来られる方。」

4:9 玉座に座っておられ、世々限りなく生きておられる方に、これらの生き物が、栄光と誉れをたたえて感謝をささげると、

4:10 二十四人の長老は、玉座に着いておられる方の前にひれ伏して、世々限りなく生きておられる方を礼拝し、自分たちの冠を玉座の前に投げ出して言った。

4:11 「主よ、わたしたちの神よ、/あなたこそ、/栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方。あなたは万物を造られ、/御心によって万物は存在し、/また創造されたからです。」
メッセージの勘所

王座に座っている碧玉や赤めのうのような方、エメラルドのような虹、灯火のように燃える霊、水晶に似たガラスの海・・・。だんだん頭が痛くなってきます。狸にでも化かされているのか?そうではありません。ここにあることは、私たちの誰もがいずれ見ることなのです。「でもたとえそれが真実であったとしても、自分が死んだ後のことを言われたってそれが何になるの?何の役に、何のためになるの?」という声が聞こえてきそうです。そうですね、でもそんな世界が私たちの見ている世界と同時に存在しているのです。皆さん、励まされませんか?
メッセージの要約

熊本に大地震が起こりました。子供としてはすぐにでも両親のところに飛んでいきたい気持ちがありましたが、そんな中でここにとどまって皆さんにみ言葉を語ることの意味を思わされました。まさにそんな中で与えられた今日のメッセージの箇所が、これも不思議なことですが私たちがなぜ礼拝をしなければならないのかを問いかけていることに、驚きを禁じ得ません。
11節に「主よ、私たちの神よ」という言葉があります。当時のローマ帝国では皇帝に手紙を書くときにはこれと同じ言葉で敬意を表さなければならなかったそうです。
黙示録が書かれた当時、教会はローマ帝国から迫害を受けているさなかにありました。ローマ皇帝が自分を神として礼拝するように民に要求していたからです。礼拝そのものが戦いでありました。教会が礼拝する神こそがまことの神であるという信仰を貫く戦いだったのです。ヨハネは真の神を拝み抜く礼拝のために特別に召された人だったといえるでしょう。
先週の1章から今日はいきなり4章に飛びましたが、2章~3章では7つの教会へ言うべき言葉をイエス様から頂いて記しています。そしてこの4章ではヨハネは天上の礼拝へと導かれていったのです。勿論彼の体はパトモスという島の牢獄につながれていましたから、幻を見させられたと言えます。
神はヨハネに天上の礼拝に参加することを望まれました。ヨハネはこの時の体験から、地上で捧げられる礼拝がこの天上の礼拝に繋がっていることを人々に伝えつづけたと思われます。この今捧げている私たちの礼拝も天上の礼拝と繋がっているのです。
ヨハネに示された天上の礼拝では私たちの知識を超越したような言葉が出てきます。天に玉座が設けられ、そこに座っておられる方は碧玉や赤めのうのようであった。玉座の周りにはエメラルドの虹のようなものが輝いていた。また24人の長老が座っていた。玉座からは稲妻や雷が起こった。玉座の前には7つのともし火が燃え、玉座の中央とその周りには4つの生き物がいた。生き物と長老が玉座におられる方をたたえて賛美を捧げていた。
「主よ、わたしたちの神よ、あなたこそ、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方。あなたは万物を造られ御心によって万物は存在し、また想像されたからです。」と。
なぜヨハネは天の礼拝に招かれたのでしょうか?
伝道者として、いつもヨハネは人々を礼拝に招き、説教をし、主の食卓を仲間と共に囲んでいました。それが彼が召されて仕えていたことでした。
ローマの皇帝が私こそ神であると語っているその世界で、神が生きておられることを確信し、神が与えてくださる言葉を語ったのです。しかしそれは厳しい戦いだったことが想像されます。私が牧師をしているのも、『本当に神は生きておられるのか』という問いに答えるためにここに立てられているわけですが、それに答えるのは簡単ではありません。厳しい課題です。
ヨハネが幻を見せられたと時は、イエスさまが亡くなられて60年くらいたった頃で殉教者が何人も出ていました。教会の中にはその当時の時代背景を考えれば、『いったい私たちはこれからどうなるのか』という不安が満ちていたことでしょう。時として、人の中に芽生えた不安はその人が思いもしなかった方向にその人を変えていくことだってあります。その不安のゆえに、まわりを憎み、敵意を他者に向けることになった人がこの世界にどのくらい存在しているでしょうか。
イエスさまの使徒ペトロでさえ、イエスさまが捕らえられようとしたとき、不安から剣で兵士の耳を切り落としてしまいました。教会という群れであっても、武器を手に周りに暴力をふるう集団に変わることもあるのです。敵意というのは孤独という苗床に不安という養分を与えられたときに最もよく育つのです。敵意は時に自分自身に向けられたり、また時に外へ向けられたりもしますが、いずれも破壊へと結びつくだけです。
ヨハネだって幽閉され今後どうなるかわからない状態でした。そんな中で天上の礼拝へと招かれたのです。この日本でもキリシタン弾圧の中で信仰を守り抜いた歴史があります。先の戦争のときにも教会において、密かに涙を流しながら礼拝を守ったという歴史があります。(また逆に体制になびいていった過ちも犯しましたが。)
教会はこの2000年間このようなことを経験してきました。神はほんとうにおられるのですかと言いたくなる出来事を目のあたりにし、『神がおられるならなぜこのようなことが起こるのか』と思い涙する時に、5章でヨハネは「泣くな見よ」と言われます。その指し示された先にあるものは小羊でした。しかも屠られたような小羊でした。この小羊は十字架にかけられたイエス・キリストを指し示しています。信仰に生きようとするものがなぜ困難な中に生きなければならないのかと思うときにも、すべては小羊の手の中で起こっているのだと知らされるのです。
不安は時として信仰なんかなんの役に立たないという思いや、神さまなんかいないという思いに私たちをさせることがあるかもしれませんが、そんなときに礼拝の中で、私たちは確かな神の御手の中にあること、神が最善をしてくださること、神はいつも私たちの傍らにあることを確認するのです。
故郷の震災被害に心が奪われそうになるときにも、自分の思いではなくまず礼拝を、そうしなければ人間的な思いやパワーではやり抜けないと示されました。神はヨハネを通して7つの教会への手紙を残し、黙示録が記されました。私たちもしっかりとみ言葉を受け取っていく時を持ちつづけていきましょう。また主の日に整えられてそれぞれの持ち場に出て行きたいと思います。
お祈りをいたしましょう。
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2016年
4月10日
   「信仰の力」
   
ヨハネの黙示録1章1節~8節       

『聖書箇所』
1:1 イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストにお与えになり、そして、キリストがその天使を送って僕ヨハネにお伝えになったものである。

1:2 ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分の見たすべてのことを証しした。

1:3 この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである。時が迫っているからである。

1:4 -5ヨハネからアジア州にある七つの教会へ。今おられ、かつておられ、やがて来られる方から、また、玉座の前におられる七つの霊から、更に、証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、

1:6 わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン。

1:7 見よ、その方が雲に乗って来られる。すべての人の目が彼を仰ぎ見る、/ことに、彼を突き刺した者どもは。地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲しむ。然り、アーメン。

1:8 神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」
メッセージの勘所

今日から黙示録を学んでまいります。しかし何を隠そう私も苦手な書物です。やたらと暗号めいた言葉が出てくるし、誰かの頭の出来事をなぞっているみたいでとらえどころがない気がします。でも、この世の前に窮地に立たされ、波高き時代の教会にとってなくてはならない書物だったのです。今という時しか知ることのできない人間にとって、時空を超えている神の目線と展望が、遭遇している困難を乗り越えていくのに絶対に必要だったのです。
メッセージの要約

黙示録は神さまがヨハネに対して示されたビジョンを語っていますが、難しい!というかよくわからないというのが皆さんの感想ではないかと思います。
黙示録が正典となった後も長く議論になってきました。例えばマルチン・ルターも聖書には含めてはいましたが、この書物を認めませんでした。ジャン・カルバンが新約聖書の注解書を表していますが26巻まではありますが、27巻目の黙示録は外していました。
しかし、今も正典として聖書の一巻として存在するこの書物を私たちは決して無視してはならないのです。
でも頭ではわかっていても、黙示録6章9節などにある復讐を叫ぶ言葉などはむしろ「復讐は神にゆだねなさい」というイエスの言葉と反するのではないのか、教会がそれを許していいのかと思いがどうしても心の中に沸き起こってしまいます。
「黙示」という言葉は、もともとは言葉を用いることなく黙ったままで何かを示すという意味ですが、本来の意味は「啓示」と同意味で、啓き示すという意味なのです。中国語に聖書が翻訳されたときに、この27巻目につけられた名前が黙示だったことから、日本でもその名称を採用することになったのです。ヨハネは黙って神の語りかけを聞き、幻を見せられています。そしてそれをそのまま教会の人々へ語っているわけですが、目に見える現実は耐え難いものであるけれども、「わたしは世に勝っている」と語られたイエスが今もここにおられ、その方を通して自分たちが神のご支配の中に生きていることを、これを聞き続けていた人々は受け取り、励ましと勇気を与えられたのだと思います。
しかし、言葉の一つ一つの意味を取り上げて、ここに書いてあることは何年何月何日に起こる、あるいは起こったということを主張する人や団体がこれまでも多数まで存在したのも事実です。オウム真理教などもその一つです。それは人々を恐れや恐怖で縛ることを意味しました。だから、黙示録は敬遠され、価値のないものと考えられてきたのです。
でも、それは黙示録に問題があるのではなく、問題は読む側にあるのです。
チェルノブイリの原発事故が起こったときには、チェルノブイリが「にがよもぎ」を意味すること、黙示録にその言葉があることから(ヨハネの黙示録8:11)、黙示録に載っていることが実現したと大騒ぎになったこともあります。
しかし聖書の神は将来の出来事を私たちには教えてはくださいません。弟子達が「それはいつ起こるのですか?」と問うた時にも「それは父(神)だけがご存じである」と言ってお教えになりませんでした。

さて1:8には「神ではアルファであり、オメガである」といわれています。アルファはアルファベットの最初の文字で、オメガは終わりの文字です。ですから、初めであり終わりであるという意味なのです。過去を記憶の中にとどめながら今を生きる私たちと違い、神は過去も現在も未来も一緒に見ることのおできになるお方であるというのです。
その神がおられるのだから私たちにできることは、将来やってくるものにおびえつつ、今を不安の中に生きるのではなく、ご自身その不安と苦しみのただなかを一歩いっぽ歩き通されたイエスを見あげて、今をこの時を懸命に生きることです。
聖書の中に花婿を待つ10人の乙女というお話があるのをご存じでしょうか?その10人のうち5人はともし火をともすための油が切れてしまい、他の5人は油を準備していたので突然花婿が来られたときにちゃんと迎えることができたというお話です。
これから何が起こるかわらない将来への怖れはありますが、その中で一体本当の支配者は誰なのかを忘決してれてはいけません。
テレビや評論家は、アメリカ議会、ロシアの大統領、イスラム国などについて詳しく語り、確かにその力は無視できません。しかし、決定力を持っておられるのは神だけです。なぜなら神だけが過去と今と未来を同時に見ることのできる方だからです。
黙示録が読まれた当時、教会はローマ帝国からの迫害という大変な試練の中にありました。集会をすることでさえ難しかったのです。礼拝するのも命がけでした。
そういう人々の集う礼拝においてヨハネの黙示録は全体を通して朗読されたようです。
目に見えて支配しているのはローマの皇帝でしたが、そのローマの皇帝も私たちへの最終的な決定権は持っていない。神はローマの皇帝でさえ自分の駒としてお用いになっているだけなのだ。実生活においても様々な困難があるが、このいのちはいつも神によって支えられている。というメッセージをここから受けてイスラエルの人々は励まされていったのです。
聖書において、証人と言う言葉と殉教者は同じ言葉です。いつ殉教者になってもいいという覚悟をしなければ礼拝には出られなかったのです。その意味では私たちとは緊張感が違ったでしょう。しかし私たちにもこれからこの世界はどうなっていくのかの不安があります。お金と力が支配しているようなこの世界で和解と赦しの神を、正義の神を信じているのか、その神に日々をゆだねて生きていくのかを黙示録は私たちに問うています。
今はイスラム教やキリスト教が戦争と差別の温床だと言われますが、その中でも私は聖書が示す平和と正義のビジョンに立っているだろうか、この世界に神がおられ、この世界を愛しておられることが見えにくくなっているときに、神がこの世界を支配しておられることを信じているだろうか、神が全能であることを信じているだろうかと問われています。
神さまはイエスキリストを十字架にかけられて、イエスさまはまるで死というブラックホールに吸い込まれたように見えたけれど、誰も出てこられなかったその穴をこじ開けてイエスは出てこられたのです。死の力でさえも神は支配されている、そういう方を本当に信頼しているだろうか。あの時代の人が問われたことが私たちに同じように問われているのです。

「神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。『わたしはアルファであり、オメガである。』
是非、この書を皆さんも通読して見てください。
そして、この書物が力をもっており、今も私たちにいのちを与えてくれるものであることを実感してもらいたいと思っています。
お祈りしましょう。
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2016年
3月27日
   「本当に生かすもの11」
   
ヨハネによる福音書21章1~14節       

『聖書箇所』
21:1 その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。

21:2 シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。

21:3 シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。

21:4 既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。

21:5 イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。

21:6 イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。

21:7 イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。

21:8 ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。

21:9 さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。

21:10 イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。

21:11 シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。

21:12 イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。

21:13 イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。

21:14 イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。
メッセージの勘所

誰かと食事をする。それは現代でも大きな意味を持っています。イエスさまにまつわる記事の中にも食事の場面が数多く出てきます。イエスさまは特に罪人や、病人や、汚れているとして見捨てられていた人々と食事をなさいました。それはイエスさまが来られた意味そのものを指し示していました。そして弟子たちも同じことを体験するのです。彼らは皆、イエスを捨てて逃げ去ったのです。彼らにはそれを受ける資格はありませんでした。しかし、神の恵みは無料で、付帯条件も一切なしで、しかも全部あちら(神さま)持ちでやってくるのです。
メッセージの要約
イースターもだいぶ市民権を得るようになってきました。
そのイースターの日に私達は礼拝をしてその意味を心にとめたいと思います。
私達はなぜ礼拝をするのでしょう。礼拝は何をするところでしょうか。「礼拝は賛美をして、献金をして聖書を読んで、先生がお話をするところです。」と言えば外見を説明したことにはなるでしょう。では礼拝で何を表現しているでしょうか。礼拝は十字架と復活を思いだすときです。礼拝ごとに古い自分に死に、新しいキリストの命を生きる、そういう自分によみがえるときです。それが礼拝式の本当の意味です。ですから毎回死から生への突破というのが礼拝ごとになされるのです。そういう意味で毎週の礼拝はイースターの礼拝と同じものなのです。
イエスさまが十字架にかかり、よみがえられたのは西暦31年か33年頃のことです。当時の暦で過ぎ越しの祭りの始まる前に十字架にかけられ、三日目の朝によみがえられたのは事実であると私達は信じています。それを礼拝という形で毎回確認していっているのです。
イエスさまは十字架で苦しんで、指一本も動かすことのできない姿で死んでいかれました。そして3年間手塩にかけて育てた弟子たちにも裏切られたのです。十字架にかかる1週間前には「神さま万歳!」と歓迎した群衆にも裏切られたのです。しかしイエスさまは一言も弁明されず十字架刑を受けていかれたのです。
十字架と復活のできごとの意味は全て私達人間のためだったということを聖書は語るわけです。そしてそれはが真実であるということを2000年間教会は存在し続けることによってこの世に証し続けているのです。2000年間はとても大きな重みがあると思います。
人間は確かに愚かで未熟なところがありますが、それでも2000年間騙され続けるというのは、人間をあまりにも過小評価した見方だと思います。このことが弟子たちの謀で、嘘だったとしても、ほんとに作り話だったら2000年間は続くはずがありません。そのことに意味があるから教会は立てられ、今日も私達はここに集って礼拝をするのです。

イエスさまはここで3度目の出現をなさったと書かれています。
弟子たちも最初は怖れ、みんなで一つの家に閉じこもって何度も鍵のチェックをしただろうと思います。次に殺されるのは自分たちではないかという怖れがあったし、自分たちはイエスを最終的に裏切ったということもあって恐かったかもしれません。
しかし、イエスは部屋のまん中に入ってきて「安かれ」―怖れるな、心配するなと言われました。
イエスが何回か弟子達で出会ってくださったことによって、弟子たちは少しずつイエスさまが復活なさったことを受け入れていけるようになったのです。弟子たちはイエスさまに出会ってから一回で立ち直って宣教をしていったのではなく、最初はやっぱり半信半疑だったのです。
この時の出会いは三度目の出会いでした。生前、ティベリアス湖(ガリラヤ湖)の湖畔でイエスさまは多くの弟子を集められました。そしてこの湖で生計を立てていた弟子が少なくとも4人いました。ペトロ、ヤコブ、ヨハネ・アンデレですが皆元漁師だったのです。
イエスさまが亡くなったあと、しばらくの間食べていくためとこれからのことを決めるまでの間、とりあえず元の職業に戻っていたのでしょう。
彼からは漁というものを熟知していましたが、けれどもその日は全く魚が取れませんでした。
何とか立ち直ろうとしているさなかに、漁にまで見放されるなんてと手から力が抜けていくような思いになっていたでしょう。疲れもピークに達していたでしょうから、何かのきっかけであらぬ方向へ爆発したかもしれません。
ティベリアス湖では漁は夜にされていました。失意と疲れをまとって帰ってきたら、岸に誰か立っている。最初は彼らにはイエスだとはわかりませんでした。
「食べ物はあるか」とイエスに聞かれ、「ありません」と答える彼ら…。するとその人は「右側に網を打ってみよ」と言い、はたして彼らがそのとおり網を打ってみると、魚が多くて網を引き揚げることができないほどになった。そこで、ある弟子が「主だ!」と言い、それを聞いたペトロは服をきて湖に飛び込んでしまったというのです。普通は水に飛び込むときには服を脱ぎますが、いかにペトロがあわてていたかがわかります。彼らが岸に戻ってきてみるとそこには既に炭火がおこしてあり魚ものせてあった。またパンもあった。さらにイエスは「今とった魚を何匹か持ってきなさい」と言われます。153匹と魚の数が正確に書かかれていて、いかにこの出来事が弟子たちの記憶に鮮明に残ったかがわかります。
イエスさまは生前なさったと同じように弟子たちと食事の時を持たれました。普通は食事の用意は弟子たちの仕事ですが。イエスさまはいつも弟子たちによきものを与えられます。不安を覚え、思い惑っている弟子たちに御自分にできる奉仕をなさるわけです。
体を温める火と食事を用意されました。この物語は神の恵みの奥深さと豊かさを思い知ることのできる物語です。一方弟子たちは自分たちが裏切り見捨てたイエスさまに対して何もできないのです。何もできないことに情けなくなることが皆さんにもありませんか。私は牧師になってから相談にきた人に何もできない経験を何度もしました。しかし自分には何かができる、価値があって意味があると思いこんでいる傲慢な自分をそのときに思い知らされるのです。
弟子たちはこのとき何もできなかった。魚が捕れたのも、食事ができたのもイエスさまが全部備えてくださったのです。
人生の中で皆さんにも誰かが備えてくださったことによって生きてこられたと思い出す出来事があるでしょう。
イエスさまが最高の奉仕をされたのはどこだったのでしょうか。イエスが語られたこと、またイエスがなさった奇蹟や業を思われる方もあるでしょう。しかしイエスさまがこの地上でなさった最大の業は十字架にかかられることでした。しかし十字架にかかることは何かすることとは違います。人に強いられて、自分ではあらがうこともできずそこにつくということです。自分では手の指一本、足の指一本動かすことができずに死なれたのです。そういう形でイエスさまは私達に対して最上の奉仕をなさったのです。
それは何を意味しているでしょうか。
私達はいつも自分に何ができるかを問題にします、また何を持っているかにこだわります。自分が生きている充実感も、生きている意味も自分が健康で何かできる時にだけ感じるものだと思っているかもしれませんが、聖書はそうじゃないというのです。イエスさまが何もできない形で最高の奉仕をなさったように、自分が何もできないなと思うときこそイエスさまの十字架とつながるときであって、そこで静かに十字架のことを思い、自分自身の思いができるかできないかや、もっているかいないかにだけとらわれていないかを見直す時なのです。
私がメッセージを語れるのも、私が皆さんに奉仕しているのではなくて、私がこれをするチャンスを神から奉仕されているというだけに過ぎないのです。
神の恵みが私をここに立たせ、神の恵みが皆さんをここに連れてきているのです。目には見えませんが。私達のする一つ一つに神の恵みが先行しているのだということをこの物語は教えてくれているように思います。
私達の実りの豊かさは外面的な効果ではなくて、十字架の主にどれだけつながっているかのつながりの深さなのだということをもう一度思いだしたいのです。
私達は自分が元気で何かできているときにはイエスさまの十字架のことを思いださないでしょう。自分は何ができている、自分はこれを持っている、そのような外面的なことばかりを見てしまうのです。しかしイエス様は十字架にかかられる前に腰布までうばわれました。何も持っておられなかった。しかし何も持っておられなくても最上の業をされました。私達もこれからやがて歳を老いていくし、病を得る。手放していかなければならないものが沢山あります。しかしそれにしがみつかないで手放していける、それはイエス様の十字架に目を注いで、私達がそれを手放す力を与えられ時ではないかと思うのです。

4月から新しい年度が始まります。どこに目をとめて生きられますか?
私は最近手が痛くて整形外科に行きました。自分に痛みを得て思いました。牧師になったのも努力の結果ではないし、牧師になるという呼びかけも上から聞いたものだし、それに従っていこうという気になったのも神さまの力だし、今まで牧師をし続けさせていただけているのも神さまの力、それ以外のものはないのだなと思い知りました。

自分の人生が意味を持つという決定点も全く上から来た恵なのだ!弟子達は本当に何もできなかったのです。しかし神は弟子達の罪深さや惨めさなどは問題なさらず、暖かい食事が必要ならそれを用意なさる、弟子達はそれを受けるだけだったのです。その後の人生もおそらく弟子達はこの出来事を繰り返し思いだしたことでしょう。自分たちが無力だったときイエスが自分の思いをはるかに超えて配慮し仕えてくださったことを。
これから生きていくときに問題とすることは自分に何ができるかではなくて、イエスさまと同じように無心になって人のために働いていけるかを目の前に置いて生きていっただろうと思います。

今日は午後から納骨式が行われますが、皆さんは自分が死に臨んだときにどうしたら安らかに目が閉じられるとお考えでしょうか。
アジア開発銀行のお偉いさんがこのようなことを言っておられました。
自分は大学をでるときに何になるかを考えたのだけど、自分の人生の幸福や目的が何かがわかっていればそれにふさわしい職業を選んだのじゃないかと思うが、それがわからなかったので、それならばまずい食事よりは美味しい食事を食べられる方がいい、粗末な家に住むよりもいい家にすむほうがいいと思って大蔵省に入った。それから30年たってアジア開発銀行に出向した。あちこちであなたの国はこういうふうにやれば幸福になれると言って色々なアジア諸国を回っているけれど、自分自身が幸福とは何かがわかっているのかと聞かれるとわかっていない。30年前とあまりかわっていないのだ。死ぬ時がきたら仕事のほうはいかさまだったと思うだろう。なぜなら内側に確信をもってやっていないからだ。しかし一つだけ目を安らかに閉じられることがある。それは一人の子どものために大変苦労をした、それだけは純粋だった。こっちでは安らかに目を閉じられると思うと言われていました。死ぬときに自分が生きている間にした無私の記憶だけが安らかに目を閉じさせるものではないかということでした。

その後、弟子達は自分の罪深さに目をとめてウロウロするのではなく、このままの私を愛して待っておられるイエスさまにのみしがみついていきました。あるものはやはり十字架刑で死んだ者もいました。それも恵のときだとして人生の終わりをやり過ごしていったのではないかと思います。死ぬということは決して消えるということではありません。生ける神のもとに戻ってそこで生きるということであります。だから生と死の境は分ったけれども共に神の命を分け合っているのと同じなのです。そういう意味で共に神の命を分けあっているものとして共に助け合うことができるのです。先に天国に行かれた方もここにおられると信じることができるのです。このイースターにそのことをもう一度刻んでいきましょう。
お祈りしましょう。

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2016年
3月13日
   「本当に生かすもの9」
   
ヨハネによる福音書18章15節~27節       

『聖書箇所』
18:15 シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入ったが、

18:16 ペトロは門の外に立っていた。大祭司の知り合いである、そのもう一人の弟子は、出て来て門番の女に話し、ペトロを中に入れた。

18:17 門番の女中はペトロに言った。「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。」ペトロは、「違う」と言った。

18:18 僕や下役たちは、寒かったので炭火をおこし、そこに立って火にあたっていた。ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた。

◆大祭司、イエスを尋問する

18:19 大祭司はイエスに弟子のことや教えについて尋ねた。

18:20 イエスは答えられた。「わたしは、世に向かって公然と話した。わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。

18:21 なぜ、わたしを尋問するのか。わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々がわたしの話したことを知っている。」

18:22 イエスがこう言われると、そばにいた下役の一人が、「大祭司に向かって、そんな返事のしかたがあるか」と言って、イエスを平手で打った。

18:23 イエスは答えられた。「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか。」

18:24 アンナスは、イエスを縛ったまま、大祭司カイアファのもとに送った。

◆ペトロ、重ねてイエスを知らないと言う

18:25 シモン・ペトロは立って火にあたっていた。人々が、「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と言うと、ペトロは打ち消して、「違う」と言った。

18:26 大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が言った。「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか。」

18:27 ペトロは、再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた。
メッセージの勘所

『もう死にたい』と誰かに言われたことがありますか。でも牧師を続けているうちに「死にたい」と言っている人は、実は「もっと生きたい、生きていたい」と言っているのだということに気づきました。ペテロが聞いた『あなたもあの人の弟子ではないのか』と言う言葉も、『あの人を愛しているんだろう』という問いだったのだと思います。この時のペテロはそうとは気づかずに間違った答えを出してしまいました。私たちも生きている間中、様々な問いの前に置かれます。ひょっとしたらその間の背後に『あなたは本当にどんな時も私を愛してくれるのか』と言うチャレンジが秘められているのではないかと思えるのです。
メッセージの要約

今日の箇所で主人公になっているペテロ、彼は教会の鍵を授けられた人で有名です。ですからローマ教皇はペテロの何代目かに当たるわけです。
ペテロは気の強い人のようですが、漁師でしたから学歴があったわけではありません。彼は肉体労働をし、きつい仕事をしていたと思われます。
そのペテロとイエスさまとの出会いは、ペトロが漁に行って帰ってきたときでした。何の収穫もなくくたくたになっていたペテロに「これからあなたを人間を取る漁師にしよう」と声をかけられたのです。ペテロはその言葉に「はい」と言って従いました。
イエスの12弟子といっても、その一人ひとりに均等に光があてられているわけではありません。ペテロについてはいくつもエピソードが記されていますが、名前だけでただ12人のうちの一人というものもいます。ペテロはイエスさまがいよいよ苦難の道を歩き始めようとされたとき、「そんなことがあってはなりません」と言い、イエスさまから「サタンよ引き下がれ、あなたは神のことを思わないで人のことを思っている」と厳しい叱責を受けた記事も聖書に載っています。

今日の箇所は過ぎ越しの祭りの前の晩、最後の晩餐、弟子たちへの洗足、最後のメッセージを語られたあとに、イエスを逮捕するために大勢の人がやってきた場面です。
10節には「シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした。」と書かれています。愛することを伝えられたイエスさまなのに、その弟子が剣で人の耳を切り落とすとはなんということですかと言われそうです。
イエスを守るためにとっさにやったことでしょう。一舜敵も味方もその場に氷ついたようになっでしょう。イエスはそこで「剣をさやに収めなさい。父がお与えになった杯は飲むべきではないか。」と言われました。そしてイエスは一人逮捕され、弟子たちだけが後に残されたのです。

イエスはまずアンナスのところに連れていかれます。大祭司カイアファの舅でした。
逮捕にきた人達は弟子たちについては逮捕せず放っておいたようです。
そこでペトロともう一人の弟子はイエスさまが引かれていった大祭司の屋敷の庭に入っていきます。
門番の女中は「あなたも、あの人の弟子ではありませんか。」と言います。それに対してペトロは「違う」と言います。このペトロの否認は既にイエスさまによって預言されていました。ヨハネによる福音書13章36節~「シモン・ペトロがイエスに言った。『主よ、どこへ行かれるのですか。』イエスが答えられた。『わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。』ペトロは言った。『主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。』イエスは答えられた。『わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。』
ある人は、ペトロはイエスの捕らえられた場面ではたとえ自分も死ぬことになってもと思って剣を抜いて働こうとしたけれど、この場面ではイエスを知らないという、この落差は何なのだろうと思われるかもしれません。肝心なときにこんなことを言って何という醜い裏切り者だし、とんでもない偽善者だと言われてもペトロは一言も反論できなかっただろうと思います。
しかしこの記事を読んでペトロに同情を禁じ得ない私がいることを告白しなければなりません。自分も同じだなと思うのです。ペトロの中に自分が持っているのと同じ弱さ、醜さを感じるわけです。口では神さまのために一生懸命やりたいと願い、そう祈りもしながら肝心なときにはこうしたいと言えないわたしがいます。
よく教会生活でつまずいて失敗した人に、ペトロだって同じじゃないですかと慰めに使うことがありますが、しかし、この記事を自分の失敗や卑怯さの言い訳に使ったり、自分を慰める材料として受け取っていいでしょうか?
この記事は4つの福音書の全部にでてきます。
この受難節のときに2000年間、必ずと言っていいほど読まれてきた箇所です。一人の失敗の出来事が繰り返し読まれ続けてきたのです。私がペトロだったらもういい加減勘弁してくれよと言いたくなるとおもいます。できれば抹消したいところだったでしょう。しかしなぜ教会はこのことを繰り返し語り続けるのでしょう。それはもし私たちが忘れ去ってしまうとしたら私たちはまた同じことを繰り返してしまうからです。

バイツゼッカーというドイツの大統領がこのようなことを言いました。「過去を忘却するものは未来を失う」と。私たちの人生にも後悔や消してしまいたいものが一杯あるのではないでしょうか。過去を思いだすのは辛いことがあるでしょう。でも私たちはそういう失敗があってこその私たちです。そういう失敗があったからこそ今まで生き抜いてこられたこともあるのではないでしょうか。むしろあの失敗がなかったら今の自分はないというのが人間ではないかと思います。

イエスのために命も捧げてもいいといいながら、また戦闘に立って戦おうとしたペトロがイエスのこと三度も知らないという、私たちもあるときにはかっこよくやったのに、そのあと後退を繰り返すこともありますよね。イエスさまは私たちの中にそのような信仰の弱さがあるのを承知で歩んでいかれたのです。ペトロの物語を読み返すとあまり自分の弱さを気にする必要はないのではないかと思うのです。私たちの弱さは神さまにははじめから織り込み済みなのではないかとそうおもえるのです。

初志貫徹とか、信仰を貫かなくてはいけないとか私たちは思うかもしれませんが、実際の自分の生活を見るとそれで本当に信仰者?と問われるようなことを人生の中で繰り返しているのではないでしょうか。神さまはそのような私たちの初志貫徹や、信仰を貫くことなどはおそらく当てにされてないのではないかと思うのです。
大事なことは私たちの焦点がいつもどこに向いているかです。自分の弱さや貧しさに向いてしまい自分は駄目なのだと思うか、所詮自分は自我や欲望に振り回される者であることを認め、主がそういう私たちをそのまま引き受けてくださっているという主の救いに目を向けるかなのです。イエスさまはそういう私たちと共に歩んでくださるのです。
ヨハネによる福音書で私が顕著だと思うことは、イエスさまが最初からご自分の死を目の前に置いて歩んでおられたということです。3章の14節には「そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。」と言われましたが、これは自分は十字架で死ぬことを預言しているような言葉です。また12章32節には「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」とあるように「上げられる」とは十字架の死を意味しました。

イエス様がご自分の死を目の前に置かれたのには理由があります。
5章18節には、「このために、ユダヤ人たちはますますイエスを殺そうとねらうようになった。」とありますが、これはイエスさまがベトサイダの池で病人を癒されたあとのユダヤ人の様子です。また11章53節には「この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。」とありますが、これはイエスがラザロを生き返らせたあとのユダヤ人の在り様を表しています。人々の殺意を感じながら歩まれたのです。イエスさまは人々の醜さ、弱さ、恐ろしさ、どす黒さなどの中でも粛々とご自身の歩みを進められていかれたのです。それを振り払うでもなく、正そうとしたり、怒りを表そうとしたりしたのでもなく、人の醜さと、暗闇の真っただ中を歩まれたのです。

ですからこのペトロの裏切り、その豹変ぶりもイエスの歩みをとどめるものではなかったのでした。そのペトロについてもイエスはのちにペトロがどういう者になるかを預言されています。そして立ち直ったら人々を励ましてあげなさいと言われています。
過去の過ちもイエスさまに関わっていただくときに、もう一度自分自身の歩みを正し、人との関係を見直すことができ、色々な意味で私たちの人生をよりよくしていくための宝物になっていくのです。

惨めさにだけ目をとめないでください。イエスさまはすべてご存じです。その上で私たちの友となって御自分の命を捧げてくださったのです。
わたしたちはイエスに向けて目を上げていかなくてはなりません。失敗を誰かが責めてきても、それも引き受けて、イエスは決してわたしを見放なさないと自信を持って歩んでいっていいのです。
ペトロものちにそれらのことがわかるのです。
私たちにもそのように道をしめしてくれる兄弟姉妹がここにいます。その友との関わりの中から自分自身の歩みをイエスさまの方向へ絶えず向け続けていきましょう。
お祈りします。


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2016年
2月28日
   「本当に生かすもの7」
   
ヨハネによる福音書15章1節~17節       

『聖書箇所』
15:1 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。

15:2 わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。

15:3 わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。

15:4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。

15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。

15:6 わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。

15:7 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。

15:8 あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。

15:9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。

15:10 わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。

15:11 これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。

15:12 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。

15:13 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。

15:14 わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。

15:15 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。

15:16 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。

15:17 互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」
メッセージの勘所

私たちはイエスさまにつながっているという意識をどれくらい感じているでしょうか。イエスさまにつながっているのですから、私たちはどんな時も一人ではありません。でも、そのつながりは私たちがそれぞれの現実の世界の生活の中で忍耐強く繰り返し確認していくという作業を必要とします。それが、礼拝であり、祈りであります。伝道も、私たちがまず本当に心から神の御前に出て礼拝しているそのことが、実は本当の伝道なのです。日々イエスさまがくださるものによって生かされているということが、実は本当の伝道なのです。日々イエスさまがくださるものによって生かされているということが喜びとなるように、それぞれの礼拝、そして祈りを整えていきましょう。
メッセージの要約

昨日出崎姉妹が87歳の生涯を終えて召天されました。
常日頃支えてくれた長女の到着を待って静かに眠るように召天されたそうです。
私が出崎さんと初めてお会いしたのは13年ほど前です。
その時出崎姉妹は開口一番「私は11の病気を持っています。ですからいつ死んでもおかしくない身なのです。」と言われました。初対面で自分の死の話をされた方に初めて出会って、それで今でもよく覚えているのです。
出崎姉妹はその時から召天された昨日の2016年2月27日を目指して歩んでおられたと思います。
11の病気のどれもが、もしその一つだけを患ったとしても、生きていくのがつらくなるような重い病気をお持ちでしたが、あれから13年、主が生かしてくださったとしか言いようがありません。「お医者さまにも『どうして生きていられるのか分かりません』と驚かれるんです」と笑いながら話しておられた姿が目に焼き付いています。
また「長い間医学にお世話になりましたから、死んだら検体をして、医学に恩返しをさせてもらいます」と言われていましたので、今日はお別れの時のみを持つことになります。
私は出崎さんにお会いするときに、彼女から愚痴や、人の批判、人生の呪いとか聞いたことがありませんでした。
「私は毎日ただただ感謝して生きています」とおっしっていました。
「先生、一緒に入院している人達がよく言うんです。『家族がきてくれない』とか、『看護師さんがああしてくれないとか』愚痴ばっかりなのです。「愚痴ばっかり言っても人生少しも楽しくなりませんよね。それも人生と思って生きていかなければ楽しくないと思うのですけど」と言われていました。今思うと、僕に言われていたのではないかと思います。
そして続けてこうもおっしゃっていました「物事はなるようにしかなりません」と。それは単なるあきらめとか悲観論ではなく、やってくる出来事を全身で受け止めようとする出崎さんの生き方そのものをあらわしています。
出崎さんの人生は病気以外にも戦いの連続でした。しかしそんな中をひょうひょうと生きてこられました。それはヨハネ14章1節にある「心を騒がせるな。神を信じなさい。」というみ言葉に尽きる信仰だったのではないかと思います。「そして、私をも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したなら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」と書かれていますが、出崎さんはこの言葉の通り、イエスさまが用意なさった御国で今、すべての重荷から解き放たれて自由を得られたのです。自身の病だけでなく、離婚され女手一つでお子さん方を育てなければならなかった苦労。息子さんや娘さんたちに降りかかった病、どれ一つとっても押しつぶされておかしくないものばかりです。そんな中でも出崎さんにあのような人生を歩ましめたものは何だったのでしょうか。それは彼女がイエスさまにつながり、イエスさまも彼女につながっていてくださった、そして主に信頼して生きたことに尽きるのではないかと思います。

さて今日の聖書箇所で、ぜひ覚えて帰っていただきたいみ言葉は15章16節です。
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」
私たちはイエスさまに選ばれているものです。その理由はなんでしょう。イエスさまにしかわかりませんね。でも私に何か特別なものがあったからでないことはたしかです。
でも私たちは選ばれたのです。
私が牧師になったのは1988年ですが、その年に婚約をしました。その婚約式に私の母教会の牧師も来られるので、合わせて特別伝道集会も組まれていたのです。私は何もせずただ座っていればよいはずだったのですが、その牧師が緊急入院されて予定がキャンセルになったのです。私はいきなり2回の特別伝道集会のメッセージをすることになりました。
急過ぎて頭が真っ白になりました。なんとかこなしたものの、その時の婚約式で急きょ司式を引き受けてくださった近隣教会の牧師がくださったみ言葉がこの言葉でした。「あなたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」突然のことで、それに対応するのに必死だった私に、「大丈夫。どんなことがあっても大丈夫。イエスさまが一緒」そう言われた気がしました。
人は一生のうちに色々な出来事に遭遇し、中には厳しい試練に直面することも度々です。
でもその試練の大きさや重さが問題ではなく、私たちがどんな状況の中にあっても出口が与えられた者として生かされているということを弁えておくことが大切です。なぜなら神が私たちを選んでくださっているからです。神は私たちに愛を注いでくださり、私たちの周りに色んな人を遣わしてくださって私たちが決して倒れないように守られているのです。だからつくづくキリスト者の人生っていいものだなと思うのです。
しかし、主を信じているからといって誰もが出崎さんのように大往生ができるわけではありません。それは出崎さんが日々そのように歩まれたからできたのです。
日々喜んで感謝をして、どんな中にも主の平安を頂いていかれたからです。
なかなかそういうことはできないかもしれません。今の自分には到底できないと思われるかもしれません。
でも、今ここから、私たちはそのような生き方を選ぶことはできるのです。
イエスさまはそのために私たちに一切の配慮をしてくださっています。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(15:13)の「友」とは私たちのことです。イエスさまは自らのこの言葉通り私たちのために命を捧げられました。
私たちが人生において愛を全うできるように愛にあふれた喜びの人生を全うできるようにです。
その上さらにイエスさまは私たちのために場所まで用意して待っておられるのです。こんな行き届いた配慮があるでしょうか。
だから私たちはイエスさまにつながっている。そのつながりをいつも礼拝をもって、祈りをもって、日々の生活の中で確認をしていくことが大切です。そのことをもう一度しっかりと心にとめて、この一週間を歩んでいきましょう。
お祈りをします。

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2016年
2月21日
   「本当に生かすもの6」
   
ヨハネによる福音書13章1節~17節       

『聖書箇所』
13:1 さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。

13:2 夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。

13:3 イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、

13:4 食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。

13:5 それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。

13:6 シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。

13:7 イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。

13:8 ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。

13:9 そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」

13:10 イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」

13:11 イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。

13:12 さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。

13:13 あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。

13:14 ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。

13:15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。

13:16 はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。

13:17 このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。
メッセージの勘所

神の子キリストが人の足を洗う。神さまは私達を救うために何でもする用意があられるのだなと感動を覚えます。私たちの警戒心を解くために赤子の姿になられました。人と人との対立と敵意のただなかで渇きを覚えられ、人々のために涙を流されました。そしてご自身を人の手に渡され、血を流し、命までささげられるのです。この人が今も生きて私たちと共におられるからこそ、私たちはどんなことにも耐えられますし、低くなり人に仕えることに挑戦し続けることが出来るのではないでしょうか。
メッセージの要約

今受難節に入っています。今日は受難節第2主日です。
始まりは10日の水曜日、灰の水曜日といいます。それはイエス様が十字架への道を始められる日、信仰を持つ者がそのことを覚えつつ、その時代に焦点を合わせて思いをはせ一日一日を歩んでいこうという日として勧められています。
イエス様の身の上には段々と死の影が色濃く表れてきます。
そしてイエスの愛があるところには悪魔の業があることも知らされます。

13章1節
「さて、過ぎ越し祭の前のことである。イエスはこの世から父のもとへ移る自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」
いよいよその出来事が起ころうとしていました。そのできごとによって人類は大きな転換点を迎えようとしていました。

そのこととはイエスの死が来ることを意味していましたが、イエスの死は決して安らかなものではありませんでした。
そこには裏切りがあり、叫びがあり、苦しみと痛みを通ることによってそれは成されていくのです。
先々週、ラザロがよみがえらされた話ができてきましたが、永遠の命とはどういうものか?よみがえりの命とは?を説明するのは難しいものです。そのとき私は命というのは死を経てこそ命なのだと申しました。人が生きるということは、その人がどれだけ自分に死んだかではかられるのだと。
ヨハネによる福音書では、イエス様は「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛しぬかれた」と2回も「愛して」という言葉がでてきます。その出来事は十字架にかかって自分の命を献げられることに集約されるのです。十字架にかかって死ぬということは人々から罪人として断罪され、神に呪われたものと見なされるということです。人々にさげすまれ、忌み嫌われるものとして十字架にかかっていかれるのです。聖書はそこにこそ神の愛があらわれている。それがイエスさまの愛し方、愛し抜かれたできごとなのだと言うのです。
イエスはそのようなところを通って復活へといかれるのです。

「夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。」
尊い愛の業の傍らに悪魔の働きもあるわけです。
イエス様の十字架の業は素晴らしい信仰をもった人たちの間で起こったのではなく、悪魔が活発に活動しているようなこの世の暗闇や悲惨のただなかで起こったできごとなのです。
聖書を初めて読んだとき、イエスはどうして悪魔に働きを許されるのだろうと思ったことを覚えています。神様は悪魔をやっつけるという直接的は行動ではなくて、人々がイエス様の信仰を通して悪魔の反撃を退けていくことを望まれたのです。
それほどに神は私たちを信頼されているということです。私たちが与えられている自由をそのように用いると信じておられるのです。

イエス様は食事の席から立ちあがって足を洗われました。普通は食事の前に足を洗うものですが、食事は既に始まっていたのに席をたって、手ぬぐいを腰に巻き、弟子たちの足を洗い始められました。
当時足を洗うということは異邦人の奴隷がすることでした。ユダヤ人で生活に行き詰ったがゆえに奴隷になった人であつても決してしない行為でした。ゆえにユダヤ人同士では起こりえない出来事だったのです。それをイエスさまがなさったのです。
シモン・ペテロの番になった時、彼はこう言いました。「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか。」
イエスはこう答えられました。「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、わかるようになる。」「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる。」そこでペトロは言いました。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」最初は謙遜だったペトロが、ある時を境に高慢な姿をさらけだすのです。人間とは本当に弱いものだと思います。
主はそれに対して、「既に体を洗った者は全身清いのだから、足だけ洗えばよい。」この意味は、弟子たちは既にイエスさまに愛しぬかれている。それはすなわち彼らは清められたことなのだからもう足だけ洗えば十分なのだとおっしゃったのです。
「あなたがたは清いのだが、皆が清いのではない。」それは、イエスは全ての人を愛されたけれど、すべての人がイエスの愛を受け入れるわけはないとの意味。イエスさまはあるときこう言われました。「人の犯す全ての罪は赦される。しかし聖霊を汚すことは決して赦されない。」どんな罪をも赦されるが、どんな罪をも赦されることを信じないものだけは決して赦されることはないということです。それによってその人は自ら罪の深みに嵌って行ってしまうのです。どんなものも赦されている。そのことを信じることをイエスさまは求めておられます。

色んな方と話していると自分が赦されていることを信じることは簡単なことではないことを思います。クリスチャンのなかにも「あなたは神さまに愛されていますよ」と聞かされたとき、「先生、私は神さまの愛など受けていません」と否定される方を沢山見てきました。自分は神さまに愛される資格なんかないとおっしゃるのです。でもそれは今日だけのことではありません。
「イエスさまは世にいる弟子たちを愛して、このうえなく愛しぬかれた。」弟子という言葉から受ける印象はイエスを主として歩むものと受け取られがちですが、弟子たちでさえも終始一貫イエスを信じ抜いて生涯を終えたのではなかったことがすぐわかります。
ユダがそうです。
ペテロもこの後イエスさまのことを3度も知らないと言い、イエスが十字架につけられたあとは皆逃げ去ってしまうのです。しかしイエスの愛は弟子たちの情けない裏切り、不信仰にかかわらず、すべてのものに及んでいくのです。
イエスさまがユダの足を現れるときどんな思いだったろうかと思います。私はイエスさまはユダの足こそ最も丁寧に洗われたのではないかなと思います。愚かな子ほどかわいいということが本当なら、いや、神さまにとっては愚かな子などいないのです。私たちはみんな神さまに命を賜った神さまに愛されている子どもなのです。
神さまは逆らった者を捨てるのではなく、追い求められる方です。100匹の羊の話もそうです。99匹を置いて一匹を探しまわるイエス様。その一人が探し出されたときに、天では天使たちの宴会が繰り広げられると書かれています。そのように私たちは愛しぬかれているのです。
神さまは私たちにその愛を受け入れるかどうか選択する自由まで与えられています。
だから時々私にはそんなものいりませんと神さまにいけずをしたりしますし、神に愛されたくもないとうそぶくことさえいたします。そこまで言うにはその人なりに苦しまれておられるのだろうと思います。私にはその人を説得する力はありません。神さまがその人に関わってくださるように祈っていくしかないのです。神の時が必要なのです。
また、聖書を見ていると人は一瞬にして変わるところを見せられます。パウロ、ペテロ、弟子たちしかりです。後で聖書を描いた人達は紙面の関係もあってそのように描きますが、現実の世界ではそれは長い時間をかけてゆっくりと進んでいくものです。復活の命に触れ、イエスの命に触れる、そして信仰を持つようになったとしても一気に人が変わったようになることはありえないのです。何度も何度もイエスさまを裏切り、背き、もう一度引き戻されて川を少しずつ渡っていくように段々と神のもとへ近づいていくものです。

十字架にかかりよみがえっていかれるできごとは私たちの為でありました。イエスさまは過ぎ越し、すなわち死を通りこして神のもとへ過ぎ越していかれた。それは一人ではなく、私たち全員の手を引いていかれたのです。人間が超えることのできない死という壁を通りこしていかれたのです。
その前味を私たちは今味わっているのです。私たちは無目的にこの地上にいるわけではないのです。愛し抜かれたその力をイエスさまは今も私たちに送っておられるのです。
自分の力でなく、イエスさまのくださる力で互いに愛し合いなさい、足を洗い合いなさいと勧めておられるのです。
私たちは自分の足をイエスさまに洗って頂いたのです。今度は私たちが人の足を洗わなければなりません。人は一人では生きられないし、人生の喜びも感じることはできないのです。私の力を誰かのために使うときほんとうの幸せとは何かを知っていくからです。
イエスさまはその道を全うしていかれました。
イエスさまは今日私の、そして皆さんお一人お一人の足を洗われたのです。そのことを心にとめて、人々に仕えることを全うしていきましょう。
お祈りします。

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2016年
1月31日
   「本当に生かすもの」
   
ヨハネによる福音書9章35節~10章6節       

『聖書箇所』
9:35 イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。

9:36 彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」

9:37 イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」

9:38 彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、

9:39 イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」

9:40 イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。

9:41 イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」


[ 10 ]

◆「羊の囲い」のたとえ

10:1 「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。

10:2 門から入る者が羊飼いである。

10:3 門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。

10:4 自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。

10:5 しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」

10:6 イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。
メッセージの勘所

生まれつき目の見えない人が物乞いをしている前を通られたとき、弟子たちはその人がそのような境遇になった原因を尋ねました。それに対してイエスは『神の業が現れるためだ』とお答えになり、その人の目をいやされました。そのあとに起こった出来事は、目が見えるとはどういうことなのかということを考えさせられものです。学者や立派な信仰者と呼ばれている人々が原因をみつけようと大騒ぎをしたのです。彼は「行って、洗え」と自分に言われた方の声に聞き従っただけでした。理屈抜きでその声の主に聞き従う、命の道はそこにこそあるのです。
メッセージの要約

罪とは何ですか?人間ってほんとに救われないといけないのですか?なんで日曜日に教会に行くのですか?あたなはほんとうに神様を信じているのですか?など皆さんも色々な質問を受けられたことがあると思います。

わたしは救いの業が私にも及んでいることを知らされて、それを受け入れて、自分がいかに愚かであるかを知らされてよかったなと思うことがあります。
東北大震災があってもうすぐ5年になろうとしていますが、人の生きていることがどれほど尊いか、それが恵であることを皆さん考えたと思います。しかしそれから月日が経ち、また命がないがしろにされ、自分たちの計画だけを優先していくことが繰り返されようとしている気がします。
なぜ救いは必要か、それは私たちが簡単に自分の愚かさから目を背け、感謝を忘れていく存在だからです。

去年のクリスマスイブの日、市内の中学校の女の子が自殺しました。この日は終業式であり、これから待ちに待った休みが始まるというときだったのです。しかし、彼女には心の休まる日の来ることなど考えられなかったのでしょう。
成績もよく、両親から大きな期待をかけられていて・・・と、そこだけ見ればどこにでもある風景です。自殺した彼女のセーラー服のポケットの中には有名高校の受験票が入っていて、彼女がそこまで追い詰められていたということがあとになってわかったわけです。自分の近くにいるまだ15年ほどしか生きていない女の子がそんなに痛んでいたことをなぜ気付いてやれなかったのか、いかに見えていなかったのか、皆さんそんな事件が起こったときに他人ごとではないと思われることでしょう。自分たちの目は開いているようで実は何も見えていないこと、そのことが今日のテーマである救いと関係していることを今日は覚えて帰っていただきたいと思います。

今日の箇所では生まれつき目が見えなかった人が出てきます。弟子たちは尋ねます。「この人が生まれつき目が見えないのは誰が罪を犯したからですか、本人ですか、それとも両親ですか。」
イエスは答えられました。「本人が罪を犯したからでも両親が犯したからでもありません。神の業がその人に現れるためです。」
「神の業がその人に現れる」とはどういうことでしょう。
イエスはこの人にそういわれると泥をその人の目に塗り付けて、池に行って洗ってきなさいと言われます。その人はそれを実行に移したら見えるようになりました。
ついさっきまで目の見えなかった人が、見えるようになっているのを見て、人々は「お前、なんで目が見えるようになったんだ」と、まるでその人がいけないことでもしたかのように責め立てたのでした。
「ある人が泥を目にぬり池に行って洗えてと言われその通りにしたら見えるようになったのです。」と言っても誰も信じてくれなかったのです。
本当なら「おめでとう。よかったね」という言葉があってもよかったはずですが、「いつ、誰が、どうやって?。」そしてそれが安息日だとわかると、ユダヤの律法では安息日(教会では日曜日)には労働をしてはいけないことになっていましたから、これは律法違反だし、行った者もけしからん奴だと断定されたのでした。彼がファリサイ派の人々に「あなたがたも私の目を治した人を信じたいのですか」と聞くと、「おまえは私たちに教えようとするのか」と逆切れされて会堂から追い出されてしまいます。
彼はいやしてくれた方が誰なのかしりませんでした。イエスは彼が会堂から追い出されたことを聞いてその人に出会って、「あなたは人の子を信じるか」と問われます。彼は答えていった。「主よ、その方はどんな人ですが。その方を信じたいのですが。」イエスは言われます。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」その時彼は「信じます、主よ」といってひざまずきました。イエスは言われました。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」と。
イエスさまが何事かをされるとそこには事件が起こります。
私たちは自分では何でもよくわかっている、神さまを必要としないでもたいていのものは理解できる、かつてわたしもそのように思っていたように思います。神様を計算にいれなくてもこの世界は渡っていけるし、十分に生きていけると。でも、そういう考えに基づいてこの日本を見てみてください。果たして日本はこれからどうなっていくのでしょうか。人によってはまた戦争へと、過去の過ちを犯すのではないかと危ぶまれる方も多くおられます。あれだけのことを体験してもそれが本当の知恵となって、皆がそれを踏まえて判断しようというふうにはなっていないように思います。

この目の見えなかった人はイエスに触れられることによって、そこに救いの体験をしたわけです。神さまはこの現実の中に生きて働いておられる、そういう御手の中にとらえられたのです。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。」神の裁きは雷が落ちるとか地割れが起こって不幸なできごとがおこることではありません。自分の目がいかに見えていなかったか、この世のもてはやす知恵がいかに不十分であり私達を真に幸せにするものではないことが明らかにされることなのです。
先ほど、わたしは自分が愚かであることが見透かされて、それを知らされたことに感謝すると言いましたが、今の世でそんなことを言うというと、そんなに自虐的にならなくてもいいのではという反応が返ってきます。しかし、わたしは本当に愚かだと思うのです。何度見えたと思っても次にはいかに自分が見えてなかったということを思い知らされますし、分かっていると思っていたのに、自分が何にも分かっていなかったことを示されて愕然とするのです。私はそのようにして聖書を読んでいく中で、イエスキリストという方を知っていく中で自分がいかに愚かしいかを知らされていくことを感謝だなと思います。そしてそのようなわたしの為にイエスキリストが命を捧げてくださったことに感動さえ覚えます。

私たちは自分は愚かなままでいいと開き直ることもあるかもしれません。愚かでいいというのは罪です。愚かなことを知ってなおそのままでいることも罪です。
そのことを知ったときに私達がどうような態度をとるのか、そのことこそが私達の人生において大きな意味を持つと思うのです。

この目が見えなかった男性はイエスに出会って「ひざまずいた」と書かれています。
身をかがめるということ、低くなるということ、それこそ私たちが救われた印であります。また私たちが救われた内容を示しています。身をかがめることを知っていることだけでも大きな恵です。それは自分が神でないということを告白することになるからです。私たちは救われなければならない、助けられなければならないことを示しているからです。見えなかったのに見えるようになるところに身を置くかどうか、それがこの人がとった「ひざまづく」という行為なのです。
彼は自分を癒した方の前にひざまずきました。誰でも自分の願ったことを叶えてもらえればそうするだろうと言われるでしょうか。自分の願ったことが叶ったとき、それは自分の力がそうしたと高ぶることがないでしょうか。信仰の世界では、色んなことを通して神さまの現れを教会生活を送っていく中で見せられていきます。例えば、ある人が牧師として立てられていくとき、それはその人が牧師になりたいから立っていくのではありません。自分の愚かさをわきまえながらその愚かさを神が用いていかれるから立っていけるし、聞く側も神の言葉として受け取っていけるわけです。

今日は選挙がありますが、教会は神権主義です。しかし教会の運営は民主的にするので、役員を選ぶときに選挙をするのです。誰かを選ぶときも神から聞いて信じて一票を入れて行きます。また選ばれた人もこれは神から言われているのではないかと神に問うていく、私達の信仰に神が答えをしるしてくださると思うからこそ私達はそれを行っていけるのです。なぜなら私達のうちには自分の思い通りにしたいという思いが強くあるからです。

私達がひざまづくときに、立っていたら見えなかったものが見えるようになっていく。私達の人生には色々なハードルがやってきます。しかしその超え方には2通りあります。それを飛び超えるか、あるいは身をかがめてくぐるか、身をかがめて初めて超えられるハードルもあるのです。

結婚式を挙げるときによく私がお話するのは、この地上ではお互いが見つめ合ってる姿をハートマークで表しますが、教会では愛するというのは、二人の人が同じ方向を見ることだと教えます。結婚生活を始めたらトラブルやぶつかり合いが生じてくる。そんな時、自分のものをとりあえず置いて、自分たちの思いを超えて導いておられる存在へ二人が目を向けていくことです。その時に自分の立ち位置や自分がいかに自分の思いだけにとらわれていたかに気づくことができるからです。

ひざまづくことは人生の至るところで、学生でも社会人でも結婚していてもしていなくても、そのことの大切さを知らされていくのではないでしょうか。
この地上でもお互いがひざまづいて物事を新たな目で物事も見つめるなら解決されるだろうなと思うことが沢山あります。しかしお互いが立って自分の主張をぶつけ合うなら何の進展もないわけです。
そんなときこの出来事を心にとめて思い起こしてほしいと思います。
この人はイエスに出会ったときに「信じるか」と言われ、「信じます、主よ」と言っでひざまずいた。一段階段を登ったのではなく、降りたのです。どうかこの信じる世界を是非体験していただきたい。信じる世界から見えてくるものの豊かさを皆さまにも味わってほしいのです。また既に信じている者も、自分が神に対してどんな姿勢で向かい合っているかを、自分の日常の生活の中で問い続けていただきたいと思うのです。
お祈りします。
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2016年
1月17日
   「本当に生かすもの その2」
   
ヨハネによる福音書4章46節~54節       

『聖書箇所』
4:46 イエスは、再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、前にイエスが水をぶどう酒に変えられた所である。さて、カファルナウムに王の役人がいて、その息子が病気であった。

4:47 この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである。

4:48 イエスは役人に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われた。

4:49 役人は、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と言った。

4:50 イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。

4:51 ところが、下って行く途中、僕たちが迎えに来て、その子が生きていることを告げた。

4:52 そこで、息子の病気が良くなった時刻を尋ねると、僕たちは、「きのうの午後一時に熱が下がりました」と言った。

4:53 それは、イエスが「あなたの息子は生きる」と言われたのと同じ時刻であることを、この父親は知った。そして、彼もその家族もこぞって信じた。

4:54 これは、イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた、二回目のしるしである。

メッセージの勘所

先週、イエスさまとの出会いによって変えられた女性について学びました。おそらく彼女は自分を支えるためにいろいろなものをかき集めて自分の渇きを癒そうとしていたのでしょう。しかし、彼女も最後は自分の手の中が空っぽだということを認めざるを得ませんでした。今日の父親もそうなのです。子供に何でもしてやりたいのが親心というものかもしれませんが、実のところ、子供の命ひとつ満足に守れないのが親なのです。でも、私の隣に主が立っておられます。その主にありのままの自分をさしだせるかどうか、そこが運命の分かれ道だと思うのです。
メッセージの要約

今日は阪神・淡路大震災が起こって21年目です。しばらく共にお祈りしましょう。

今日の聖書の箇所はイエス様がガリアに帰ってこられたときのお話しです。
43節から見てみると、「二日後、イエスはそこを出発してガリラヤへ行かれた。イエスは自ら『預言者は自分の故郷では敬われないものだ』とはっきり言われたことがある。ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。彼らも祭りに行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさったことをすべて見ていたからである」とあります。

イエスさまの故郷はナザレという町ですが、それはガリラヤにありました。
イエスさまが言われるように故郷では預言者は敬われないならばガリラヤで歓迎されたというのは先の聖書箇所と矛盾することになりますが、ガリラヤの人達の中には実際にイエスさまから病気を癒していただいた人もいましたし、その現場を自分の目で見て知っているものもいたのです。だからイエスさまを歓迎しました。そしてイエスについて行く人達も沢山でてきましたが、その人達の信仰はイエスさまが言われるところの信仰とは違っていたと、この箇所は言っているようです。

かつて国が北と南に分かれたとき、南の人達は北の人達を低く見ていました。ガリラヤ人というのはエルサレムのあるユダヤ地方から見れば田舎者だったのです。
イエスさまがこられて、ユダヤの人々は、ガリラヤ人も、サマリや人も皆、これこそが信仰だと思っていたものを問い直される経験をします。
イエスさまはガリラヤに戻られたとき、皆から歓迎されて有頂天になるのではなく、自分を歓迎している人々の信仰はほんとうではないということを見ぬいておられたのです。

この王の役員も例外ではありませんでした。
王の役人であったと書かれているので、権力、財力もあったでしょう。病気の息子を有名な医者に見せたかもしれません。おそらく息子のためにできることは何でもしてやったでしょう。しかし万策つきたとき、頼みの綱としてイエスさまのもとにかけつけてきたわけです。
「息子が病んで死にそうです。来て癒してください」と語ったに違いありません。それに対してイエスは不思議な答えをされました。
「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない。」普通は「あなたは」と言われるところですが「あながたがは」と言われました。あなただけでなく、そこにいて自分を歓迎しているガリラヤの人達だけでなくすべての人に向けて、言われたのです。
これを聞いてこの父親はどう思ったでしょうか。お叱りでもお説教でもなんでも聞きます。でもまずは来て息子を助けてやってくださいと言いたかったのではないかと思います。
さて、イエスさまはこの役人と議論されるかとおもいきや、「帰りなさい。あなたの息子は生きる」と言われました。これもまた唐突な言い方です。
「わかりました、行って治してあげよう」とはいわれませんでした。
どうしてイエスさまはあなたの息子は生きると言われたのでしょうか?
イエスさまのところに来た役人の中に素晴らしい信仰があるとみられたからでしょうか。
私はそうではないと思います。これはある意味、イエスさまのチャレンジだと思いました。
この役人には「息子は生きる」と言われても確認するすべはなかったのですから。
「イエスさま、おっしゃることは何でもうかがいますから、とにかく私と来てください」とイエスを引っ張っていきたかったでしょうが、その人はイエスの言われた言葉を信じて帰って行ったのです。
イエスさまはこの人をイエスさまが思われる信仰へと導くためにチャレンジされたのではないかと思います。
役人もまたチャレンジに対して付け加えることなく、言い返すこともなく、その言葉をただ受けて帰っていったのです。
カファルナウムからカナまで距離としては約30キロの道のりがあります。彼は帰り路、「帰りなさい、あなたの息子は生きる」という言葉を思い出しながら時には駆け足になって家路を急いだのではないかと思います。
しかし彼が30キロ行く前に、家の方からも息子が癒されたことを一刻でも早く父親に伝えるために使いの者が遣わされました。そして息子の病気が良くなったことを知らされます。
父親は良くなった時刻を尋ねました。
「昨日の午後1時に」。「昨日」ということは彼はまる一中夜歩き続けでいたことになります。
そして息子がイエスが「あなたの息子は生きる」と言われた時刻に癒されたことを知りました。
そこで「彼もその家族もこぞってイエスを信じた」。
この「彼もその家族もこぞってイエスを信じた」ということばと「あなたがたはしるしを見なければ信じない」という言葉とどう違うでしょうか。

先日、台湾で選挙がありました。選挙において私たちは自分の願っていることや目覚ましい業績その人が上げている間は投票しますが、その人が落選したり、自分の思いと違うことをしだすとすぐ放り出したりすることが起こりますね。私は今のこの国の現状を見るに、ただ政治家を責めるだけではこの国は良くならないのではないかと思います。ギブ&テイクで自分の期待するものをやってくれることを望む。それが手に入らなければ見捨てる。
そういう歪んだ性根、利己主義が神を信じることの中にも表れているのではと思うのです。

自分は一生懸命信じている、しかしある時、自分の思い通りにならないことが起こると、信仰がぐらついて、疑いや神への怒りを持つ。自分は神の庇護のもとにあるのだかから私の人生には災いは降りかからないと思いこんでいるのではないのでしょうか。
私達の人生には信じていても信じていなくても思いがけないことが起こります。

ラインフォルト・ニーバーという人がこのような詩(祈り)を作りました。
「神よ、変えることのできないものを受け入れる平静な心を、変えなければならないものは変えていく勇気を、そして二つのものを見分ける知恵を私に与えてください。」
「変えることのできないものを受け入れる平静な心」それはどこから来るのでしょうか。
それはしるしや不思議を求めるとイエスが呼んでおられる信仰からは決して生まれないものです。

この息子はイエスさまのこの言葉によって癒され生きるものとなりました。しかしいずれこの息子も時が来たら死んでしまいます。
それでも私たちは今この時のことだけしか考えずに癒されることだけを求める。そうではなくて息子もいずれ死ぬ、父親もいずれ死ぬ。人生で私たちの思いと違う色々なことが起きたとしても、こころを揺るがすことなく受け止めて行く心を、変えられるものに対しては変える勇気を、その二つを見分ける知恵を信仰を通して受けて行かなければならないのではないでしょうか。

そうではなかったらいつでも私たちは神さまに求め続ける。祈りがかなうことを。
叶わない時には、自分の祈りが足りなかったとか、信仰が足りなかったとか逃げてしまいますが、それは逃避しているにすぎません。そうではなく、自分の意にそぐわないことをしっかりと引き受けていくために信仰が与えられていることをもう一度しっかりと覚えていきたいと思います。

色んなものを変えることができない、でも変えたいと思う。自分は変わらず相手だけを変えたいと思う、だけどそれは信仰の力ではありません。色んな意味でこれからも私たちの思いを超えたできごとが私達の周りに、この国に、世界に起こっていくことでしょう。避けられないことにはそれを受け入れていかなければなりません。そして自分にできることを見分けていかなければなりません。
そのような信仰を主から頂いていきましょう。

お祈りします。
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2015年
12月13日
   「未来を拓くもの その4」
   
ルカによる福音書1章39節~56節       

『聖書箇所』
1:39 そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。

1:40 そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。

1:41 マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、

1:42 声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。

1:43 わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。

1:44 あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。

1:45 主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」

◆マリアの賛歌

1:46 そこで、マリアは言った。

1:47 「わたしの魂は主をあがめ、/わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。

1:48 身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう、

1:49 力ある方が、/わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、

1:50 その憐れみは代々に限りなく、/主を畏れる者に及びます。

1:51 主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、

1:52 権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、

1:53 飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます。

1:54 その僕イスラエルを受け入れて、/憐れみをお忘れになりません、

1:55 わたしたちの先祖におっしゃったとおり、/アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」

1:56 マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。
メッセージの勘所

マリアはなぜエリザベトのところへ行ったのでしょうか。前から叔母の出産の手伝いに行く予定になっていたのかもしれません。しかし、そうではないように思います。彼女にはエリザベトの存在がどうしても必要だったのです。なぜなら今の自分を理解できて、自分に起こったことを話せるのはこの叔母以外にありえなかったからです。マリアはエリザベトの言葉を聞くことで自分に起こったことをもう一度確認し、そしてそれを引き受けていける確信が持てたのだと思います。
メッセージの要約

今月は聖書教育の箇所がクリスマスの箇所とは違いますので、聖書教育から離れて私が選んだところからメッセージをさせていただきます。

「その頃」と書かれていますが、26節から38節までにのっているマリアが天使から「あなたは身ごもって男の子を産む」と言われ、「お言葉どおりこの身になりますように」と返事をしたというあの大事件の余韻がまだ冷めやらぬその直後に、マリアは思い立って急いでエリザベトのもとに行きました。なぜマリアがエリザベトのところに行ったかというと、天使が「あなたの親類のエリザベトも身ごもっている」と告げたことと関係があると思われます。

マリアの心をせきたててエリザベトのところにいかせたものは、「わたしは主のはしためです」と天使に言ったものの、はっきりと自分が妊娠したのか確信をもって知ることができなかったからだろうと思います。
それを確かめる手がかりを得ることができるとすれば、同じく神の御心によって身ごもったエリザベトしかいないと思ったのでしょう。

エリザベトに出会ったとき、マリアが天使に出会ったときにも起こらなかったことが起こります。それはマリアの口から賛美があふれでてきたということです。
エリザベトの挨拶を聞き、エリザベトの出会いの中でマリアには賛美があふれてきたのです。こういうことは私たちの人生の中にもあるのではないでしょう。
私たちもものすごく嬉しいことが起こったとき、すぐに詩文の口からさんびがあふれ出るかというと、そうでもなく、自分の中でそれを受け止めるのに多少の時間がかかるではないでしょうか。

マリアにはこれから自分と周りに起こりうることで、予想できることとそうでないものがありました。でもこれから自分の周りに起こっていくことは恐ろしいことだということは知っていました。
なぜなら結婚式を終えてない人が身ごもるということは大変なことでしたから。もしそれが発覚したらお偉い人から尋問を受けなければならず、もしそれが許婚の子でなかったとしたら彼女も子どもの命もないのでした。
マリアの不安は当然のことでした。
けれどそんな思いをかかえながらエリザベトに出会ったとき、エリザベトはこう言いました。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」またマリア自身も言っています。「今からのちいつの世の人もわたしを幸いな者というでしょう。」と。

マリアという一人の女性の人生の中で、幸せな時ってどれくらいあったかなと思います。
最初から彼女は死に向かい合わなければなりませんでした。妊娠中も人々からは中傷、非難、さげすみを度々受けたと思われます。皆に祝福されての出産などとは程遠い馬小屋での出産にも甘んじなければならなかったのです。
また、確かにイエスさまは30歳までは家の家業を継いで大工をなさいましたが、30歳からは自分の家族を養うのではなく、自分の使命に生きたわけですから家族は大変だったと思います。聖書にもイエスが集会をされようとしたのをマリアが止めようとした記事が記されています。そして最後はこの世で最も呪われたものとして死刑にされる。そのどこが幸いなのかと思うようなことばかりです。
私たちが思う幸いとは別の方向に動いていく、しかし幸いだという、この矛盾。

マリアはエリザベトのもとに3か月留まりますが、その間いいなずけにどう伝えたらよいだろうか日夜考えたと思います。しかしどんな言葉で語ろうとも、彼は怒るだろう、怖れるだろう、憎むだろうことは間違いないと思ったことでしょう。
マリアにとって一番辛かったのはいいなずけの悲しみだったと思います。
ですから、そのエリザベトの所に滞在した3か月間とて、決してハッピーな3か月ではなかったはずです。生理がなくなり、その不安は現実のものとなっていったことでしょう。諮問の人がやってくる、家の者からも一族の恥だと言われる、周りにも結婚式前に妊娠した破廉恥な二人というゴシップが広がる、そのようなことが次々に脳裏に浮かんだことでしよう。

でも、そんな中でもマリアのように、またエリザベトのように、私たちも賛美を歌うことができるのです。それは私たちが一人ではないからです。
なぜなら賛美は私たちの思いではなく、神が私たちにくださったものだからです。
マリアが歌った歌も自分の願望ではなく、神がそうしてくださった、だからそれは実現するという信仰から生じたもので、決して人間の意地や、信念ではないのです。
今この世界は日々不気味さが増してきています。次に何が起こるかわからない。
この私たちの小さな教会の中にも数えきれないほどの不安と戦いがあると思います。
お互いに助けたくてもどうしようもないことが起こります。しかし私たちには賛美することができるのです。一緒に。聖霊が与えてくださった歌を一緒に歌うことができるのです。

こんな時代によくクリスマスの歌を歌うことができるなと周りから思われているかもしれません。でもこんな時だから賛美しなければならないのです。私たちの可能性はゼロでも神には何でもできるからです。その信仰があるからこそどんな時にも賛美を歌うのです。先月召天された鈴木兄弟の葬儀においても何度も賛美を歌いましたし、葬儀の前にもご家族と共に賛美を歌いました。賛美の中に葬儀も整えられ備えらえて行きました。もし賛美がなかったらそれはただ単に死者を悼む会になったはずですが、そうではなかったですね。皆さん。
私たちはどんな時にも、歌いつつ歩んでいくことができるのです。
こういう時代だからこそ集まって賛美を歌っていくのです。一人ではなかなか賛美を歌えない、しかしマリアにエリザベトがいたようにエリザベトにもマリアが与えらえてそこで賛美が生まれたように、共にイエスキリストにあって賛美を歌うものとして備えられていってるわけです。

この世を照らす光がもしあるとしたらそのような賛美の中にあるのではないでしょうか。ですから一日の中で賛美を絶やさないようにしてください。メロディーがなくても詩編を口ずさむのも賛美です。カルバンは詩編以外の賛美をしてはいけないと言った人ですが、詩編を口ずさむ、それも賛美です。好きな賛美歌を歌うのも賛美です。
マリアもそのような厳しい状況の中で賛美したことを思い出しましょう。
私たちの人生、そのようにして神が下さった賛美と共に歩んでいきましょう。
お祈りいたします。

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2015年
11月29日
   「未来を拓(ひら)くもの その2」
   
エレミヤ書42章18節~43章7節       

『聖書箇所』
42:17 エジプトへ行って寄留しようと決意している者はすべて剣、飢饉、疫病で死ぬ。わたしが臨ませる災いを免れ、生き残る者はひとりもない。

42:18 まことに、イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。あなたたちがエジプトへ行けば、わたしの怒りと憤りがエルサレムの住民にふりかかったように、あなたたちにふりかかる。あなたたちは、呪い、恐怖、ののしり、恥辱の的となり、二度とこの場所を見ることはできない。

42:19 ユダの残った人々よ、主はあなたたちに対して、『エジプトへ行ってはならない』と語られた。今日、わたしがこの警告を伝えたことを、しっかり心に留めなさい。

42:20 あなたたちは、致命的な誤りを犯そうとしている。『我々のために我々の神である主に祈ってください。我々の神である主が語られることを知らせてくださるなら、すべてそのとおりにします』と言って、わたしをあなたたちの神である主のもとに遣わしたのは、あなたたち自身である。

42:21 そこで、わたしが今日それを告げたのに、自分の神である主の声を聞こうとせず、主がわたしを遣わして語られたことを全く聞こうとしない。

42:22 だから今、行って寄留しようとしているその場所で、あなたたちは剣、飢饉、疫病によって死ぬことを、しっかりと知らねばならない。」


[ 43 ]

◆エジプトへの逃亡

43:1 彼らの神である主がエレミヤを遣わして伝えさせたすべての言葉を、彼が民の全員に語り終えたとき、

43:2 ホシャヤの子アザルヤ、カレアの子ヨハナンおよび高慢な人々はエレミヤに向かって言った。「あなたの言っていることは偽りだ。我々の神である主はあなたを遣わしていない。主は、『エジプトへ行って寄留してはならない』と言ってはおられない。

43:3 ネリヤの子バルクがあなたを唆して、我々に対立させ、我々をカルデア人に渡して殺すか、あるいは捕囚としてバビロンへ行かせようとしているのだ。」

43:4 こうして、カレアの子ヨハナンと軍の長たちすべて、および民の全員は、ユダの地にとどまれ、という主の声に聞き従わなかった。

43:5 カレアの子ヨハナンと軍の長たちはすべて、避難先の国々からユダの国に引き揚げて来たユダの残留民をすべて集めた。

43:6 そこには、親衛隊長ネブザルアダンが、シャファンの孫でアヒカムの子であるゲダルヤに託した男、女、子供、王の娘たちをはじめすべての人々、および預言者エレミヤ、ネリヤの子バルクがいた。

43:7 そして彼らは主の声に聞き従わず、エジプトの地へ赴き、タフパンヘスにたどりついた。
メッセージの勘所

十日間、エレミヤはどんなにうれしかったでしょう。彼はイスラエルの預言者でよかったと思っていたに違いありません。でも、彼の喜びはたった十日間で終わりました。その口から出た言葉を聞いた途端、人々は背を向けて去っていってしまったのです。なぜ神の御言葉が人々に届かないのでしょうか。これは国が亡びるよりはるかに大きな悲劇です。神の言葉はいのちであり、力があると誰よりもしっているのがイスラエルの民ではなかったでしょうか。問題はバビロニアでもエジプトでもなく、人々の心にあったのです。
メッセージの要約

イスラエルは分裂し、北王国と南王国に分かれてしまいました。
南王国ユダの最後の様子はエレミヤ書39章1節~に書かれています。それは紀元前587年のことでした。エレミヤの預言どおりにゼデキヤ王は惨めな姿でバビロンに連行され、またユダの人々も貧しい民の一部を残して連行されました。
一つの国の体制が崩壊していくのを私たちも何度か目にしてきましたが、それまでの指導者が倒れ、その国に平和がくるかと思ったら、しばらくすると再び混乱が生じ、前よりもっとひどいのではないかと思うような事態が起きています。イラクはその一例でしょう。
またアフガニスタンでテロリストの最高指導者を殺害したと思っても、今はISという集団が世界でのテロを計画しています。
ユダ王国も陥落したあと、バビロンにより立てられたゲダルヤが総督として立ち、荒廃したユダの国の復興に努めました。そのゲダルヤのもとにエレミヤは身をよせて残った人々とともに生活し始めます。しかし、イシュマエルら反バビロン派の人達がゲダルヤを暗殺し、バビロン駐留軍にも危害を加えました。当然バビロニア帝国は討伐の軍を派遣することとなり、その到着前に反乱を起こしたイシュマエルらを国から追い出したヨハナンたちでしたが、バビロン王の過酷な追及が自分たちにも及ぶことを恐れ、生き残るため大国エジプトへの逃亡を計画します。
この出来事の中にある構図、つまり敵意が戦を呼び、さらに憎しみが募り、勝つてもいつまた自分が危害を受けるのではないかという恐怖からまた戦いが起こる。そのことによってさらに憎しみが人々の間に広がるという連鎖が今、この世界で繰り返し起こっています。

そんな中人びとがエレミヤに助言を求めるところが今日の箇所です。
42章2節「どうか、我々の願いを受け入れてください。我々のため、またこの残った人々のために、あなたの神である主に祈ってください。御覧のとおり、大勢の中からわずかに、我々だけが残ったのです。あなたの神である主に求めて、我々に進むべき道、なすべきことを示していただきたいのです。」


このときこそ、エレミヤは人々が神の言われることに耳を傾け従うだろうと思ったことでしょう。なぜなら、5節にこう書かれているからです。
5節:人々はエレミヤにいった。「主が我々に対して真実の証人となられますように。私たちは、必ずあなたの神である主が、あなたを我々に遣わして告げられる言葉のとおり、すべて実行することを誓います。良くても悪くても、我々はあなたを遣わして語られる我々の神である主の御声に聞き従います。我々の神である主の御声に聞き従うことこそ最善なのですから」。と
10日間祈ってのち主の言葉がエレミヤに臨みました。(10節~17節)
この国に留まること、バビロンの王を恐れてはならないこと、神はあなたたちと共にいて必ず救い出すこと、でももしエジプトに行くならば、剣、飢饉、疫病で死ぬことを伝えます。

しかし彼らこのエレミヤの言葉に聞きしたがおうとしませんでした。あんなに切羽詰まって「どんなことでも聞き従いまいから」といってエレミヤのところに来たのにです。人々はいったい何をエレミヤに、あるいは神に期待したのでしよう。彼らは結局、自分たちを支持してくれて、自分たちの思い通りに動いてくれる神を求めているだけでした。
私たちも同じような構図のもとに置かれているわけですから、いったい誰の言葉を聞いていくのかを考えなければなりません。

神はここでも「わたしはあなたたちと共にいる。」と言われています。この言葉はインマヌエルという意味で新約聖書の中でよく聞く言葉です。
クリスマスの主はこの時にも共におられたのです。しかし人々はそれを無視し続けました。それで神はひとり子をこの世に送るしか方法がなくなったのです。
人々は自分の聞きたいことだけを聞きたがりました。

一方クリスマスのできごとでヨセフとマリアは自分の一番聞きたくないことを聞かされたのです。もしあなたがマリアだったらどんな言葉を聞きたかったでしょうか。「マリア、あなたの結婚生活は祝福され子供も沢山生まれるよ」でしょうか。しかし、神から告げられたのは「あなたは未婚の母になる。」というものでした。未婚の母がこの時代どんな扱いを受けるか目に見えてわかっていました。その言葉を聞き、真に受けるということは、思い描いていた幸せな新婚生活を捨てるということを意味していましたし、自分とお腹の中の子が危険にさらされるということでした。
ヨハネも同じです。「あなたのいいなづけは身ごもっている」と告げられたのです。まだマリアの手を握ってもいないのに、最悪のことを聞かされたのです。
しかし、この二人は聞きたくなかったことを自分の身に引き受けて行きました。

昨日テレビを見て衝撃を受けたことがありました。宝くじの話題の中で、貧乏神を祭っている祠で、神の形をかたどったご神体ともいえるものを、宝くじが当たるようにとバッドで3回たたき、3回蹴る人々がいるとのニュースでした。貧乏神とはいえ、神さまは神さま、その神さまを平気でけったり叩いたりする姿を見てショックでした。10億円の宝くじのためなら、何でも、たとえ神さまでも利用しようという人間の分を超えた姿に、これは本当に聖書の物語から2000年経った人間の姿なのかと思いました。

いったい人々は誰の言葉を聞こうとしているのでしょうか。
この箇所でも人々は自分の声を支持して、自分をいいと言ってくれる声だけを聞きたがっていました。自分がいいと思うことを許す神だけを求めていました。それは神ではありませんね。

子どもが間違った道を行こうとしているときそれを許す親はいません。
神はここに留まることを求められたのです。私たちにとっても一番嫌なことが最善であるということを私たちも経験するのではないですか。逃げてもいいことはないということを。逃げれば逃げるほど追われるわけですから。そういう状況の中で踏みとどまるには力がいります。いかにして踏みとどまれるか、そのことを私たち皆が問われているのではないでしょうか。

フランスのテロで1人の男性が自分の奥さんがなくなられたことに対して、「テロリストへの手紙」と題してメッセージを発せられました。
今日はそれを読んで終わりにしたいと思います。

「金曜の夜、君たちは素晴らしい人の命を奪った。私の最愛の人であり、息子の母親だった。でも君たちを憎むつもりはない。君たちが誰かも知らないし、知りたくもない。君たちは死んだ魂だ。君たちは神の名において無差別な殺戮をした。もし神が自らの姿に似せて我々人間を造ったのだとしたら、妻の体に打ち込まれた銃弾の一つ一つは神の心の傷となっているだろう。だから決して君たちに憎しみという贈り物はあげない。望み通りに怒りで応じることは君たちと同じ無知に屈することになる。君たちは私が怖れ、隣人を疑いの目で見つめ、安全のために自由を犠牲にすることを望んだ。だが君たちの負けだ。私というプレイヤーはまだここにいる。今朝ついに妻と再会した。何日も待ち続けた末に。
彼女は金曜の夜に出かけた時のまま、そして私が恋に落ちた12年以上前と同じように美しかった。勿論悲しみにうちのめされている。君たちの小さな勝利を認めよう。でもそれはごくわずかな時間だけだ。妻はいつも私たちと共にあり、再び巡り合うだろう。君たちが決してたどり着けない自由な魂の天国で。私と息子は二人になった。でも世界中の軍隊よりも強い。そして君たちの為にさく時間はこれ以上ない。昼寝から目覚めたメルビルのところに行かなければいけない。彼は生後17か月でいつものようにおやつを食べ、私たちはいつものように遊び、幼い彼の人生が幸せで自由であり続けることが君たちを辱めるだろう。彼の憎しみを勝ち取ることもないのだから。」

アメリカで9.11のテロが起こったとき、アメリカの議会が報復に99%賛成する中でたった一人の女性が反対しました。彼女は報復がまた怖れをよんでいくこと、それは私たちにとって何も生産的なものはないことを知っていました。その女性はそのあと沢山のバッシングを受けたそうです。この男性に対しても賛同と共に、その弱腰の姿勢に反論が起こっているそうです。
神は私たちに繰り返しチャレンジをなさいます。それは私たちの人生が破壊に向かうのではなく、人々と共に喜びの人生を自由の中で全うすることができるためです。

そのために神は今も語り続けておられます。そのことをしっかりと心にとめてこの一週間も歩んでいただきたいと思います。

お祈りしましょう。
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2015年
11月1日
   「何のために苦しむのか その2」
   
エレミヤ書24章1節から10節       

『聖書箇所』
24:1 バビロンの王ネブカデレザルが、エホヤキムの子、ユダの王エコヌヤと、ユダのつかさたちや、職人や、鍛冶屋をエルサレムから捕え移し、バビロンに連れて行って後、主は私に示された。見ると、主の宮の前に、二かごのいちじくが置かれている。

24:2 一つのかごのは非常に良いいちじくで、初なりのいちじくの実のようであり、もう一つのかごのは非常に悪いいちじくで、悪くて食べられないものである。」

24:3 そのとき、主が私に、「エレミヤ。あなたは何を見ているのか。」と言われたので、私は言った。「いちじくです。良いいちじくは非常に良く、悪いのは非常に悪く、悪くて食べられないものです。」

24:4 すると、私に次のような主のことばがあった。

24:5 「イスラエルの神、主は、こう仰せられる。この良いいちじくのように、わたしは、この所からカルデヤ人の地に送ったユダの捕囚の民を良いものにしようと思う。

24:6 わたしは、良くするために彼らに目をかけて、彼らをこの国に帰らせ、彼らを建て直し、倒れないように植えて、もう引き抜かない。

24:7 また、わたしは彼らに、わたしが主であることを知る心を与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らが心を尽くしてわたしに立ち返るからである。

24:8 しかし、悪くて食べられないあの悪いいちじくのように、――まことに主はこう仰せられる。――わたしは、ユダの王ゼデキヤと、そのつかさたち、エルサレムの残りの者と、この国に残されている者、およびエジプトの国に住みついている者とを、このようにする。

24:9 わたしは彼らを地のすべての王国のおののき、悩みとし、また、わたしが追い散らすすべての所で、そしり、物笑いの種、なぶりもの、のろいとする。

24:10 わたしは彼らのうちに、剣と、ききんと、疫病を送り、彼らとその先祖に与えた地から彼らを滅ぼし尽くす。」

メッセージの勘所

ユダ王国は新バビロニア帝国との戦いに敗れました。しかし、今回はただ負けたというだけではすみませんでした。多くの人が捕虜とされて、バビロンへ連れ去られたのです。この敗戦を残ったイスラエルの人々は、『この出来事は、戦いに参加した者と捕虜とされた連中を神が呪われたからだ』と解釈しました。そして残された自分たちを神は祝福してくださると思い込もうとしたのです。しかし、そんな都合の良い考えを神が許されるはずはありません。不安と恐怖の中で勝手な幻想にすがりつこうとした人間の弱さを神はあらわにされるのです。
メッセージの要約

神は神ご自身の思いをどうやって私たちに伝えてこられたでしょうか?
始めは神が前面に立ち奇跡を行われたり、ある時は師士と呼ばれる人を立てたり、人々の求めに応じて王を立てられたこともありましたが、この時代には預言者と呼ばれる人をたててご自身の思いと導きを伝えられました。
神の預言者だからさぞ人々から大事にされたかというと、実はその逆で、無視されることもしばしばで、迫害されることがほとんどだったのです。それは預言者が人々が聞きたくないことを語ったからです。
「神様を信じて、言われていることを守っていきない」そう言われても、面倒くさいし、それで暮らしは楽にならないのでなかなかその通りには受け取れなかったのです。

今日の箇所は人間の知恵を使ってイスラエルの国を守ろうと為政者が必死になっていた頃のお話です。
当時はイスラエルを挟んで、エジプトとメソポタミアで派遣を唱える国との間で領有権を求めて争っていました。イスラエルはソロモン王の時代には両国を押えて繁栄しましたがその後分裂、北イスラエル王国は滅び、今は南ユダ王国だけが残っていました。それも滅亡への階段を転げ落ちている状況でした。
ここにでてくる、エホヤキム(ヨヤキム)王はエジプト政権によって建てられた王でした。
(参照:列王記下23章33節~)
ヨヤキムはエジプトの力を借りてメソポタミアの脅威からイスラエルと守ろうとしたのです。
しかしメソポタミア地方に新バビロニア帝国が起こり、エジプトは衰退して行きます。ついにユダはバビロニア帝国に滅ぼされ多くの人が捕囚としてバビロニア帝国に連れていかれました。そのバビロニア帝国によって建てられた王がゼデキア王ですが、反旗を翻したため最後は彼も捕囚としてバビロニアに連れて行かれました。捕囚は3回起こったと言われています。
そんな中エレミヤは強国に頼るのではなく、神さまに頼りなさいと勧めたのです。
私の言うことを聞き、神さまの声を聞き分けて、神の律法を守りなさいと勧めました。
しかし、「神さまといわれても目に見えないし、触れないし、本当に役にたつのかな?」と思われたことが皆さんも一度ならずおありになるのではないでしょうか。イスラエルの人々も同じだったでしょう。
自分の視点がどこを向いているか、これは現代に生きる我々にとっても大きな問題です。国民のためといいながら、我が国も指導者がいったいどちらを向いているのか、本音と建前が見え見えです。
ですから、このお話は昔話ではなく、人間のさが(本性)がそのまま現われている箇所なのです。
結局、イスラエルは敗れてしまい、侵略され多くの人がバビロンに連れて行かれますが、国に残った人もいました。
今日の聖書の箇所はそのような中で語られました。

今日の聖書の箇所では、強制的にバビロンに連れていかれる人たちこそ実はよいいちじくであり、神さまはその人々を祝福して、いつか国に連れ帰る。一方、イスラエルに残った人達は悪いいちじくであり、最後はひどい目に陥る。とエレミヤは伝えます。
残った人々の考えはこうでした。
連れていかれた人々は神さまに呪われた人々だ。自分たちこそ祝福を受けていると。
本当だったら、彼らはこう思うべきでした。「私たちが受ける苦しみを彼らが代わって受けてくれている。」そう思うことが共同体というものではないでしょうか。
連れていかれた人達のことを痛み、悲しみ、同じ思いを共有していくべきだったのです。

イエスキリストは本当の友達だったらこうすると言われています。
ヨハネ15章13節、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。私の命じることを行うならば、あなたがたは私の友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたが私を選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがただ出かけて行って実を結び、その実が残るようにと。」
ここに書かれている通りに、イエスキリストは自分の命をわたしたちのために捧げてくださいました。そこには何の垣根もありませんでした。この人は信仰的に素晴らしいからとか、教会に貢献してきたからとか、長年努力をしてきたからなどいっさい関係なく、すべての人のために命を捨てられました。その人達のためにそうする必要はないと思われる人達のために、命を捨てられたのです。
しかしイスラエルの人達は「あいつらは神様から罰を受けているから苦しんでも仕方がない。」と自分たちを正しい側において、まわりを裁いていたのです。それはまさに人間の歴史でもありました。そういう歴史の中に神はイエスを誕生させられました。
もう一度エレミヤ書に戻りましょう。

エレミヤ書23章5節
「見よ、このような日が来る、と主は言われる。わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。王は治め、栄え、この国は正義と恵みの業を行う。彼の世にユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。彼の名は、『主は我らの救い』と呼ばれる。」

主は救いとは、まさしくイエスさまの名の意味です。マタイによる福音書の1章21節には、「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」とあります。
神さまはご自身を省みず、それどころか神に敵対し、自分を正当化するために他人をおとしめるような人々の中にイエスを生まれさせました。それもそのような人のために神はご自身のひとり子の命をもって人の罪の代価とされたのです。
教会はこのイエスキリストのあとに従うものです。
苦しんいる人をけなして、あの人は神に裁かれているから苦しんでいるのだとか言うために私たちがいるわけでは決してありません。
しかし私たちは自分の都合でどうしても人を判断してしまいます。

私が神学生のとき、このようなことがありました。
ある一人の婦人がおられました。その方は九州のある島で有名な家の、裕福な家の奥様でした。お宅に伺うと玄関からずらっと立派な壺や人形や何かの像が並んでいるようなおうちでした。
ある苦しみの中で救われて最初は喜んでおられましたが、だんだんと教会員が自分の言うことを聞いてくれない、よくしてくれないと言い出して、家族のところに戻っていかれました。教会のことについて周りの人に散々言われていたそうです。そんな中、夫の事業が失敗し、自分の周りから今までちやほやしてくれていた人が皆離れていってしまいました。奥さんはそのときはじめて我にかえって、「親戚や友人たちが自分によくしてくれたのは自分に財産があったからだったんだ、しかし教会は自分をちやほやしかなかったけれど、本当の友達は教会にいた」と。その後、この婦人は教会に戻って新たに教会生活を始めていかれました。

私たちは自分の都合のいいことを語ってくれる人を望みますよね。気持ちがいいですもの。自分を正しいとしたいですから。
神様の言うことは耳に痛いことが多いので、聞きたくないのです。だって、イエスのように生きるということは何のいいこともがなくても、最後はみんなに裏切られてもアーメン(それに同意します)ということだからです。
教会でなにかやって認められて、褒められているからキリストを信じることではないのです。自分がやったことが受け入れられなかったとしてもイエスに従っていく、「裏切られ殺されるまで神の御心に従って歩まれたイエスの道を私もたどっていこう」というの教会の歩む道です。そしてそこで苦しんでいる人達と歩みを共にしていくことがイエスを信じる者の道なのです。

私たちはどうでしょうか?
これは厳しいことであります。
でも私たちのほんとうの喜びは、砂の上にはしっかりとした家は建たないとイエスが言われたように、自分の願望や思い込みの上にではなく、たとえ厳しい現実であっても、それをしっかりと自分自身のものとして受け入れて、そこから逃げないで、その中にこそ自分の生きていく場所を建てあげていくところに生まれてくるのではないでしょうか。
神はこのようにしてみ言葉をもって、私たちのうちを見分けて、私たちが正しい方向に向くように私たちに語りかけておられることを心から感謝したいと思います。

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2015年
10月11日
   「荒れ地に川を導く者」
   
詩編126編1節~6節
       

『聖書箇所』
126:1 【都に上る歌。】主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いて/わたしたちは夢を見ている人のようになった。

126:2 そのときには、わたしたちの口に笑いが/舌に喜びの歌が満ちるであろう。そのときには、国々も言うであろう/「主はこの人々に、大きな業を成し遂げられた」と。

126:3 主よ、わたしたちのために/大きな業を成し遂げてください。わたしたちは喜び祝うでしょう。

126:4 主よ、ネゲブに川の流れを導くかのように/わたしたちの捕われ人を連れ帰ってください。

126:5 涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる。

126:6 種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は/束ねた穂を背負い/喜びの歌をうたいながら帰ってくる。

メッセージの勘所

この詩が編まれたとき、現実には故郷への帰還など夢幻のようなものでした。しかし、荒れ地に雨季になると川が出現するごとく、カラカラに乾き、傷ついた私たちの心と体にも主ならばそれを潤す出来事を起こせると作者は言うのです。だから今この時に、ほほに涙がつたい続けるとしても種を蒔き続けよう。
現実から逃げず、現実も丸ごと背負って生きていこうと呼びかけているのです。私たちの伝道はこのような生き方の上にのみ成り立つものだとはおもいませんか。
メッセージの要約

先週、今週と来週まで聖書教育のカリキュラムから外れたところからメッセージをします。

先週、土地取得駐車場完成感謝礼拝をし、このことでホッとしてしまい守りに入るのではなく、託されている福音の宣教に邁進していこうと話しました。

一口に伝道とってもそのやり方は様々。それぞれの教会が独自に編み出した伝道の方法もありますし、相手にみ言葉を直接語る、あるいはトラクトを配るなど様々です。

しかし伝道は人間の頑張りでできることではありません。それを自分の生活の中でどのようになしとげていけばいいかを今日は考えたいと思います。

「主はこの人々に、大きな業を成し遂げられた」と、今日の聖書の箇所にでてきます。

この隣地を取得したということで「教会はお金を持ってるなぁ」ということが周りに広がっていますよ、と不動産屋さんから言われました。畏怖の念を持った人もいるかもしれませんが、そのようなものは人を変えるものにはなりません。

最近、近所の方から声をかけられたのですが、10年くらい前にあったある出来事のことを話されました。でも私自身はそのことについて忘れていて、恥ずかしながら最初は何のことかなぁと思っていました。話しているうちに思いだしてきたのですが、寒くなりかけのちょうど今頃の季節でした。
夜、12時を回ってベッドに入ろうとしていた矢先に、玄関のベルがなり、誰かと思って出てみるとその夫妻が犬を連れてたっておられました。教会堂建物の外の角のところに誰かいるというのす。一緒に見に行ってみると、確かに誰かが横たわっています。当時平野教会がしておられた夜回り活動に参加していましたので、ホームレスの方方に声をかける時の要領で「どこか具合が悪いのでは?」と聞くと、「疲れていので少しの間休ませてほしい」とのこと。「私はこの教会の牧師なので何かあったら言ってください」といってその場をはなれました。声をかけてくださったご夫妻には、「ホームレスの方が仮眠をとっておられるようです。私が時々様子を見ておきますから、ご心配なく」とお答えしました。でも、家に帰ると家内が開口一番「何かあったらどうするの」と言いましたので、私も窓が割られたりとか、近所で何かありはしないかと一瞬不安になったことを思いだしました。このときのことを持ちだされて、その方は「私あの時感動したの。私にはあなたのような覚悟はとてもないもの」とおっしゃったのでした。

私たちが布教をしていくには覚悟が必要です。

教会に生きる私たちにしかできないこと、それを示していくことが伝道だと思います。

この詩編は都上りの祭りの歌で、121編から134編までの中の一つです。過ぎ越しの祭りの時に様々なところから巡礼者がエルサレムを目指して上ってくるのですが、その巡礼者は121編から134編を口ずさみながら上ります。この126編になったときには、かつて多くのものが捕虜として外国に連れていかれ、70年後に自国にもどってきたというのを思い返しているのです。しかし帰ってきた人達がその時目にしたものは破壊されて廃墟のような町でした。かつて自分たちが知っているような面影はどこにもなく、かえって失望が広がるような状況でした。しかしそんな中でも、私たちの神は草も生えてないようなところに川を流れさせ、草をはえさせてくださる。そのことを信じてそこで農地を耕し種をまいていったのです。

立派な牧師と信者がいるから伝道できるのではありません。一人一人が色々なことに葛藤しながら歩んでいるのです。その涙と痛みの中に教会の歩みはあるのです。良いところだけを見せることが伝道ではないのです。

色んな苦しみをひめながらもそれに向かい合って逃げないでおられる方々が常に涙を持って種まきし続けている、主と共に生き続けておられる。人々がそこにきて、感動するもの、他と違う何かを感じられるとしたらそういうものの中にではないかと思います。

この歌は収穫感謝祭の時に教会で読まれる歌です。カナダでは10月の第2日曜日、アメリカでは11月第4木曜日です。また他に教会歴の中では待降節と受難節のときに読まれ続けました。人間が破滅にむかうしかないときに光が与えられイエスが生まれてくださった、そのイエスが自ら十字架にかかり涙をもって救いの種をまいてくださった。だからこそ人類は救いを得、そこに命があることを知らされたからこそ節目にこの歌を歌うのです。

この歌は将来の希望が何もないようなところで歌い続けられてきたのです。そして現実から逃げることなく、自分自身や課題と向かい合い続ける力となりました。

福音の種をまくと言っても、10回中10回うまくいかないことも多々あります。それでも涙をながしながらまき続けなさい。そうすれば、いつか喜びの歌と共に刈入の時がくると歌っているのです。

生きている中で私たちは喜びを人に与えるときもあれば、悲しみを与えるときもあるでしょう。苦しいできごとや病気や事故や試練を持って神は何をなそうとされているのだろうと詩編を読む中で目を開かれていくのだろうと思います。

30年以上前、ベトナムでは貧しくて、ボートピープルとなって国を出て行った人が沢山いました。
その中に日本にたどりついた方々がおられ、支援センターですごしたのち、就労についていった方がおられます。

その中の一人はベトナムの大学教授の息子さんで、英語とフランス語を話す人でした。しかし支援センターを出たあと最初についた仕事は彼の経歴を生かせるものではなくビルの清掃会社でした。でも彼はそこで明るく働きました。
その支援事業に携わっている神父さんが気落ちしているだろうと彼を訪ねたところ彼は生き生きと働いていました。「どうしてそんなに明るく働けているんだ?」と聞くと、彼はある夫人からこんなことを言われたと言ったそうです。「あんたは自分がベトナム人だからこういう目にあっていると思うかもしれないがそれは違う。私も就職したばかりの息子を交通事故で亡くして絶望した。けれど、この清掃会社にきて、一生懸命働いていると逆に自分が元気になったよ。試練があったときに、周りを責めたり、運命をうらんだりしては駄目よ。痛みや苦しみがあっても全部含めてそれが人生、それが人間、そういうふうに思わないといけないよ」と言われのだそうです。
その後彼は働きながら学び、今はIT企業の職に就き、家族を得、日本で楽しく暮らしておられるそうです。

教会に来たら、何の苦労もなくなるなんてことはありません。なんでこんなことと思うとき、涙を流しながら、しかし与えられた福音を喜んで分かち合っていきなさいと言われているんだと思います。福音を10回伝えても、10回蹴とばされて終わるかもしれませんが、見えないところでそれは残っているかもしれません。

十字架のイエスも死んで行かれたけれども、神はそのイエスを復活させて、その命を私たちに聖霊を通して今も注いでおられます。

失敗や挫折のときにも一緒に種をまき続けていきましょう。刈入の時が必ずくるとイエス様がおっしゃっておられますから。
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2015年
9月13日
   「神に見守られて その15」
   
出エジプト記33章7節~17節       

『聖書箇所』

33:7 モーセは一つの天幕を取って、宿営の外の、宿営から遠く離れた所に張り、それを臨在の幕屋と名付けた。主に伺いを立てる者はだれでも、宿営の外にある臨在の幕屋に行くのであった。

33:8 モーセが幕屋に出て行くときには、民は全員起立し、自分の天幕の入り口に立って、モーセが幕屋に入ってしまうまで見送った。

33:9 モーセが幕屋に入ると、雲の柱が降りて来て幕屋の入り口に立ち、主はモーセと語られた。

33:10 雲の柱が幕屋の入り口に立つのを見ると、民は全員起立し、おのおの自分の天幕の入り口で礼拝した。

33:11 主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた。モーセは宿営に戻ったが、彼の従者である若者、ヌンの子ヨシュアは幕屋から離れなかった。

◆民と共に行かれる主

33:12 モーセは主に言った。「あなたはわたしに、『この民を率いて上れ』と言われました。しかし、わたしと共に遣わされる者をお示しになりません。あなたは、また、『わたしはあなたを名指しで選んだ。わたしはあなたに好意を示す』と言われました。

33:13 お願いです。もしあなたがわたしに御好意を示してくださるのでしたら、どうか今、あなたの道をお示しください。そうすれば、わたしはどのようにして、あなたがわたしに御好意を示してくださるか知りうるでしょう。どうか、この国民があなたの民であることも目にお留めください。」

33:14 主が、「わたしが自ら同行し、あなたに安息を与えよう」と言われると、

33:15 モーセは主に言った。「もし、あなた御自身が行ってくださらないのなら、わたしたちをここから上らせないでください。

33:16 一体何によって、わたしとあなたの民に御好意を示してくださることが分かるでしょうか。あなたがわたしたちと共に行ってくださることによってではありませんか。そうすれば、わたしとあなたの民は、地上のすべての民と異なる特別なものとなるでしょう。」

33:17 主はモーセに言われた。「わたしは、あなたのこの願いもかなえよう。わたしはあなたに好意を示し、あなたを名指しで選んだからである。」
メッセージの勘所

以前、救いとは『神が共におられることだ』というお話をいたしました。しかし、今日読んだ聖書の少し前(3節)を読んでみると、神が「わたしは民と共に行かない」とおっしゃったという事実を目にします。神はその理由を説明しておられますが、モーセは到底納得できなかったようです。彼にとって神の不在はとても納得できるようなものではなかったからです。それはモーセ個人だけでなく、イスラエルの存立の根幹にかかわる問題だからです。
メッセージの要約

旧約、新約を読むとき一つの原則があると言われます。

旧約―イエスキリストを通して読む 新約―聖霊によって読むと言われます。

ヨハネによる福音書8章58節
8:58 イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」

ヨハネ1章1節からは
1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。

1:2 この言は、初めに神と共にあった。

1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。

1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。

つまり、旧約聖書の中にすでにイエス・キリストはおられたということです。

特に今日の箇所はイエスキリストに深いつながりがあるところです。

どこにイエスがおられるか、そのことを心の片隅に置いて読んでいただくと聖書の理解が深まっていくと思います。

先週はモーセが神の山に登って下りてこないので、牛の像を作りそれを礼拝したところでした。そしてイスラエルに裁きを下そうとされる神をモーセがなだめて神が思い返されたところでした。

なぜイエスが十字架にかかられたかがここにも見えてくると思います。

イスラエルの人々にくだされるべき裁きをとりなしたモーセ、そこに同じように私たちの罪を神さまの前にとりなされたイエスが見えてきませんか。

神は「おまえたちとは一緒に行かない、登らない」と言われましたが、モーセの取りなしによって思い返されモーセの願いをかなえられたのであります。

不在の反対は、「共にいる」すなわちインマヌエルです。

以前、救いとは神が共におられることだと申しました。なぜイエスさまにインマヌエルというもう一つの名があるかというと、救いは、神が私たちと共におられることにあるからです。なぜ「共にいる」ことにこだわるかという理由はそこにあります。

イスラエルの民が像を作ったのは、モーセが山に登って見えなくなったからです。

そこから怖れが生まれ、モーセを待てなかったので、牛の像を作ったのですが、それは神との信頼関係を確かにし、神との親密さを増すどころか、その逆でした。それは神との親密さから人々を遠ざけてしまいました。

牛を作っても決して恐れは取り除かれませんでした。むしろ人々は異常な親密さを醸成しようとして、お祭り騒ぎを引き起こしたのです。

ハウスはあってもホームはないという言葉を聞いたことがあるでしょうか。帰る家はあっても、心からくつろげる場所がないということです。だからある人は夜のクラブへ、ある人はネットに、酒に、ギャンブルに、異性に逃げたりするのです。

現代は、自分がこの世で役に立つ人間だということを常に証明し続けることを求めます。そのためには、神様の愛などというつかみどころのないものなどに頼っては生きていけないという思いにとらわれることがあるのももっともなことです。

でも人は無限な存在ではないので、どんなに死力を尽くしたとしても、できなくなる日は来るのです。そしてそれは無力感に代わるのです。頑張ってもそのような評価が得られなかったとき、自己を卑下し、自分は役立たずで無用の存在のように感じてしまいます。努力したのに他人が自分が思っていたほどには感謝してくれなかったりしたときも、私たちは自分が存在する意義を見失ってしまうのです。

共にいることの反対は「孤独」です。

孤独には2種類あります。Lonlinessとsolitudeです。

前者は自分で自己完結しようとする思い、それは偽りの自分に導き、後者は神とともにある中の一人という意味があり、真実の自分に導いてくれます。

クリスチャンになってからもありのままで神様に愛されているということをなかなかそのまま受け止められないものです。自分でなんとかしようとすぐしてしまいがちです。

出エジプトはイスラエルが神の民になっていく姿を描いています。それは人が偽りの自分から真実の自分に、神とともにある自分になっていく過程を指しているのです。

先ほども言いました通りイエスと言う名前は神は救うという意味です。

モーセがかみが共にいてくださることにこだわったのは、それが私たちの人生に根本的に必要なことであり、私たちが真の自分になるために絶対必要なものだからです。

人は自活、つまり食べていくことはできても、神と共になくては、真の自立、自分が本当は何者であるかということを知って生きていくことはできないのです。

病気をしたり、年をとったり皆一人では何もできなくなる時がきます。

神とともにある自分を知ったときに、初めて、人は真実の自分になり、自立していられるのです。それは恐れる必要のないものを怖れてなくてよくなるということです。

イエスはなぜこの世に来られたか。それは神はどんな時もわたしたち人間と共にいてくださるということを人となることによって見せてくださったのです。

そして今はイエスは天に座しておられる。そして私たちに聖霊を注ぎ続けてくださっている。だから新約聖書は聖霊を通してでなければわからないのです。

神が私と共におられるということを信じて一歩踏み出してみられませんか。そうすれば、日々をそう信じつつ歩んでいくうちに、「ああ、ほんとに神はわたしたちと共におられるのかもしれない」と必ずやお感じになられると思います。

お配りする詩編を是非一日に一度でも口ずさんでください。この中にイエスの命が満ちています。それを口ずさむことで私たちは真の命の源に触れるのです。それがどれほど素晴らしいことなのか気付かされていくはずです。

「一緒に上っていかない」と言われた神さま、イスラエルの人々を滅ぼし尽くすかもしれないからと神様が怖れておられたというのです。

神さまが恐れておられる様子が描かれているのは聖書の中でここだけです。

でも神は私たちと共にいることをやめられませんでした。

今日も、明日も、明後日も、そのまた明日も神が私と共におられることを感謝していきましょう。

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2015年
8月23日
   「神に守られて その12」
   
出エジプト記18章13節~27節       

『聖書箇所』
18:13 翌日になって、モーセは座に着いて民を裁いたが、民は朝から晩までモーセの裁きを待って並んでいた。

18:14 モーセのしゅうとは、彼が民のために行っているすべてのことを見て、「あなたが民のためにしているこのやり方はどうしたことか。なぜ、あなた一人だけが座に着いて、民は朝から晩まであなたの裁きを待って並んでいるのか」と尋ねた。

18:15 モーセはしゅうとに、「民は、神に問うためにわたしのところに来るのです。

18:16 彼らの間に何か事件が起こると、わたしのところに来ますので、わたしはそれぞれの間を裁き、また、神の掟と指示とを知らせるのです」と答えた。

18:17 モーセのしゅうとは言った。「あなたのやり方は良くない。

18:18 あなた自身も、あなたを訪ねて来る民も、きっと疲れ果ててしまうだろう。このやり方ではあなたの荷が重すぎて、一人では負いきれないからだ。

18:19 わたしの言うことを聞きなさい。助言をしよう。神があなたと共におられるように。あなたが民に代わって神の前に立って事件について神に述べ、

18:20 彼らに掟と指示を示して、彼らの歩むべき道となすべき事を教えなさい。

18:21 あなたは、民全員の中から、神を畏れる有能な人で、不正な利得を憎み、信頼に値する人物を/選び、千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長として民の上に立てなさい。

18:22 平素は彼らに民を裁かせ、大きな事件があったときだけ、あなたのもとに持って来させる。小さな事件は彼ら自身で裁かせ、あなたの負担を軽くし、あなたと共に彼らに分担させなさい。

18:23 もし、あなたがこのやり方を実行し、神があなたに命令を与えてくださるならば、あなたは任に堪えることができ、この民も皆、安心して自分の所へ帰ることができよう。」

18:24 モーセはしゅうとの言うことを聞き入れ、その勧めのとおりにし、

18:25 全イスラエルの中から有能な人々を選び、彼らを民の長、すなわち、千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長とした。

18:26 こうして、平素は彼らが民を裁いた。難しい事件はモーセのもとに持って来たが、小さい事件はすべて、彼ら自身が裁いた。

18:27 しゅうとはモーセに送られて、自分の国に帰って行った。
メッセージの勘所

男だけで60万という群れです。イスラエルの民が総勢何人なのか想像もできません。しかし、これだけの人がいれば人々の間にもめごとが絶えなかったと考えるのが自然です。そして、その解決をモーセ一人で担っていたのです。これでは体がいくつあっても足りません。舅エトロのいうことはもっともなことです。パウロは「教会はキリストの体である」(Ⅰコリント12:27)と言っています。そして「1人1人はその部分である」と。そこに尊いとか卑しいとかいう区別はありませんが、うまく支えあわない限りその群れは成り立っていかないのです。
メッセージの要約

出エジプト記を学び始めて12回になります。

イスラエルの民は民族としては500年以上たっているといっても、最初から完全な形で存在していたわけではありません。エジプトでは何の決定権もなく、搾取されるような立場にいましたし、共同体としてはまだ赤子にもなってないような存在だったのです。

カナンの地に行けと神様から言われたものの、自分の国を作るためにすべてのことを一つ一つ学んでいかなければなりませんでした。

モーセという指導者が立てられましたが、彼一人ですべてのことができるわけはありません。

エジプトを出た人が何人いたか、女性、子供も含めて300万人いたのではと言う人もいます。

その共同体を内と外から守る知恵を得ていくにはかなりの時間と経験が必要だったのです。

モーセの舅が訪ねてきて、モーセが一人で人々の訴えを裁いているのを見て忠告を与えます。

エトロはイスラエル人ではありません。そのような人がモーセに忠告を与えていることが今日の一つのポイントであります。教会も周りの経験や知識を取り入れて成長してきました。

また教会は教会のことだけをしているのではなく、私たちの教会も碁会所や茶がゆの会をして周りの人との交流を深め、おそらく周りの方々からも色々なことを教えられてきていると思います。

エトロが言います「あなたのやり方は良くない。あなた自身も、あなたを訪ねて来る民も、きっと疲れ果ててしますだろう。このやり方ではあなたの荷が重すぎて、一人では背負いきれないからだ」

モーセが疲れ果てるということは共同体そのものが疲れることを意味します。また周りの人が疲れると、互いの関係がぎくしゃくしていくことにもなり、共同体に悪い影響を及ぼします。

なぜそのようにエトロが言いえたか、それは彼が一つの部族の長だったからです。彼もまた周りの助けによってその部族をまとめてきたことでしょう。

この助言により、モーセはすべてのことを抱える必要がなくなり、安心をイスラエルの民にもたらしました。

そして、任務にふさわしい人物が与えられていきました。

イスラエルの人は奴隷の状態から自由にされましたが、自由には責任を伴います。私たちも自由だからこそ責任をもって日本の国の将来にも自分の決断と意思を持って関わっていかなければならないと思います。

見ているとモーセは任務を委嘱することが苦手だったのではと思わされます。私も少し似ているところがあるかもしれません。一人一人が自分に何ができるかを考え、その責任が委託されていかなければなりません。そうやって共同体は生き生きとした命を保ち、託された働きを担っていくのです。

それぞれが担っている役割を神から頂いたものとして自覚していくことが大事です。
それが共同体としての成熟度に関わっていくのだと思います。

今日は中学3年生の女の子の作文を紹介しましょう。平成10年に内閣総理大臣賞を受賞した作文で、新聞に掲載されたものです。

『ビナアダム、私の道しるべとして』鈴木千恵  (山形県長井市立長井南中3年)

モリマ、ド、モリマ、ハワクタニ、ビナアダム、ド、ビナアダム、ワタクタニ
15歳になった私が初めて知った母の祖国の言葉でした。5月も終わろうとした時です。学級委員をしている私は担任の先生に残されました。「A君が悩んでいるのを知っているか?」実は私はたびたび繰り返す小さないじめを知っていましたたが、ささいなことと思い、見逃していました。ところが、先生は、今のクラスの状況をまとめて、さらに学級を見つめるアンケートを書くように言うのです。「なぜいじめている人に言わないで私に言うのだろう。遅くまで残されたうえに、どうしてここまで私がしなければいけないのだろう。」帰り道はもう真っ暗です。部活動で肉体的にも精神的にもくたくたになっている私は怒りが爆発し、何もかもいやになってしまいました。帰宅した私は、その怒りを母にぶつけました。
すると母は私を慰めるどころか、強く叱りつけました。「立候補してなった学級委員でしょ。最後まで責任を持ちなさい。」そして、あの言葉を私に言ったのです。モリマ・ド、モリマ、ハワクタニ、ビナアダム、ド、ビナアダム、ワタクタニ (山と山は会わない。人と人は会う〉山はそこから動くことはできない。しかし、人は動くことができる。そして、言葉を持っている。だから、人は自分から行動することをあきらめてはいけない。
母が大切にしてきた祖国のことわざにはそんな意味が込められているのでした。
アフリカのケニアに生まれ、タンザニアで育った母。青年海外協力隊として赴任してきた父と19歳で出会い、家族の大反対を押し切ってただ一人でこの地に嫁いできた母。言葉も通じず話し相手もいない。孤独感と戦ってきた母の苦しみは私の想像を絶するものだったでしょう。しかし、母はそんな時にこの言葉を思い出し、負けないで生きようと心に誓ってきたそうです。どんなに言葉や生活が違っても、人と人とは分かり合える。自分から動けば必ず心が通じると。
母の言葉は続きます。
あなたには自分からやろうとする強い意思がない。なんでも人に任せて自分の力を使おうとしない。それどころか、自分のことばかり考え周りの人を大切に考えることすら忘れているじゃないか。母の言葉は私の心に深く刺さりました。私は「ビナアダム(人)」ではなく、「モリマ(山)」だったのです。
その日から私は少しずつ変わりました。あまり親しくなかった人にも話かけたり、何か用事がある時はいっしょに手伝ってもらうように頼んだり、誰かが苦しんでいる時には何か力になれないかと考えられるようになりました。学級委員としての仕事は十分ではないけれど私は少しずつ「山」から「人」になりつつあります。
私たちは生きています。だから、もっとしっかり自分の意志を持ちましょう。自分の意志で自分から動いてみましょう。そして、心が通じあえるように人とかかわっていきましょう。そうすれば、「いじめ」などのいろいろな問題が私たち自身の手で解決していけるような気がするのです。
モリマ、ド、モリマ、ハワクタニ、ビナアダム、ド、ビナアダム、ワタクタニ。母が支えとしてきた祖国の言葉。私もその言葉を生きる道しるべとしながら進んでいきます。

この少女と同様に、イスラエルの民も神とのかかわりの中で、自分がたてられていることの意味や役割を学びとっていきました。それは決して平たんな道ではなかったのです。時に挫折し、と気に自分の弱さに涙し、時に人を恨み、そのようなのっぴきならない試練を通して私たちは自分の責任というものに気づいていくのです。

神様を信じているからといって、信仰の問題だけでなく、生活の問題もすべて解決してくれるわけではありません。でも私たちは神から言葉を与えられ、共同体の友達、仕事や能力を賜物としてすでに与えられています。また周りの人との出会いの中から知恵を与えられ経験を分かち合って、神の望まれる姿に少しずつ、少しずつなっていくのではないでしょうか。共同体もそのように育っていくのです。

一人一人神から使命を与えられています。時々、大切な勤めと分かっていても、でももうこれはやりたくないと思うこともあるかもしれませんが、時に愚痴をこぼすようなことも、周りの人と出会うきっかけになるかもしれません。

自分はまだできるのではないか、また謙虚になって、自分にはまだ足りないものがあるのではないかと問いつつ、育っていくそのようなものでありたいと願います。

私たちにとって居心地のいい群れだけでなく、この地域の人にとっても居心地のいい群れになっていくように鈴木千恵さんが自らも省みたように、自分を省み、これからも神に育てられてまいりましょう。

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2015年
8月9日
   「神に守られて その10」
   出エジプト記16章16~36節
       

『聖書箇所』
16:16 主が命じられたことは次のことである。『あなたたちはそれぞれ必要な分、つまり一人当たり一オメルを集めよ。それぞれ自分の天幕にいる家族の数に応じて取るがよい。』」

16:17 イスラエルの人々はそのとおりにした。ある者は多く集め、ある者は少なく集めた。

16:18 しかし、オメル升で量ってみると、多く集めた者も余ることなく、少なく集めた者も足りないことなく、それぞれが必要な分を集めた。

16:19 モーセは彼らに、「だれもそれを、翌朝まで残しておいてはならない」と言ったが、

16:20 彼らはモーセに聞き従わず、何人かはその一部を翌朝まで残しておいた。虫が付いて臭くなったので、モーセは彼らに向かって怒った。

16:21 そこで、彼らは朝ごとにそれぞれ必要な分を集めた。日が高くなると、それは溶けてしまった。

16:22 六日目になると、彼らは二倍の量、一人当たり二オメルのパンを集めた。共同体の代表者は皆でモーセのもとに来て、そのことを報告した。

16:23 モーセは彼らに言った。「これは、主が仰せられたことである。明日は休息の日、主の聖なる安息日である。焼くものは焼き、煮るものは煮て、余った分は明日の朝まで蓄えておきなさい。」

16:24 彼らはモーセの命じたとおり、朝まで残しておいたが、臭くならず、虫も付かなかった。

16:25 モーセは言った。「今日はそれを食べなさい。今日は主の安息日である。今日は何も野に見つからないであろう。

16:26 あなたたちは六日間集めた。七日目は安息日だから野には何もないであろう。」

16:27 七日目になって、民のうちの何人かが集めに出て行ったが、何も見つからなかった。

16:28 主はモーセに言われた。「あなたたちは、いつまでわたしの戒めと教えを拒み続けて、守らないのか。

16:29 よくわきまえなさい、主があなたたちに安息日を与えたことを。そのために、六日目には、主はあなたたちに二日分のパンを与えている。七日目にはそれぞれ自分の所にとどまり、その場所から出てはならない。」

16:30 民はこうして、七日目に休んだ。

16:31 イスラエルの家では、それをマナと名付けた。それは、コエンドロの種に似て白く、蜜の入ったウェファースのような味がした。

16:32 モーセは言った。「主が命じられたことは次のことである。『その中から正味一オメルを量り、代々にわたって蓄えよ。わたしがあなたたちをエジプトの国から導き出したとき、荒れ野で食べさせたパンを彼らが見ることができるためである。』」

16:33 モーセがアロンに、「壺を用意し、その中に正味一オメルのマナを入れ、それを主の御前に置き、代々にわたって蓄えておきなさい」と言うと、

16:34 アロンは、主がモーセに命じられたとおり、それを掟の箱の前に置いて蓄えた。

16:35 イスラエルの人々は、人の住んでいる土地に着くまで四十年にわたってこのマナを食べた。すなわち、カナン地方の境に到着するまで彼らはこのマナを食べた。

16:36 一オメルは十分の一エファである。
メッセージの勘所

『あなたたちの富があるところに、あなたがたの心もある』(ルカ12:34)とイエスはおっしゃいましたが、それこそまさに神がここで試そうとされた(4節)ものでした。神を抜きにして考えるならば、私たちにとって必要なのはマナを集める能力です。その差で貧富の差が決まります。でも、神は『1オメル集めなさい』と言われたのです。ですから他人より多く集まられるかどうかは関係ないのです。ただ、私たちが手にするものはすべて神のおかげであるということを私たちが認めて、それに従うかどうかなのです。
メッセージの要約

本日の午前11時2分、70年前に長崎に原爆が落とされました。その日一日で7万人の人が亡くなりました。藤井寺市の人口がそっくり亡くなったのです。そのことを覚えしばし黙祷しましょう。

さて今日の聖書の箇所も出エジプト記からです。430年間をエジプトで過ごしたイスラエルの民、奴隷の状態にあったところからやっと解放されて旅立ったその途上でのできごとです。イスラエルの民はエジプトでの長い奴隷生活の中で信じていた神と今現在の旅の途中で知る神との違いを学んでいきました。

エジプトでは重労働の日々でしたが食べ物には何とかありつけていました。
しかし、荒野を旅することになってまずできてきたのは食い扶ちの問題でした。ついエジプトの方がよかったとつぶやいてしまう彼らの気持ちも無理ないことと思われます。そんな中で彼らは神に出会って神を信頼して生きるとはどういうことかを教わっていったのでした。
その期間は40年に及びます。その間神は「マナ」というのを降らせて養われたのでした。

神は「あなたがたは必要な分だけ集めなさい」といわれましたが中には多く集めた者もいました。しかし翌日まで残していたマナは腐っていました。(16節~20節)メッセージの勘所にも書きましたが、神様ぬきのこの世では沢山集められる人が尊敬される人、力のある人です。しかし、神様は他人より多く集めるかどうかは関係ないと言われます。むしろ私たちが手にするお金はすべて神のお金であることを認めて、神に従うかどうかこそ求めておられるのです。

また、先のことが心配で、明日の分まで集めた人がいたように、私たちも先のこと、先のことを心配し悩みは尽きません。備えあれば憂いなしというようにそれも真なのではありますが、もし主を信頼するということを知らなかったら、今を楽しんで生きるのでなく、心配に心配を重ね、血を流しながら続けるマラソンのような人生になってしまうことだってあるのです。

日本において小学生の自殺者が一番多い日は9月1日だそうです。それは、新学期が始まる明日から、また自分がいじめられるかもしれないという恐れから自殺が多いと言われています。小学生までそんな苦労をしているのです。

ルカによる福音書12章を見てみましょう。
12:20 しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。
12:21 自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」
12:22 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。
12:23 命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。
12:24 烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか。
12:25 あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。
12:26 こんなごく小さな事さえできないのに、なぜ、ほかの事まで思い悩むのか。
12:27 野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
12:28 今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである。信仰の薄い者たちよ。
12:29 あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。
12:30 それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。
12:31 ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。
12:32 小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。
12:33 自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。
12:34 あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」

あなたがたの心はどこにあるか、それはあなたがたの富があるところと一つです。

イエスは尽きることのない天に富を蓄えなさいと言われましたが、それはあなたがたの心を神に向けなさいとのことです。

長崎に原爆を落とした決断をしたのは、トルーマン大統領でした。私たちサザンバプテストの信徒でした。原爆を落としたらどんな被害があるか知っていなかったはずはありません。残念ながらこれが人間のやることです。

イエス様が言われたように、「烏」や「花」を時々自分の先生として見るようなまなざしが必要なのではなないでしょうか。

人が人を殺すという悲惨な現実がこの世界にはあります。人間が持っている罪深さもしっかりとみないといけないのです。それと同時に花や烏が謙虚に生きていることに眼をむけなければなりません。

赤ちゃんの目は澄んでいますよね。神様のところから来たばっかりだからだでしょうか、神様の澄んだ心を映しているようです。

自分の目が澄むように私たちも神の方に眼を向けていかなければなりません。

マタイ6章19節には、
6:19 「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。
6:20 富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。
6:21 あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」
6:22 「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、

6:23 濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」

私たちは自分の心に何を写しているか、それが目に現れるのです。神の方に目を向けていくときに自然と目は澄んでくるものです。そしてこの地上で何が大事かをしらされていくのです。

澄んだ目とは二つのものを一遍に見ようとしない目と言った牧師がいます。どうしても私たちは二股をかけて、純粋に神を見つめることが少ないように思います。

ある養護施設での話です。一人の少女が既定の年齢に達し養護施設を出なければいけなくなったので、先生はその子にお金の価値を教えました。1円玉、5円玉、10円玉、50円、100円、500円と並べて、500円玉が一番大きく価値があるお金だと繰り返しさとしました。2時間くらい繰り返し知恵をつくして教えた後、そしてその子に、「じゃあ、この中で一番大事なのはどれか」と聞くと、その子はなぜか10円と答えるのでした。先生はそのあとも500円玉が一番大事なんだとこんこんと言って聞かせましたが、それでも「どれが一番か言ってごらん」といわれるとやっぱり10円玉を指さすのでした。とうとう先生の方が根負けして、「何で10円なの?」と聞くと、その答えは「10円玉を入れると公衆電話でお父さんの声が聞けるから」でした。この地上ではお金の価値は1円より、5円、5円より10円、10円より500円と上がります。
しかしどんな高額なお金より、父さんとはなせることの方が、この少女にとっては価値があったのです。
私たちはいったい何に価値を置いているでしょうか。天の父と繋がっていることでしょうか、それともほかに・・・・。

この出エジプト記で神様はいつまで私の言っていることにさからうのかと言われましたが、私たちはいつまで自分の価値あるものにこだわり、いつまで自分の心配に捕らわれていくのでしょう。

第一ペテロの手紙5章を見てみましょう。

5:7 思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。

私たちの思い煩いは神が心配してくださることです。

神の心には私たちが映っているのです。私たちの心を神に向けましょう。
私たちの心は雲っていませんか?私たちの心が他で曇っているから神が見えなくなっているということはないですか。

お祈りしましょう。
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2015年
7月26日
   「神に守られて その8」
   
       

『聖書箇所』
14:5 民が逃亡したとの報告を受けると、エジプト王ファラオとその家臣は、民に対する考えを一変して言った。「ああ、我々は何ということをしたのだろう。イスラエル人を労役から解放して去らせてしまったとは。」

14:6 ファラオは戦車に馬をつなぎ、自ら軍勢を率い、

14:7 えり抜きの戦車六百をはじめ、エジプトの戦車すべてを動員し、それぞれに士官を乗り込ませた。

14:8 主がエジプト王ファラオの心をかたくなにされたので、王はイスラエルの人々の後を追った。イスラエルの人々は、意気揚々と出て行ったが、

14:9 エジプト軍は彼らの後を追い、ファラオの馬と戦車、騎兵と歩兵は、ピ・ハヒロトの傍らで、バアル・ツェフォンの前の海辺に宿営している彼らに追いついた。

14:10 ファラオは既に間近に迫り、イスラエルの人々が目を上げて見ると、エジプト軍は既に背後に襲いかかろうとしていた。イスラエルの人々は非常に恐れて主に向かって叫び、

14:11 また、モーセに言った。「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか。

14:12 我々はエジプトで、『ほうっておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましです』と言ったではありませんか。」

14:13 モーセは民に答えた。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。

14:14 主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」

14:15 主はモーセに言われた。「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい。

14:16 杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる。

14:17 しかし、わたしはエジプト人の心をかたくなにするから、彼らはお前たちの後を追って来る。そのとき、わたしはファラオとその全軍、戦車と騎兵を破って栄光を現す。

14:18 わたしがファラオとその戦車、騎兵を破って栄光を現すとき、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。」

14:19 イスラエルの部隊に先立って進んでいた神の御使いは、移動して彼らの後ろを行き、彼らの前にあった雲の柱も移動して後ろに立ち、

14:20 エジプトの陣とイスラエルの陣との間に入った。真っ黒な雲が立ちこめ、光が闇夜を貫いた。両軍は、一晩中、互いに近づくことはなかった。

14:21 モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた。

14:22 イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった。

14:23 エジプト軍は彼らを追い、ファラオの馬、戦車、騎兵がことごとく彼らに従って海の中に入って来た。

14:24 朝の見張りのころ、主は火と雲の柱からエジプト軍を見下ろし、エジプト軍をかき乱された。

14:25 戦車の車輪をはずし、進みにくくされた。エジプト人は言った。「イスラエルの前から退却しよう。主が彼らのためにエジプトと戦っておられる。」

14:26 主はモーセに言われた。「海に向かって手を差し伸べなさい。水がエジプト軍の上に、戦車、騎兵の上に流れ返るであろう。」

14:27 モーセが手を海に向かって差し伸べると、夜が明ける前に海は元の場所へ流れ返った。エジプト軍は水の流れに逆らって逃げたが、主は彼らを海の中に投げ込まれた。

14:28 水は元に戻り、戦車と騎兵、彼らの後を追って海に入ったファラオの全軍を覆い、一人も残らなかった。

14:29 イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んだが、そのとき、水は彼らの右と左に壁となった。

14:30 主はこうして、その日、イスラエルをエジプト人の手から救われた。イスラエルはエジプト人が海辺で死んでいるのを見た。

14:31 イスラエルは、主がエジプト人に行われた大いなる御業を見た。民は主を畏れ、主とその僕モーセを信じた。
メッセージの勘所

物事がうまくいきすぎて不安になったことはありませんか。イスラエルの人々はエジプトから命からがら出てきたわけではありませんでした。贈り物をふんだんにもらって意気揚々と出てきたのです。でも、背後に迫るエジプトの戦車軍団を見た時、彼らの心は一瞬で恐怖に染まりました。男だけで60万人分の非難と糾弾の叫びが主とモーセに向けられたのです。彼らが見ていたのは血の海と阿鼻叫喚の渦でした。しかし、それはイスラエルに起こったのではなく、エジプト軍とファラオに起こったのです。
メッセージの要約

今日の場面は、チャールストンヘストン主演の「十戒」という映画でも、その映像が話題になった箇所です。海が分かれて道ができる、すごい映像でしたが、全能の神様からすれば海を二つに分けることくらいできて当たり前だったのではないでしょうか。だって、この世界を創造された方ですから。

しかし、イスラエルの人たちにとってこれは忘れることのできない記憶になっていきました。その後危機にあったとき、この出来事を繰り返し思い出したのです。

しかし同時に覚えておかなければならないのは、こんな奇蹟を目にしたのに、なぜイスラエルの民は40年間も荒野をさまよわなくてはいけなくなったかということです。15章の22節を見てみましょう。「マラの苦い水」と題されていますが、「モーセはイスラエルを、葦の海から旅立たせた。彼らはシェルの荒れ野に向かって、荒れ野を三日の間進んだが、水を得なかった。マラに着いたが、そこの水は苦くて飲むことができなかった。こういうわけで、そこの名はマラ(苦い)と呼ばれた。民はモーセに向かって、『何を飲んだらよいのか』と不平を言った。」とありますように、早くも不平を言ったのです。彼らは神を信じ続けることができなかったのです。

私もこのイスラエルの人達を批判できません。自分がピンチに陥るとなんでこんななんだとすぐ神さまと自分に呟く私です。

前に海、後ろに戦車、このような経験が私たちにもあるのではないでしょうか。教会の2000年の歴史の中にも同じような状況になったことが何度でもありました。そのような中でこの葦の海の奇蹟のできごとはいつも想起されてきたのです。

教会や神の民がよりどころとしたのは、人の情熱ではなく、ただひたすら神への信仰でした。神さまならばそれを打開し、成しえるという思いだったと思います。

葦の海を割って進むそのできごとは輝かしいできごとでしたが、それ以上に心にとめるべきは、これを信じるに人にはどういう人生が開けていくかということです。

キリスト教は自分が願うことは必ずかなえられると信じる宗教ではありません。キリスト教は私が願っていることは実際に起こりうると信じる宗教であります。私も祈ってもかなえられなかったことの方が多いです。
そうなったのは私の祈りや信仰が足りなかったからではありません。
信仰を持って祈れば必ず願っていることは実現するというのではないのです。私が信仰を持って祈ればそれは必ず起こるのではなく、神が望まれることは起こりうるということです。実現する可能性がある、だから願いなさい、祈りなさいということです。これがキリスト教です。神がお望みならそれは起こりうるのだということです。

今も教会は困難な運動を展開しています。宣教師を派遣したり、政府に抗議の文章を送ったり、バプテスト連盟でも色々な活動をしています。かなえるのが困難とも思えることにも、神さまならそれがおできになると思うからなされるのです。
だから私たちはたとえ前に海、後ろに戦車という状況になっても、決して絶望に打ちひしがれてしまうことはないのです。私たちは失敗もします。私たちの力は弱いし、信仰も弱いかもしれない。それでも神さまは私たちを用いてこの地上にご自身の業を進めようとなさっています。

私たちの人生の中でもこの葦の海をわたった時のように、「神さまが私たち共におられるんだ、なんてすごいことなんだ」と意気揚々と思えた瞬間もあれば、その三日後には些細なことで周りに不平を言ったり、人にあたったりしたということを皆さんも経験されてきたのではないでしょうか。

詩編93篇を見てみましょう。

93:1 主こそ王。威厳を衣とし/力を衣とし、身に帯びられる。世界は固く据えられ、決して揺らぐことはない。
93:2 御座はいにしえより固く据えられ/あなたはとこしえの昔からいます。
93:3 主よ、潮はあげる、潮は声をあげる。潮は打ち寄せる響きをあげる。
 93:4 大水のとどろく声よりも力強く/海に砕け散る波。さらに力強く、高くいます主。
93:5 主よ、あなたの定めは確かであり/あなたの神殿に尊厳はふさわしい。日の続く限り。

ここで書かれている打ち寄せる潮とはバビロン捕囚のことです。しかし神は力強く、高くいます主と謳われています。
国が滅んでしまってもイスラエルの民は神への信仰を新たにしていきます。国は消滅し、王様は眼をえぐられて、敵の国へ連れて行かれ、多くの民が奴隷となってもなお、「主よあなたはおられる、私たちの神は力強く高くおられる方」と謳っているのです。さらに「あなたの定めは確かである」とさえ謳っています。
私たちはそのことを礼拝において確認することができます。
5節「あなたの神殿に尊厳はふさわしい」と言われているのは、イスラエルの民は国が滅ぶという根底が引っくり返るような出来事を経験しても、礼拝することを止めなかったということを示しているのです。

現代における私たちの状況はどうでしょうか。私たちは何を信仰してもよい自由さえ与えられているのです。でもそれをちゃんと使いこなせているかというと、本当に目を覆いたくなるような惨状がいたるところに広がっています。アラブ諸国しかりです。つい数年前にはアラブの春がきたと喜びに沸く人々の様子が繰り返し映像で流されていましたが、今やそれ以前の状況よりさらに混沌としています。ベルリンの壁が崩壊したあとも、チェコスロバキアやユーゴスラヴィアなどの国々で民族間の戦いが続いています。

自由を使いこなせない人間の姿がそこにありますが、それでも神は人間を見捨てられないのです。

どんな状況の中にあっても私たちは神様の手の中にあります。神さまの手が私たちを支えてくださっています。

キング牧師、ウエスレー、皆、困難な壁に向かいながらも神さまならおできになると信じてきたのです。神さまならばそれをなすことが科のであると信じるからこそ、人々は祈り続け、忍耐し続けることができたのではないでしょうか。

先週バプテスト誌編集委員として静岡教会に行ってきました。ある婦人がこんなことをおっしゃったのです。『私は山崎夫人(現教会員・元静岡教会牧師夫人)からお手紙をもらったのですが、その手紙には「わたしはあなたのために20数年間祈っている」と書かれていて本当に嬉しかったこと、今でもその手紙が自分にとっては宝だ』と言われた方がおられました。20年間祈り続ける、そういう力は神さまから頂くしかないのです。

これからも高い波が私たちに押し寄せてくることもあるでしょう。人生これで安心と思う時はないのであります。しかしさらに力強い主がおられます。私たちの思いをはるかにこえた主のご計画を持って神は私たちの臨んでおられる、そのことを覚えていきたいと思います。

お祈りいたしましょう。
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2015年
6月28日
   「神に守られて その4」
   
出エジプト記3章1~15節       

『聖書箇所』
3:1 モーセは、しゅうとでありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていたが、あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。

3:2 そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。

3:3 モーセは言った。「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。」

3:4 主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。神は柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼が、「はい」と答えると、

3:5 神が言われた。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」

3:6 神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。

3:7 主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。

3:8 それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。

3:9 見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。

3:10 今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」

3:11 モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」

3:12 神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」

3:13 モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」

3:14 神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」

3:15 神は、更に続けてモーセに命じられた。「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。これこそ、とこしえにわたしの名/これこそ、世々にわたしの呼び名。
メッセージの勘所

わたしはあるという者と言われても、触ることも見ることもできないものをどうやって理解すればいいのか。モーセは言われていることの意味をどのように理解したのでしょうか。私には、モーセにも理解できたとは思いません。むしろ今頃になって現われた神に戸惑っただろうと思います。ここでもう40年も暮らしているのです。エジプトはもう思い出の彼方。妻も子供もいます。いまさら何なんですか?というのが本音だったのではないでしょうか。
メッセージの要約

1年に1度の神学校週間がめぐってきました。

私は1985年に神学校に入学しました。
人が神さまに出会うのにはそれぞれのあり方があります。そしてその中でもある人々はそれぞれ違った状況に置かれながらも、ある時、牧師としてこの神に従っていこうと不思議なことに決心するわけです。

私の場合は、所属する教会で祈祷会がおこなわれていましたが、そこで当時小学校6年生の小児白血病のお子さんのことが祈られていました。彼は九州大学病院に入院していました。そこには大勢の子どもたちが入院していて、普通の子どもたちと変わらないような日常もありましたが、しかし、同じ小児病棟の友だちのベッドがある日突然空になっているということが起こるのが病院です。そんな時彼の心はどんなに傷つき、またいつか自分もと考えた時に、その恐怖はいかばかりだったでしょう。
しかし信じられないことに彼の病棟に行くと、見舞いにいった人が逆に慰められていくのでした。彼が中学1年生の冬、病状は悪化の一歩をたどっていましたが、韓国に行くことを望みました。その当時韓国の教会では多くの癒しが起こっていたからですが、その時彼は小さな個室にこもり一人きりで祈ることを体験しました。その祈祷室から出てきた時、彼の中に「もし自分の病気が治ったら、神様に自分を捧げます」という決意を与えられたのでした。しかし、彼の病は癒されることなく、それから半年で天国に召されました。私は直接彼と話したこともありませんでした。召される前年のクリスマスに聖歌隊で病院を慰問した時、遠目から「あれが彼かな」と確認したくらいです。私は間接的にしか彼を知りません。しかし、なぜかそのとき、彼がこの世では果たせなかった夢、牧師になるということを自分が変わりに果たすことはできないかと思ったのです。そこから私は自分が牧師になるということを祈り始めました。しかし、神学校での学びの間、何度も自分の召命が問われるのです。周りから「あの人は神学生だ」という目で見られることのプレッシャーは半端ではなかったです。しかし、そのようなプレッシャーや、挫折、試練、訓練を受けて、神学生は牧師として教会に派遣されていくのです。
  どうぞこの1週間神学生のために祈ってください。また献身者が起こされるように祈ってください。

今日の箇所にもどりましょう。

モーセは自分が犯した殺人のためひたすら逃げたのですが、その出来事から既に40年が過ぎていました。彼はこの40年間ミディアムの地でどのように過ごしたのでしょうか。逃亡のためにモーセが失ったもの、それは王子としての特権、自由、裕福さ、まさに今を生きる私たちがほしいと思うようなすべてでした。その上、殺人犯というレッテルをはられ、友達もすべて失ったでしょう。
それは彼にとっていいようのない苦しみだったと思われます。なるべく心に蓋をして思い出さないようにしたでしょう。王宮の家族、ヘブライ人の家族、その信頼を無くしてしまったことが一番こたえたかもしれません。

2章14節にある「誰がお前を我々の監督や裁判官にしたのか。お前はあのエジプト人を殺したように、このわたしを殺すつもりか」この言葉が何回も浮かんだことでしょう。

しかしただ失っただけではありませんでした。その代わりと言っては語弊があるかもしれませんが、ここでの40年間に妻、子ども、家畜を飼う技術、荒野で生き抜く技術を得たのです。そしてここに一つの国家というものを知り、それを導く知識、戦における戦術、さらに荒れ野を生き抜く技術を備えたリーダー候補が誕生したのです。

ある日、モーセは荒野に出た時、芝の間に燃え上がっている炎を見つけました。モーセはそれに惹かれて近づいていきます。彼は「君子危うきに近寄らず」のことわざに倣い、そこを離れるということもできたのです。しかし、彼はそこで何が起こっているのかを確かめようとしました。そのような出会いを神さまが企てられた背景には、モーセの中に故郷への思いや後悔、今の自分への疑問などがあるかということ知ろうとされたのではないかと思います。

芝の中から声がしました。モーセの名を呼ばれたのです。
「そこで履物をぬぎなさい」モーセが神に従うかどうかを見極めるように神様はゆっくり進まれます。
聖書に神を見た者は死ななければならないとあるので、モーセは神も見ることを恐れて顔を覆いました。彼はこの後いくつもの難題に直面しますが、モーセが「恐れた」と書かれているのはここだけです。

神はモーセにエジプトにいる同胞の状況を伝えられます。これはまさしく彼が40年間気にしていたものでした。

モーセは問います。「私は何者でしょう。」殺人者となり、逃亡者として生きてきた身です。エジプトに行きたいと思っても、それは実際には不可能だろうとあきらめようとしていたかもしれません。

これは誰もが直面する問題です。日本人は生まれてきたときから仏教とか、神道とかの家に生まれている方が多いですから、それ以外の神を信じることを言い表して信仰を持つことに逡巡を覚えない人はいないと思います。そして、神のために何かをやりたいと思ったとしても、それに自分がふさわしくないという理由をたやすく見つけることができるでしょう。そして二の足を踏むのです。

しかしこの時、そのような人間の弱さを知りぬいておられる神はモーセの問いに直接答えないで「私はあなたと共にいる」ということを持って答えとされます。キリスト教の救いとは病気が治るということとかではなく、まさに神が私たちと共におられるということそのものです。共にいることを持って救うと言われます。イエスという名は「主は救う」という意味です。また「インマヌエル」とも呼ばれました。それは「神が共にいる」ということを表しています。つまり共にいることを持って救うという神の決意の表れと言えます。あなたは一人ではないし、一人ですべてのことを行わないでいいということなのです。このことこそわたしがあなたを遣わすしるしであると神はモーセに言われました。

私たちは自分のことを問題にして、神が招いておられる招きを拒み続けます。私もかつてそういう者でした。しかし私たちは神から呼ばれています。そう呼ばれる方の名前は「私はある」という名前の方です。

電車にのっているときに、たくさんの人と一緒に乗っていますが皆バラバラです。皆同じ車両に一緒にはいますが、そこに何のつながりもありませんから、共にいるのとは違います。でも神様はあなたと共にいると言われます。

だから「私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」というように、誰々の神とご自身をおっしゃったのです。神はアブラハムの神であり、○○さん、あなたの神でもあるのです。

そして「私はある、いつもあなたと共にいる神」と言われるのです。

あたなが置かれたところで今、神は私たちに語りかけようとしておられるのではないか、その背後に神がおられるのではないかと、このモーセの箇所からそういう思いを秘めておくならば、これからも色んな形で神からの問いかけを聞きとることができるのではないかと思います。

私は全君のようにはやれないけれど、私にできることを、与えられているものを使いきって神さまの元にいけたらいいと思います。

モーセは彼が持っていた後悔や恐れの一つ一つを、これから神さまに用いられ、整えられていくことを体験していくのです。

これからもモーセの物語を一緒に見て行きましょう。

お祈りいたします。
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2015年
6月14日
   「神に守られて その2」
   
出エジプト記1:22~2:10       

『聖書箇所』
1:22 ファラオは全国民に命じた。「生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め。女の子は皆、生かしておけ。」

2:1 レビの家の出のある男が同じレビ人の娘をめとった。

2:2 彼女は身ごもり、男の子を産んだが、その子がかわいかったのを見て、三か月の間隠しておいた。

2:3 しかし、もはや隠しきれなくなったので、パピルスの籠を用意し、アスファルトとピッチで防水し、その中に男の子を入れ、ナイル河畔の葦の茂みの間に置いた。

2:4 その子の姉が遠くに立って、どうなることかと様子を見ていると、

2:5 そこへ、ファラオの王女が水浴びをしようと川に下りて来た。その間侍女たちは川岸を行き来していた。王女は、葦の茂みの間に籠を見つけたので、仕え女をやって取って来させた。

2:6 開けてみると赤ん坊がおり、しかも男の子で、泣いていた。王女はふびんに思い、「これは、きっと、ヘブライ人の子です」と言った。

2:7 そのとき、その子の姉がファラオの王女に申し出た。「この子に乳を飲ませるヘブライ人の乳母を呼んで参りましょうか。」

2:8 「そうしておくれ」と、王女が頼んだので、娘は早速その子の母を連れて来た。

2:9 王女が、「この子を連れて行って、わたしに代わって乳を飲ませておやり。手当てはわたしが出しますから」と言ったので、母親はその子を引き取って乳を飲ませ、

2:10 その子が大きくなると、王女のもとへ連れて行った。その子はこうして、王女の子となった。王女は彼をモーセと名付けて言った。「水の中からわたしが引き上げた(マーシャー)のですから。」
メッセージの勘所

絶対、完璧だと思われていた権威者が、取るに足りない弱々しい者らに見事に返し技を決められて、怒り狂った末に、全国民の男の赤子を殺害するよう命令を下しました。しかし、事態はいっそう権威者にとって悪い方へ進んでしまうのです。彼は後に自身にとって最も脅威となる者に、自身の帝国の最上のものを提供することになるのです。このお話は私たちが良く知っている寓話に出てくる、自分が裸である事を知らずにいた王の話しとそっくりです。
メッセージの要約

エジプトの国にへブライ人(ユダヤ人)がやってきて400年たったころのお話しです。

先週もみたように、エジプトの王ファラオは増え広がったヘブライ人をおそれ、ヘブライ人の助産婦に命じて秘密裡に生まれてくるヘブライ人の男の赤ちゃんを殺すようにたくらみます。しかしヘブライ人の助産婦は神をおそれる人達だったので、赤子の命を救っていきました。

この計画がうまくいかなかったファラオはさらにその残虐な行為をエスカレートしていきます。
生まれてくるヘブライ人の男の子をナイル川へ投げ込むようにとの命令をだすのです。ナイル川は豊穣の女神でもあり、死を司る神でもあったのですが、そのナイル川に放り込めとファラオは命じたのです。

このような中でうまれてきた子、それがモーセです。かわいかったと書かれています。この「かわいい」という言葉は聖書で他の箇所にも出てきます。創世記1章4節「神は光を見て、良しとされた」この「良し」という言葉が「かわいい」と同じです。ここには神がモーセの命をどのように見ておられたかが示されているのです。神はモーセの命を良しとされました。それは、命は神が与えたもうものであるから、誰も神の与えた命を勝手に奪ってはならないという意味です。また、神が与えたものであるから、どの命も他と比較される必要のないそれぞれに尊いものであるということなのです。

ファラオはヘブライ人の生まれてくる男の子に「お前など生まれてこなくていい」と言わんばかりの行いをしましたが、神さまは「ひとはみな私の許しのもとに生まれてきたのだ」とおっしゃって、祝福してくださるのです。

イザヤ書43章1節から「ヤコブよ、あなたを想像された主は イスラエルよ、あなたを造られた主は 今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。水の中を歩いても、焼かれず 炎はあなたに燃えつかない」
これが神さまから見た私たちの姿なのです。私たちの真の命の価値なのです。
主は「あなたは価高く、尊い」(イザヤ43:4)と私たちのことを招いておられます。
たとえ時に私たちが自分の能力のなさをなげき、卑下しようとも、また私たちの前に強大な権力や問題がたちはだかっていてもです。

モーセの両親は赤ちゃんを隠し切れないとわかって、ナイル川に籠にいれて赤子を川の中に生えている葦の中におきました。そこにタイミングを計ったかのように、ファラオの子供である王女が水浴びに下りてきてヘブライ人の子供とわかりながら、赤子の命を助けたのです。

神さまは助産婦、モーセの両親、ファラオの王女を用いていかれます。絶対絶命の中でも見えないお方に信頼し目をそちらに向けていくことが大事だと教えているようです。見えることの中にではなく、見えないことの中にもう一つの響きを聞き取っていくことが大事なのです。

あなたの命は偶然ここにあるんじゃない、あなたの命は高価で尊いのだという私たちを超えた方の声が響いているのです。

詩編37:7を読んでみましょう。「沈黙して主に向い、主を待ち焦がれよ。繁栄の道を行く者や 悪だくみをする者のことでいら立つな。怒りを解き、憤りを捨てよ。
自分も悪事を謀ろうと、いら立ってはならない。悪事を謀る者は絶たれ 主に望みをおく人は、地を継ぐ。」

第一コリント1:26には「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。」ともあります。

この言葉通り何の力もない女性を通して救いの業をなさいました。現人神として臣下の生死を握っているファラオの企てを、当時、物と同じ価値しかなかった女性たちがみごとに突破していくこのあり様はまさに神の方法そのものです。

私たちバプテスト連盟の海外派遣宣教師としてインドネシアで働かれた木村先生には3人お子さんがおられますが、お一人は養子です。その方はある日教会の玄関に捨てられていたのです。先生は奥様と3人のお子さんたちと一緒にインドネシアに赴任され、お子さんたちはインターナショナルスクールで学びました。その中に一人のアメリカ人の子弟がいて、ある日アメリカに帰国したその子から、養子として育てられたお子さんのところにメールが来たそうです。
「私はどうたらいいかわからない。ボーイフレンドが私のお腹の中にいる子供を下すようにいうのよ」それに対して彼は「あなたのボーイフレンドはいい人ではない。わたしは捨て子だったけれど、今、産んでくれた両親に感謝している。なぜなら両親が自分を産んでくれなければ、私はここにいなかった。人の愛も醜さも、人の強さも弱さも知ることができなかった。そして何のために生きているのかもしらないで終わっているところだった。だから君はそのボーイフレンドの言うことを聞いてはいけない」と言ったそうです。
命は自分の勝手にしていいものではない、どんな命も高価で尊いんだ、ということを彼は知っていたからそう言えたのだと思います。
マザーテレサもまた「全ての命は父に望まれてあり、すべての命は父の御許に帰るのだ」と言っておられました。
だから先週も命をまず選ぼうとお話ししました。また、悪の反対は善ではなく愛である。悪に対して愛で向かい合おう。命を選んでいこう。それが私たちに対して神が望んでおられることではないでしょうか。

お祈りいたしましょう。
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2015年
5月24日
   「人間の証明」
   
使徒言行録20章17節~24節       

『聖書箇所』
20:17 パウロはミレトスからエフェソに人をやって、教会の長老たちを呼び寄せた。

20:18 長老たちが集まって来たとき、パウロはこう話した。「アジア州に来た最初の日以来、わたしがあなたがたと共にどのように過ごしてきたかは、よくご存じです。

20:19 すなわち、自分を全く取るに足りない者と思い、涙を流しながら、また、ユダヤ人の数々の陰謀によってこの身にふりかかってきた試練に遭いながらも、主にお仕えしてきました。

20:20 役に立つことは一つ残らず、公衆の面前でも方々の家でも、あなたがたに伝え、また教えてきました。

20:21 神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰とを、ユダヤ人にもギリシア人にも力強く証ししてきたのです。

20:22 そして今、わたしは、“霊”に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。

20:23 ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています。

20:24 しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。

メッセージの勘所

「物語はいよいよパウロの晩年へと向かっていきます。その過程でパウロは本当は行きたくない道へ進むことを選びました。しかもそれを促したのは聖霊だったのです。パウロにとって聖霊の導きに従うことは単に生き延びること以上に大切なことになっていました。そういうとパウロは勇敢な男だったと言われるかもしれません。しかしそのように言われることをパウロは決して望まないでしょう。パウロは私の目を彼自身にではなく、聖霊へと向けようとしているのですから。
メッセージの要約

聖書教育の写しを診てください。そこに今日はペンテコステの日と書いてあります。そうです、今日は聖霊降臨日なのです。その日、舌のようなものが天から降り注ぎ、ある人は予言し始めたと記されています。この日から使徒たちは新たな力を得てさまざまな活動をしていったのです。病む人を癒したり、奇跡をおこなったりということも起こりました。

聖霊が存在しなかったら、イエス様を生き生きと感じることもできません。メッセージを準備するとき聖霊の働きがなかったらただの人のことばにすぎません。聖霊の力が神の言葉を生み出し、メッセージも神の言葉としてあなた方に届けられるのです。皆さんが聖書を読まれるときも聖霊様に教えてくださるように祈ってから読まれる方もおられるでしょう。

聖霊がこの世に使わされたのは、イエス様が33年間のときを生き切ってくださり、神様のもとにすぎ越していかれたからです。それによって聖霊が私たちのもとに遣わされ、聖霊の力により私たちは生かされることができるのです。

パウロはその聖霊の導きによりエルサレムに出向こうとしているのです。エルサレムでパウロを待ち受けているものは苦難であることを聖霊は示していました。彼だって心の中で、できることなら避けたい思い、怖れや不安があったことは間違いないでしょう。なぜならイエスさまだってそうだったのですから…。

このとき、パウロは大きな分岐点に立っていました。自分の命を優先して生きるのか、自分の命を含めたすべてを聖霊の導きにゆだねて生きるのか、その分岐点だったのです。後者を取れば詩編23編にある死の谷に導かれることになるのです。それは言葉で言うほど簡単なことではありません。その苦しみは人間の意志や力では乗り越えられないものだからです。そのパウロは直に会って別れを告げるために、にエフェソ教会の人たちをこの港町まで呼び寄せました。そのエフェソの人たちに向かって語るのです。

「福音を証するために、私の人生はあるのです。聖霊が、どんな時にも私を励ましてくれるでしょう。」

そして彼は私たちが福音をかみしめてどのように生きたか、共にエフェソにあって労苦し、しかし生き生きと輝いていたその時を思い起こすように薦めています。

そして最後にパウロができることは何か、それは神に信頼し神に委ねることだと宣言しているのです。

そして神の時を待つこともです。

私たちが年を取ることについても同じようなことが言えます。最近はアンチエイジングが大流行で、実年齢より若く見えること、まだまだいろんなことに挑戦できることを示すことが当たり前のように語られます。しかし年をとることの良さ、そして人はいつか死ぬ、そのことの意義をしっかりと受け入れていくこともまた必要なことですし、それが失われてはならないと思います。本当の老人の存在が若い人にとっていま最も必要なことではないかと思います。それはどんな人かというと、自分の向上をこれ以上求めない人間。受けるより与えることが幸いであると同意でき、それを実行してける人です。そのように次の世代を信頼し、ゆだねていける人・・・。すなわち人生生きて来れば沢山の後悔があり、恨みやつらみもあるでしょう。それらをもう終わらせていいという寛大な心をイエスキリストを通していただき、その豊かさと平安を周りの人々に伝えられる人がです。

エフェソの人々へのパウロの別れにおけるすがすがしさが大変印象的に思えるのは、パウロの中に聖霊に従って自分の人生が終わったとしても、それが全ての終わりではないということを知っているからでしょう。「私は自分の苦しみを引き受けていきます。だからあなた方は自分のいるところで自分の勤めを果たしていきなさい。私を守り導いてくださった聖霊さまはあなた方をも守って下さいます。」そう励まし勧めています。

聖霊なる神が私たちと共にいてくださいます。そして聖霊の力によって、聖書の言葉を自分に語られる生きた言葉として受けることが求められています。

私たちにイエスキリストがいつも生き生きと心の中に感じられる。そのようであれば自ずと人生が変わっていくのではないでしょうか。

エフェソの人達と同じように、私たちの人生には春の時期もあれば嵐の時期もあります。厳しいできごとが私たちの前に置かれることもあるでしょう。そのとき、大事なことはそのような時にイエスが私たちと共におられることを信じること。たとえ私の人生がどこで終わったとしてもイエスが完成してくださる。できなかった夢も後悔も全部イエスが引き受けてくださる。安心して次の世代に引き継いていける。それが何よりも人間にとって幸せなことなのではないでしょうか。

そう思えるからこそ「受けるより与える方が幸いである。」という言葉を愚直にまに受けて、自分の持っているものを周りに分け与えていけるのではないでしょうか。

涙という言葉が見受けられた今日の聖書の箇所ですが、パウロはすがすがしく別れを告げています。そしていつかあなたがたも私と同じように、今度は自分が委ねていく側になってその思いをつなげていくことができるそういう約束がここにあるように思います。

お祈りしましょう。
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2015年
5月10日
   「神がいる人生といない人生」
   
使徒言行録17章16節~34節       

『聖書箇所』

17:16 パウロはアテネで二人を待っている間に、この町の至るところに偶像があるのを見て憤慨した。

17:17 それで、会堂ではユダヤ人や神をあがめる人々と論じ、また、広場では居合わせた人々と毎日論じ合っていた。

17:18 また、エピクロス派やストア派の幾人かの哲学者もパウロと討論したが、その中には、「このおしゃべりは、何を言いたいのだろうか」と言う者もいれば、「彼は外国の神々の宣伝をする者らしい」と言う者もいた。パウロが、イエスと復活について福音を告げ知らせていたからである。

17:19 そこで、彼らはパウロをアレオパゴスに連れて行き、こう言った。「あなたが説いているこの新しい教えがどんなものか、知らせてもらえないか。

17:20 奇妙なことをわたしたちに聞かせているが、それがどんな意味なのか知りたいのだ。」

17:21 すべてのアテネ人やそこに在留する外国人は、何か新しいことを話したり聞いたりすることだけで、時を過ごしていたのである。

17:22 パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。

17:23 道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。

17:24 世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。

17:25 また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。

17:26 神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。

17:27 これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。


17:28 皆さんのうちのある詩人たちも、/『我らは神の中に生き、動き、存在する』/『我らもその子孫である』と、/言っているとおりです。

17:29 わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。

17:30 さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。

17:31 それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。」

17:32 死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った。

17:33 それで、パウロはその場を立ち去った。

17:34 しかし、彼について行って信仰に入った者も、何人かいた。その中にはアレオパゴスの議員ディオニシオ、またダマリスという婦人やその他の人々もいた。
メッセージの勘所

アテネの人々とパウロの間には決定的な違いがありました。それは自分が神と共に生きている世界にいるか、神のいない世界に生きているかの違いです。アテネには人の数より多くの神がいたといわれますが、人々はその神々と共に生きているわけではありませんでした。
それは電車の中を思いえ浮かべればわかります。電車に一緒に乗っていても、共に生きているのではありません。共にとは、誰かが誰かに対して存在することだからです。
メッセージの要約

今読んでいる使徒言行録は、初期の教会の伝道の様子が伝えられている箇所です。
今日の主人公はパウロです。パウロの書いた手紙が聖書にはいくつか残されています。
彼の才能や功績から、パウロなくしては今日の教会はないという人がいますが、その背後にあっていつも働いてくださる神の支えがあったからこそ、彼は苦難や試練を通して、生きて働かれる神を伝えることができたのです。

この箇所は歴史の中の1ページです。場所はアテネ。アテネはオリンピックの発祥の地。政治と経済の中心はローマに奪われたにしろ、文化の中心地としての地位はかろうじて保っていました。

パウロはギリシャの知識人にキリスト教を伝道すればキリスト教は広がるだろうと考えていだろうと思います。

アテネには、いたるところに神々の像がありました。中には「知られざる神に」と書かれた神もあったのです。
でも彼らにとっては、神々を知っていること、神々と共に生きていることとはイコールではありませんでした。

ギリシャ人からパウロの信じる神について教えてほしいといわれ、アレオパゴスという場所で話すことになりますが、話はかみあいませんでした。おそらく途中からもうパウロの話は彼らの興味をひかなくなっていたのでしょう。それで復活の話になったとたん、話は中断ということになりました。復活という出来事が信じられなかったというより、アテネの人々は神と生きる世界に初めて触れて、彼らの生きている世界との違いに気付き、その影響を受けるのを嫌って話を打ち切ったのではないかと私には思えます。

復活は止まっていた心臓と脳が動きだすことではなく、神が私たち人間を伴って、神と人が共に生きる世界へ過越していかれたというできごとです。この出来事があったからこそ、キリスト教、そしてクリスチャンは神と人が親しく語り合いながら目的地に向かって人生を旅するものとしてこの地上を生きています。
2000年前に死という深い淵を超えて過越していかれたキリストが私たちの試練や、死も共に過越して、共に天へとお連れ下さる、そういう信仰に生きているのです。

でも神と共に生きたことのないギリシャの人々にとっては神が苦しんでまで人のために何かをするという考え自体に、思いもつかなかったのだろうと思います。

結婚するカップルで、一方がクリスチャン、他方がノンクリスチャンという場合がありますが、たいして違わないだろう思われるでしょうか。しかし、クリスチャンは日常の中で神のいる世界に住んでいます。一方クリスチャンでなければその世界に神はいません。二人は同じ空間にいながら別々の世界に住んでいるといえます。何だかSF小説のように聞こえるかもしれませんが、しかし信仰を持っていない人と話す時にはこのことを認識していなければなりません。
神のいる世界に住んでいる人が神聖な人だとか、特別な人だというのでは決してありません。しかし神が現実感をもって私の人生にいるかどうかはとても影響力を持つことです。

パウロはキリストに出会って、キリストは自分の失敗や挫折、自分のどうしようもなささえも赦して共に歩んでくださる、そしていつの日かこの私を神のもとに導いてくださると思っています。
一方アテネの人たちはこの神はこういう神、あの神はこういう行動をとる神と自分の知識と経験から神を作りあげています。人間の側が神を作ってるのです。

先ほど私の中に神がいると言いましたが実際は神の中に私がいるのですが、言い方は別として、確かに私の人生の中には神が共におられるのです。
神と共に歩むことを20年以上やってくる中で、私はすこしづつ神は共におられることを実感させてもらってきました。

今週のニュースに「コーヒーを一日1~2杯飲む人は飲まない人より0,85%死亡の危険性が低くなる。」というのがありました。それをちゃんとした機関が19年間調べたというのだから信憑性があるのでしょう。
でも、教会は神と共にある人生があるということを2000年間経験し続けてきました。このデーターの集積にはすごい説得力があると思うのですがいかがでしょうか。神を信じ続けている人が2000年も出続けているということをどう思われますか。

神と共に歩む人生はほんとうに意味があります。
それは病気がよくなるとか、自分に憎い人がいなくなるというようなことではなくて、人間関係や、仕事や、お金に苦労したりするのだけれど、そこで自分を失わずに、憎しみに捕らわれずに平安を持って生きていくことができるというのが神と共に歩む人生なのです。

ここにいる私たちの中でも神が共にいると心底思う人もおられれば、時に信じたり信じられなかったり「おれ(わたし)の信仰もまだまだだ」と思う人など様々でしょう。
しかしどんな時も、神は私たちと共に歩んでくださり、私たちの手を離さずに歩んでくださるのです。その人生はどれほど素晴らしいものでしょうか。

誰にでも後悔、果たせなかった夢があったでしょう。また運命的な事故、ある選択の後悔など色々なことがあったでしょう。それによる恨みやつらみ、失うことへの恐れ、それらを私たちは皆抱えて生きて行かなければなりません。信仰を持ったからといってそれらのものがなくなることはありません。しかし信仰を持つことは何が違うかというと、これらのものをもう終わらせていいんだ、イエス様がそれらのものを一緒に過越してくださる。もうそれを神に委ねて、それにとらわれなくていいという人生に神がお連れ下さるのです。神と共に歩む人生とはそういう人生です。でも神と共に歩んでみなかったらそれはわからないのです。
どんなに神様について知っていて知識が膨大だろうとアテネの人々のようになってしまいます。

パウロはこのアテネの出来事をずいぶん長い間引きずっていたようです。
コリントの信徒への手紙を読むと、アテネでの伝道失敗に精も根も尽き果ててしまってコリントにたどり着いたと書かれています。(参照1コリント2:1~4)

彼にとって一世一代の勝負にでたのに通用しなかった。それでも何人かの人は救われていますが、パウルは自分がアテネでは何の役にもたたなかった、無能なものだという思いを味わったのだろうと思います。しかしこの経験があったからこそ、神と共に生きる世界がどういうものであるかを本当の意味で彼は知ったのです。それはのちのち自分が向かいあう人々に対して彼に言葉を選ばせ、自身の振舞などにも影響していっただろうと思うのです。

私たちは皆神の命の中に包まれて、神と共に生きているのであります。是非神と共に歩む人生を始めていただきたいと思うのです。一日も早くそれを始めて、それを体験していただきたいのです。そしてこの地域の人達にどうしたら神と共に歩む人生を伝えていけるかと知恵を絞っていきたいと思います。
言葉ではなかなか伝えられないかもしれないけれど、私たちはもっと自信を持っていきましょう。

あきらめでも投げやりというのでもなく、「中半端で後悔もあるけれど、私の人生これで完成」と言える人生を主は与えてくださいます。「過去や現実にとらわれなくてよくなるそんな人生があなたにも必ず開けます」と周りの方々に伝えていきましょう。

神と共に生きる私たちの一人一人の役割は私たちが考えている以上に大きいのです。

これからも神と共に歩む人生を歩んで行きましょう。

お祈りします。
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2015年
4月26日
   「イエスを見出す方向」
   
 マタイによる福音書5章13節~16節      

『聖書箇所』

5:13 「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。

5:14 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。

5:15 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。

5:16 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

メッセージの勘所

『あなたがたは地の塩、世の光です』と言われたら、『えーまー、そう書いてありますが、どうでしょうか、、、?』と答えに窮する人が大半なのではないかと思います。逆に『イエスさま、あんまり私に期待せんといてください。』とブレーキをかけたいくらいでしょう。しかし、もし私たちから塩気が抜けて、光を放たなくなったら、もはや私たちは私たちではなくなるのです。それが聖書の言う滅びなのです。
メッセージの要約

この聖句はよく知られた箇所です。

女性会の機関誌「世の光」の名称もまさにここから取られています。

あなたがたは地の塩、世の光であるといえば、なんと傲慢なことを言うんだろうと思う人もおられるかもしれません。

イエスのそばには、いてもいなくもいいような価値のないと思われているような人が沢山いました。その人達に向かって「あなたがたは地の塩である。世の光である」と言われました。

この言葉は単に人々を励ますためとか理想を語っておられるのではありません。

この地上で生きる意味を与えている言葉です。

でも「あなたがたは世の光ですよね」と言われたときに、ためらいを覚える方が大半だろうとお見受けします。

人をつまずかせている私がほんとにそんなふうになっているのだろうか、まだまだだなと思うかたが多いのではないでしょうか。

しかしイエスははっきりと「あなたがたは地の塩、世の光」と言い切っておられる。あなたはこの世ではなくてはならない、この世でいい塩味をきかせ、その光は世を照らしていると言われのです。

しかしそれは私たちの持っている能力についてそう言われているわけではありません。才能、功績、いい働きについてではないのです。

塩の味気がなくなれば何によって塩味がつけられよう。また塩を一杯いれすぎたらおいしくない。おいしい料理には隠された塩味が必要です。

今巷で大はやりの塩パンをご存知でしょうか。これは愛媛県の八幡浜にあるパン屋さんが作られたそうです。漁業で働く人が簡単に塩分を取れるように塩パンを考案されたそうです。これは人を驚かせるためとかではなく、働く人達が求めているからという人への思いがあって作られたもののようでした。その塩分によって人間の体は生気を持って生きることができるのです。

私たちは自分自身への見方を替える必要があるのではないかと思います。

まず自分自身の中に塩味があるのかと。それはまず私たちの中の汚いものを見つめなければいけないことではないでしょうか。

自分自身を問題にするとき、私たちに必要なことは、焦る気持ちを抑えて立ち止まることです。

そうして自分自身の生き方、心の方向をまず神の前に持ちだしていくとき、真の方向が見えてくるのではないでしょうか。

今は人を犠牲にしてでも自分を上げ、また相手の欠点を見つけるとそれを一斉に攻撃するような生き方が多くなっているからです。

私たちの中に、私は生かされて生きているのだという思いがあるでしょうか。

相手の痛みに寄り添っていくつつましやかな思いがあるでしょうか。

そのような生き方へと転換していくときに、たとえ歩みはゆっくりでも私たちのまわりには隠された塩味が効いたよい香りが放たれるようなお料理が出来上がっていくのではないでしょうか。

「あなたがたは世の光です。」私はこの言葉からろうそくを思い浮かべます。ろうそくは自分が燃えることによって、光を照らせるのです。自分は消えていくのですから、自分を大きくしていく生き方とは方向が逆ですね。

得ることより、失うこと、また強くなることより、弱くなることに意義があるように思います。世の光として生きるとはそのように生きることです。イエスさまもご自分の命を捧げることで、人の上に立つことが幸せに至る道であるとする生き方から、また他者を貶めて自分を引き上げるという生き方から解放してくださったのですから。

4月30日、土地の登記が行われます。土地が手に入れば、人が集まり、教会が大きくなり、教勢があがる、そういう思いで土地を購入したわけではありません。それでは自分の欲求のみが走っているようですね。

そうではなく、この土地を持ってどのように人々に仕えていけるか、人々がやすらぎを覚える場とするためにはどうようにしたらいいか、私たちがそこに私たちの目と私たちの心を向けなければ教会は間違った方向にいくように思います。

16節に「人々があなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである、」とありますが立派な行いとは、美しい行いのことです。肌が美しいとか年齢が若いとかでは勿論ありません。美しいとは何でしょう。
無関心の時代に思いやり深く生きる、他者の犠牲の上に反映を求める時代に自分を捧げて奉仕にいきる、他を批判する時代に自分自身を冷静に顧みる、そんな中に美しい生き方があるように思います。そういう生き方がこの時代の暗闇や病根をついていくことになるのではないでしょうか。

今まで人間の繁栄のために沢山の経済論が考案され議論されてきましたが、それを作るのは人であります。それらは全く無駄だというのではありませんが、私たち一人一人の小さな生き方が地上を滅びから救い、命が通い合う世界を作ることになるのだと信じます。

皆さん、「大草原の小さな家」をご存知でしょうか。この中に出てくるお父さんはクリスチャンで有名が方ですが、撮影現場で自分の出番を待っておられたとき、若い共演者から「インガルスさん、靴の紐がほどけてますよ」と言われた。その時彼はくつひもを結びなおしまたが、本番では彼の靴の紐がほどけていたのです。先程のやり取りを見ていて不思議に思ったスタッフがなぜ靴の紐がほどけているのかと問うと、「あの時の役は疲れ果てて迷いの中にあるという役だったから、くつもひもが解けたままがいいと思ったんだ」と答えたそうです。ではなぜさっき靴紐がほどけていると指摘されたとき、それを締めなおしたのかと問われたところ、「せっかく注意してくれた彼の気持ちを思ったからだよ」と言われたとか。
急いでいては、このようなことはできません。相手の気持ちを第一にすることは自分が急いていたらできませんよね。

またある人が米国でホームステイした時のことを証ししておられました。朝食の際に滞在した先の奥様がご主人に「あなたお紅茶の砂糖は2杯でよろしかったかしら」と聞いたそうです。ところが2日目も3日目も同じ場面で同じ質問をされたので、金婚式を終えたようなご夫婦だったらご主人の好みはわかっているはずなのにどうしてと、不思議に思って質問したそうです。「金婚式もとうに超えて、ご主人の御砂糖の量もわかっておられるのに、どうして毎回お聞きになるのですか」と。そのとき奥様はこう答えられました。「私は結婚して初めて夫と二人で朝を迎えたときの感動を忘れたくなくて、毎日こうして夫に聞くんですよ。」とのこと。
小さなことですけれども、それを大切にすることで、毎日の繰り返しも全く違った愛の出来事になるということを示しているように思います。

カトリックのシスター渡辺和子先生が、「この世に雑用はないんだ、あたなが雑にそれをするときに雑用となる」と言われました。心にとめたいことです。

イエスさまはあなたが努力すれば、地の塩・世の光になるといわれているのではなく、すでに、地の塩、世の光だと言われているのです。

だからイエスさまの委託に応えるために、しばし立ち止まって、身の回りの小さな一つ一つのことを見直したり、周りの声をちゃんと聞くことからことから新年度を初めていきましょう。

お祈りしましょう。
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2015年
4月12日
   「思い出すという生き方 その2」
   
ルカによる福音書24章1~12節       

『聖書箇所』

24:1 そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。

24:2 見ると、石が墓のわきに転がしてあり、

24:3 中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。

24:4 そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。

24:5 婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。

24:6 あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。

24:7 人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」

24:8 そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。

24:9 そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。

24:10 それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、

24:11 使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。

24:12 しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。

メッセージの勘所

思い出すということをその生涯にわたって求め続ける、私はそこにキリスト教の神髄が
あると思います。それは『思い出してごらん、私はずっとあなたの苦しみと悲しみに寄り添って、そしてそのために自分を投げ出したのだよ』というイエスの語りかけに信頼して生きつづけることです。それはまた、自分の人生が神にすっぽり包まれて生かされてきたことに思い至るまでに徹底していく生の深みへの作業です。
メッセージの要約

先ほど歌った「主は今生きておられる」という讃美歌は有名な歌です。「主は今生きておられてわが内におられる」という歌詞は復活なさったイエスが現実に私の中におられることを歌っています。

復活に生きるとは、私たちが私たちの内にある命を探し求めるように生きることです。だから思いだしなさいと天使たちは言ったのです。

内に思い出す、そんなこと言ったって、変えられない過去を思い出してもしょうがない、後ろ向きな生き方だと思われるかもしれません。

しかし、イエスの人生はご自分の命を捨てて、私たちの苦しみや悲しみに寄り添ってくださった生涯でありました。それによる慰めが私たちに染み込んで私たちは癒されて、人間を取り戻して、新しい生涯を始める基礎を得て、そこから生き始めることが復活というできごとです。それを体験しているのがクリスチャンと言えます。

しかし知らないうちに私たちは傲慢になったりするわけです。

あるご婦人が私にこんなことを言われました。「夫に、天国に行くためにはイエス様のとりなしを信じないと行けないのだから信じてねと言うと、そんなことをいうキリスト教は信じたくないと夫が言うのです。先生、どうしたらいいでしょうと」と。この婦人は夫が何に悩み、何に苦しんでいるのかという夫の気持ちを全く置き去りにされているのではないかと思いました。

相手のために言っていると思えることでも、ただ単に正しい教えを伝え、相手が受け入れたときに私たちの救いはおきるのですか?それが伝道でしょうか?そんなことはないですよね。イエス様は相手の悩みや苦しみによりそって、その人のそばに居続けられた、そんな愛の行為から伝道は起こるように思うのです。

私たちは救われていることにあぐらをかいたり、傲慢になっていないでしょうか。そんな状態で復活の命を生きているように思っていしまっていることはないでしょうか。

またある時、高齢の女性の方が数人で話をしている際に、一人の婦人のことが話題になったそうです。その婦人は癌になってから在宅のケアを自ら選択され、人生を楽しみつつ暮らし、ある日、「わたし明日死ぬような気がするから」と以前から予約されていたホスピスに入院されて翌日亡くなったのでした。その人はクリスチャンではなかったけれどそのような自分のやりたいことをやりつくして苦しまない死に方をされたのを見て、クリスチャンの老婦人が「教会に行ってなくてもそういう死に方ができるのね」とつぶやかれたのです。そうつぶやきたくなる気持ちもわからないではありせんが、私はそこにキリスト者であることを何か人の上に立つているかのように思う、いやらしい上からの目線を感じるのです。

復活の命を頂いて、復活の命を生きるとはどういうことでしょうか?実際は生かされてわたしたちは生きているのです。私の能力や、実績がこのような生き方を可能にしているわけではなく、イエスのとりなしの祈りがあるから今があると思っているでしょうか。

神の生かす働きが私たちに寄り添って下さったからこそ私たちの今がある。神様にすっぽり包まれてきたからこそ、今の状況がどうであろうと、現状をなるべくしてなったと受け止めていくことができるのではないでしょうか?それが私たちに染み込んで生きているならば、上からのものの見方ではなく、階段を下りて、人に共感する生き方が始まってくると思うのです。

復活に生きることをただのお題目にしていてはいけません。それはほんとに深めていかなければいけないものなのです。
週報のメッセージの勘所に「思い出すことをその生涯にわたって求め続ける、私はそこにキリスト教の神髄があると思います。それは『思い出してごらん、私はずっとあなたの苦しみと悲しみに寄り添って、そしてそのために自分を投げ出したのだよ』というイエスの語りかけに信頼して生きつづけることです。それはまた、自分の人生が神にすっぽり包まれて生かされてきたことに思い至るまでに徹底していく生の深みへの作業です』」と書きました。

私たちの人生が生の深みをもたなかったら、人と共に生きるという人生も始まっていかないのです。

イースターが終わったからそれでよしではなく、何のためにイエス様は復活されたのか、イエス様は生きておられて私の内におられることを日常の中で味わわなければ、私たちの信仰は何のために与えられているのかということになっていくのではないでしょうか。今もつたない私をいつくしんであなたは私の宝と言ってくださる。あなたは高価で尊いと言ってくださるイエスの言葉を聞き続けることを生活の中に求めていきたいものです。

それが私たちの伝道でありたいと思います。

お祈りいたします。
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2015年
3月28日
   「勇気ある生き方 その2」
   
ヨハネによる福音者4章1~26節       

『聖書箇所』

4:1 さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼を授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、

4:2 ――洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである――

4:3 ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。

4:4 しかし、サマリアを通らねばならなかった。

4:5 それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。

4:6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。

4:7 サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。

4:8 弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。

4:9 すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。

4:10 イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」

4:11 女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。

4:12 あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」

4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。

4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

4:15 女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」

4:16 イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、

4:17 女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。

4:18 あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」

4:19 女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。

4:20 わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」

4:21 イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。

4:22 あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。

4:23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。

4:24 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」

4:25 女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」

4:26 イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」

メッセージの勘所

あなたの夫を呼んできなさい。』と言われたとき、それが今話している《永遠の命》と何の関係があるのだろうと彼女もきっと思ったことでしょう。聖書では永遠の命とは死後の命ではありません。また、悟りにも似たある境地というのでもないのです。それが何であるかはこの女性で言えば『あなたの夫を呼んでくる』という自身の私生活に目を注ぐことなのです。それなくして永遠の命にいたる水が欲しいという渇きも起こりえないからです。
メッセージの要約

受難週の入り口の日曜日を棕櫚の主日といいます。今日がその日です。

先週教会のお墓に行ってきました。自分の家のお墓でもないのに、天に召された神野兄、石川兄、木戸兄がそこにおられるような不思議な感覚にとらわれました。

神の呼び名に「アブラハム、イサク、ヤコブの神」がありますが、それはアブラハム、イサク、ヤコブは既に死んだけれども、神の命の中で今も生きているということを示しているのです。死んだけれども生きているという言葉では容易に説明できないけれど、それでもそのことを感じ取れる力が人間には備わっているのかもしれません。

さて、今日の聖書の箇所に出てくるユダヤとサマリアは歴史的にいろいろあった関係上、ユダヤ人はサマリア人と接触するのを極端に嫌っていました。その説明は今日は省きますが、ユダヤ人が普通なら避けて通るところを、この時イエスがなぜあえてそこを通られたのかはわかりません。

ガリラヤからユダヤの地に行く途中、サマリアを通る間にイエスさまは旅に疲れて井戸のところに座りこんでおられました。正午ころであったとあります。
イエスが十字架にかかられた日の正午ごろ何が起こったかというと、「全地が真っ暗になった」と記されています。そして午後3時に私は渇くといって息をひきとられたのです。
そんなイエスの十字架の状況とここの箇所が私にはだぶってみえます。

ユダヤ人とサマリア人の反目しあった人間関係の中にイエスがおられる。対立関係の中に十字架が立っていることを示しているような気がします。

先週ある企業の親子の対立がニュースになっていました。また辺野古をめぐる沖縄と政府の関係も繰り返し報道されていました。決して相手の言うことを聞こうとしないその応酬に、空しさを覚えました。その周りにどれほどの大勢の苦しんでいる人がいるかということに全く目を向けていないからです。

反目し合っているとき、私たちは睨み合っている相手だけを見てしまいます。ですが、そこにイエスも共におられるのです。そこで反目し合う私たちと、その横で見捨てられ倒れていく人々のありようにを見て、悲しみ痛んでいるイエスさまの姿が全く見えていません。

今日皆さんと共に考えたいのはそのことです。

サルカニ合戦という話をご存知でしょうか。サルはカニのおにぎりがほしくて、柿の種と交換します。カニは柿の種を蒔いて、毎日毎日「早く芽が出ろ柿の種、でないとおまえをちょんぎるぞ」と言いながらその成長を待っていました。カニにちょん切るぞと脅されながら柿の種は芽を出し、成長し、ついに実がなりました。しかし、木に登れないカニは自分が柿をとれないとわかってサルに頼みます。猿はおいしい柿だけをさっさと食べて、催促するカニに青い柿を投げつけ、それによってカニは甲羅がつぶれて大けがをします。その後傷が癒えたカニは、ハチ、うす、と卵の助けを借りてサルをやっつけるという復讐劇です。

この続編を芥川龍之介が書いているのをご存知でしょうか。
彼が書いた結末は復讐を果たしたカニ、そしてそれを助けたハチ、うす、卵は警官につかまり、裁判ののちカニは死刑に、そして手助けをしたハチ、薄、卵は終身刑となるというものです。ご丁寧にもその後カニの子供たちが送った悲惨な人生までもかいています。そして最後に「これはあなたのことだ」という言葉で芥川龍之介は最後を結んでいるのです。

私たちもどうでしようか。「自分は被害者だ、あいつが悪い」と責任はすべて周りにあるとして、報復を正当化してしまっていないでしようか。イエスはユダヤ人とサマリア人、同じ神を礼拝している人々が互いに自分の正当性をのみ主張し、敵対しているその人間の在り様を深く悲しんでおられるのです。

イエスはそこで出会った女性に「水を飲ませてくれないか」と頼まれました。
イエスはこの女性がどんな女性か知っておられました。
イエスはその女性の内面にズカズカと土足で踏み込まれるのではなく、まず「水を飲ませてください」とお願いをされました。
その後、「あなたの夫を連れてきなさい」とこの女性の本質に踏み込まれます。
それが女性の一番痛いところでした。だから彼女は人がいない正午に水汲みにきていたのです。
過去5回も結婚し今は男と同棲している。散々周りから批判や嫌味を言われできたことは容易に想像されますから、彼女がそこに触れてほしくないと思うのは当然のことでしよう。
しかし、そのような自分の痛いところを素直に見つめない限り、結局「神さまなんかいらない」といつまでも神から離れる生き方をしてしまうのではないでしょうか。
私たちはどんな時にカッときて、動揺するでしょうか。自分が隠しておきたいことに相手が触れてきたときではないでしょうか。立場がなくなる、築いてきた人間関係が壊れることを畏れて触れられるのを嫌がります。
信仰以外のものに依存してその痛いところを見ないようにごまかして生きています。
わたしたちの隠したいところは何でしょうか?
「それを目の前において見つめなさい」という語りかけを、神からの語りかけとして聞かなければ、ほんとうの命にいたる水を飲むことはできないのです。
皆さんにとって救いとは何でしょうか。
私たちの欲求、願望を無くすことが救いとは考えられません。愛情を求め、人の承認を求めずにはいられない私たちですが、だからこそ
そのようなときに、本当にそれを与えてくれる方の名を呼ぶことが大事なことです。
女性は礼拝の話を持ち出します。
話をすりかえたかったのでしょうか。
私にはそうは思えません。イエスとの出会いの中で今こそ生き方の方向を変えないといけないと思ったからこそ礼拝の話を持ちだしたのだと思います。
「霊と真理を持って礼拝することが大事なんだ」とイエスは女性に語られました。残念なことに、というかいつものことですが、この女性のその後については何も書いてありません。
しかしおそらく、神を父と呼ぶ信仰を知って、そこにイエスが一緒におられるということを見出して、永遠の命にいたる救いに向かって行っただろうということです。
人から触れられたくない痛みを目の前において見つめ、そこで逃げずに父なる神を呼ぶ信仰をイエスは私たちに求めておられるのではないでしょうか。
お祈りをいたします。
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2015年
3月15日
   「叫び、涙するキリスト」
   
ヘブライ信徒への手紙5章1~10節       

『聖書箇所』

5:1 大祭司はすべて人間の中から選ばれ、罪のための供え物やいけにえを献げるよう、人々のために神に仕える職に任命されています。

5:2 大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです。

5:3 また、その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分自身のためにも、罪の贖いのために供え物を献げねばなりません。

5:4 また、この光栄ある任務を、だれも自分で得るのではなく、アロンもそうであったように、神から召されて受けるのです。

5:5 同じようにキリストも、大祭司となる栄誉を御自分で得たのではなく、/「あなたはわたしの子、/わたしは今日、あなたを産んだ」と言われた方が、それをお与えになったのです。

5:6 また、神は他の個所で、/「あなたこそ永遠に、/メルキゼデクと同じような祭司である」と言われています。

5:7 キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。

5:8 キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。

5:9 そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、

5:10 神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです。
メッセージの勘所

ここで私が一番引っかかるのは、7節の『祈りと願いとをささげ・・・聞き入れられました』というくだりです。ゲッセマネの場面を見れば『祈りと願いを捧げられましたが、聞き入れられませんでした』にならないとおかしいと思うのです。『この盃を取り除けてください』という祈りが聞き入れられたのならイエスは十字架にかかるということはなかったはずです。しかし、涙や叫びや痛みを通ってなお十字架にかかって下さったからこそ、滅びるしかない罪びとである私たちに対する神の肯定(イエス)、つまり『聞き入れられた』が成立したのです。
メッセージの要約

東日本大震災から4年を迎えました。4年前の全国小羊大会も中止になったことを思い出します。当たり前のように開催されたものが中止になり当たり前ということはないのだと思い知らされます。震災当時はどう歩んでいったらいいのだろうかと皆が考えましたが、最近は早く傷をふさげばいいという感じになってきているのではないかと危惧します。

私たちは弱さをかかえ、傷を持っていますが、決して傷があることはマイナスだけではありません。それがあるからこそ、痛みの中で自分が進まなければならない方向をもう一度思いだして自分の方向転換を図っていくことができるのです。

今日の箇所には大祭司という言葉が出てきます。

大祭司をよばれる人の特徴はなにかというと、弱さを身にまとっているということ、弱さを自分自身がしっかりと自覚しているということです。

大祭司は祭司の頂点に立つ人で、立候補ではなく選ばれなければならない人です。聖職者の中の聖職者、清廉潔白のイメージがありますが、ここで述べられているのは、1節に「大祭司は自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができる」となっています。清廉潔白に見えても、彼自身もまた自分自身の罪のために贖いの供え物をささげなければなりませんでした。

イエスキリストが偉大な大祭司であったことを先週も学びました。

5節には「同じようにキリストも、大祭司となる栄誉を御自分で得たのではなく、「あなたはわたしの子、わたしは今日あなたを産んだ」と言われた方が、それをお与えになったのです。また神は他の箇所で「あなたこそ永遠に、メルキゼデクと同じような祭司である」とあるように、神が任命なさったのです。

イエス・キリストは神に選ばれた大祭司として、父なる神の意図を忠実に実行されたことを意味しています。

神の意図されたこととは、イエスさまが多くの苦しみによって従順を学びなおすことだったと言えます。

7節に「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」とあります。この箇所はゲッセマネのイエスの祈りを思い浮かべながら読むことが多いですがそれは決して間違っていません。

イエスは十字架にかかる前の晩に、ゲッセマネと言われるところで一人離れて、弟子たちが眠りこけている中この盃をわたしから取り除いてくださいと祈られました。血がしたたるように汗を流しながら祈られたと書かれています。しかしこのゲッセマネの祈りは形からいえば聞かれなかったのです。それでもイエスさまは神が下さった盃を最後まで飲み干されました。

盃を飲み干すとは、十字架にかけられることをイエスさまが受け入れられたということです。だから、メッセージの勘所にも書きましたように「祈りは聞かれなかったのではないか?」と思ってしますのです。実際に写本を書き写す人の中には、ここは「祈りと願いは聞き入れられませんでした」と書き替えたいた人も実際にいたのです。

イエスさまの十字架の場面はそのくらい衝撃的なのです。なぜ神の子が十字架にかけられなければならないのか、それは今に至るまで誰にも納得できるように説明することの困難な出来事であります。

もうすぐイースターがやってきますが、今年は1985周年記念のイースターとなります。2015年からイエスの公生涯の30年を引いたらそうなりますね。1985年間教会はずっとこれを祝い続けてきたということはすごいことです。

イースターにいたるまでにイエスがどんな道をあゆまれたのか、レントのこの時期にはたどらなければなりません。

イエスは十字架にかかるまでの時を激しい叫び声をあげ、涙を流しながら歩んでいかれたのです。

先程も述べましたが「キリストは多くの苦しみによって従順を学ばれました」とありますが、イエスが何かを学ばなければならなかったというのは矛盾している気もしますが、、。

イエスは神から託された使命として大祭司として歩まれたのです。

全能の神の子であるにもかかわらず、イエスさまは多くの苦しみを通して学びなおすことが必要だったのです。

学ぶというからには、まだ知らないから学ぶ必要があるということです。そうすると全能の神という点でおかしい気もするかもしれませんが、イエスさまは私たちと同じ弱さを身にまとって、従順するということがどういうことかを我が身をもって学ばれたのです。それは苦しみを経ずにはかなわないことでした。しかし、だからこそ私たちの弱さを思いやることがおできになるのです。

旧約聖書イザヤ書42章1節から3節にはそのような僕の姿が書かれています。「見よ、私の僕、わたしが支える者を。私が選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す。」

イエスのありようは、「傷ついた葦を折ることなく、暗くなっている灯心を消すことのない」ものありました。それは弱いものに配慮をし、取るにたらないと思われている人々や、差別されているものと共に生きて、決して大都会で大勢の人に対して派手な宣伝で注目を集めるのではなく、ユダヤの片田舎で出会う人々に丁寧に接していかれるという姿に示されています。

さらにイザヤ書53章の「主の僕の苦難と死」というタイトルの中に次のような聖書の言葉があります「 私たちの聞いたことを誰が信じようか。主は御腕の力を誰にしめされたことがあろうか。渇いた地に埋もれた根から生え出た若枝のようにこの人は主の前に育った。見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼は私たちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちは癒された。」

イエスは自ら傷つき、その傷つかれた痛みを通して人々に仕えてくださる。そういう方であります。

53章10節には「病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは彼の手によって成し遂げられる。」

普通は打ち砕かれたらそれで終わりですが、神にあってはそうではないのです。ここを読むと先ほどの「聞き入れられた」という言葉はほんとうなのだと思うのです。十字架にかかって血をながして、神に「わが神、わが神なぜ私を見捨てるのか」言われた方が本当に世界が待ち望んだ王なのかと思われるかもしれませんが、イザヤ書のこの箇所を見ているとこういう王がこなければ私たち人間が真実に生きることは決して実現しないと聖書は断言しているように思うのです。

レント(受難節)を生きている私たちはこういうイエスに目を留めていきたいと思います。苦難のあるところにイエスは共におられる。私たちが痛んでいるときにも、周りにいる方が痛んでいるときにもイエスが共におられて歩んでくださることをしっかりと心に映していきたいと思います。

お祈りしましょう。

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2015年
3月1日
   「無力な神の全能 その2」
   
ルカによる福音書15章11節~32節       

『聖書箇所』

15:11 また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。

15:12 弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。

15:13 何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。

15:14 何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。

15:15 それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。

15:16 彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。

15:17 そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。

15:18 ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。

15:19 もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』

15:20 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。

15:21 息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』

15:22 しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。

15:23 それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。

15:24 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。

15:25 ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。

15:26 そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。

15:27 僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』

15:28 兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。

15:29 しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。

15:30 ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』

15:31 すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。

15:32 だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」

メッセージの勘所

弟息子の非常識な要求を受け入れ、家を出て行くのさえ許したけれども、父は冷たい人間などではさらさらなく、心はいつもこの息子のことを思って心安らぐ時はなかったということが、20節を見るとわかります。だからこそ見る陰もなくやつれ果てていても、この父には彼が自分の息子だと即座に見分けることが出来たのです。何もできない自分の無力さに父は幾晩涙したことでしょうか。ご自身の持てる力を振るわず、ただの人間の決断と行動を信じて持たれたことこそが、父が真の神であるという証しなのです。
メッセージの要約

先週に引き続いて同じ聖書の個所から学びましょう。

皆さんは聖書の中に出てくる神様をどんな神様として心に描いておられますか?私は、本日の聖書の個所で示されているような無力な神ではなく、もっと猛々しく強い神を想像してしまいます。でも今日の聖書に描かれている神はそうではありません。弟や兄に代表されるような人間を前にして、無力な姿をさらしながら立ちすくんでいる神さまです。でも皆さんも人を愛したときに、自分が無力であることを感じるのではないでしょうか?この中で人を好きになったことがない人がおられるでしょうか?いろんなことができて、周りからほめそやされていたとしても、自分が誰かを好きになった時、自分の能力や、持っているものも何の役にも立たないことを思い知ったりするのではないでしょうか。

私は2人の子供の親ですが、その子どもたちに対してしばしば自分の無力さを思いしらされます。自分の子どもだとしても、なんで自分がこんなに苦しい思いをするのだろうと思いますが、それは私がわが子を愛しているからなんですね。愛しているからこそ、こども苦しんでいるとき、悲しみ痛んでいる姿を見た時、無力さを痛感させられるのです。

放蕩息子の帰郷で示されている父の姿は、今の時代もそうですが、当時においてもまたとんでもない姿です。だいたい財産の生前贈与などありえない話でした。そんなことを言う子どもも、そんなことを許す父も絶対にありえない時代だったのです。でもなのになぜ、子どもに財産を分与したりする父親の姿をイエスは語ったのでしょうか?

父が弟息子の言うとおりにしてやったのはおそらく、この子の申し出を拒んだ場合、永遠にその子を失ってしまうと考えたからではないでしょうか?父は弟が自らの自分の過ちに気づき、そしてさらにここへ―父のもとへ―帰ってくる、その可能性を信じて待つ道を選んだのです。それは一見するとあまりにばかばかしく、ありえない選択に見えます。

でも聖書は、私たちの信じる神はこのような方だと語っているのです。聖書は私たちがここにでてくる父のようになることをすすめているのではありません。とてもこんなことが私たちにできるとは思われませんね。

和歌山県の白浜で自殺者のレスキュー活動をやっておられる方がおられることをご存知でしょうか?その方が言われるには、自殺する方の特徴は自分には助けてもらう資格がないと考えるそうなのです。SOSを出すことのできる場所は現在沢山あるのですが、自殺者は決してそのようなところを頼ろうとはしないのです。自分には助かる資格も、助けを求める資格もないし、仮にそうしたとしても誰も自分が助かることを喜ばないというふうにすべてをあきらめているのです。だから年間2万5千人もの方が自殺しているのです。ある研究者は、今日死のう、明日こそ死のう、そう考えつつ日々を生きている人が、その10倍つまり30万人ほどいて、さらに日常的に死を度々考えている人にいたってはさらにその10倍、つまり300万人いるだろうと言っています。その人たちに、あなたは生きていて良いし、あなたが助けを求めるのを待っている人がいるということを、私たちは何としても伝えなければなりません。

弟息子が帰ってきたときに最初に見つけたのは父でした。弟息子を見つけると駆け寄って彼を抱きかかえて家の中にいれた。皆さん、どう思いますか?私だったらまず小言の100や200は言いたいところですが、父はそんなものは何一つ言わず、祝宴を開いたのです。息子の方は、「もはや自分はあなたの息子ではなく、奴隷としてここにおいてください」と言おうとしたのですが、父はそう言わせませんでした。なぜなら奴隷は物と一緒ですから、私たちの神は決して私たちが物になることを決して許されないのです。私たちが私たちの自由意志で神のもとに戻ってくることを、父と共にいることを心から求めるのを待っておられるのです。

兄の気持ちはよくわかりますよね。父のいうことをよく聞き、精いっぱい働いて貢献する兄の気持ちです。弟が帰ってきても弟のための祝宴に加わることができないでいる兄。そして祝宴の外の冷たい暗闇の中で兄を諌める父の姿。ここでも父は権力を使って、兄息子を無理やり宴会の席に引き据えるということをしませんでした。そうしたらこの兄息子を永遠に失ってしまうと知っていたからです。父はこの兄息子を愛しているからです。怒りと敵意に満ちた表情をたぎらせる兄の傍らで、困惑し、懇願するような眼差しで兄を見つめている父。こんな無力な姿をさらしているのが神なのでしようか。そうです、その方こそ全能の神なのです。皆さん、どう思われるでしょうか?

私たちの中に、弟息子と兄息子がいます。人を愛される神はある時、人を愛するがゆえに無力であります。しかし、その無力に見える神の愛が冷たく冷え切った人の心を変え、そしてこの世を変えていくのです。
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2015年
2月22日
   「無力な神の全能」
   
ルカによる福音書15章11節~32節       

『聖書箇所』
15:11 また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。

15:12 弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。

15:13 何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。

15:14 何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。

15:15 それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。

15:16 彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。

15:17 そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。

15:18 ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。

15:19 もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』

15:20 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。

15:21 息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』

15:22 しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。

15:23 それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。

15:24 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。

15:25 ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。

15:26 そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。

15:27 僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』

15:28 兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。

15:29 しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。

15:30 ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』

15:31 すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。

15:32 だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」
メッセージの勘所

この世の中のどこにこんなおめでたいというより情けない父親がいるだろうか。父親が生きているのに財産を分けてくれるという息子に対しても、弟の帰還にへそを曲げて怒り出す子に対しても、全能の神というイメージからは程遠い姿を示す父。しかし、イエスさまはこの父親の姿こそ、まごうことなき我らの全能の父だと言われるのです。私たちの思い描く神、たくましく、厳格に満ち、その前に立つ者に恐怖を抱かせる神とは全く違っています。
メッセージの要約
聖書教育のテキストのコピーを先週お渡ししておきました。それをご覧ください。

今日の箇所は放蕩息子の話です。

放蕩息子の話というと前半部分の弟息子の話ととってしまいがちですが、弟も兄の姿も私たちの姿です。そのような息子たちを神がどのように迎えられるかというお話です。

最近ではこの兄弟両方を含むということで、「失われた息子のたとえ」で呼ばれることが多いです。

私もクリスチャンになる前はこの箇所を弟息子の気持ちで読んでいました。神様のもとに帰れてよかったと。

そのうち、なぜ兄はこれほどまでに弟に冷淡なのだろうと思うようになりました。そして、ある日、自分がこの兄にそっくりだと気づき愕然としたのです。

なぜ、神のもとに帰れたと喜んでいた人間が、いつのまにかこの兄息子のようになってしまうのか、いまだに不思議です。しかし、あるときふと自分が兄のようになっていることを発見し、自分が何としても隠しておきたいところを見せられて、本当にため息が出ます。

でも別の見方をすれば、それに気づくようになっただけでも神の恵みなのかとも思います。

25節、の音楽が聞こえてきたという「音楽」という言葉ですが、この言葉は「音の響きをともに響き合わせて喜ぶ」という意味を持っています。父親は家の全体にこの喜びを共有するように呼びかけたのではないかと思います。

でも、兄はどうしてもその呼びかけに応えることはできませんでした。父親はこの兄の顔を立てて、弟を一度奴隷として働かせて、「あいつも奴隷として良くやっているようじゃないか、血を分けた兄弟だからそろそろゆるしてやるか」という道筋を作っていれば、兄だって納得したかもしれません。しかし実際は、弟息子が「すいません」といったきりで、それを父はゆるしてやったのです。それが兄には許せなかった。

でも、愛に溢れた父のもとに育った兄がなぜこのような人になったのかと思われるかもしれませんが、しかし私たちの現実の世界でもこのような例はよく見聞きする話ではないでしょうか。

この人は素晴らしい人だと心底思っていても、なぜかその人のすべてを受け入れることはできず、心の中のある部分では「いや絶対にそうしたくない」と、自分でも不思議なくらい私たちの心はそんなふうに反応するのではないでしょうか。

兄は父とは違って、自分のやったことの責任は自分でとらなければならないし、やった分だけ返してもらえる、そう信じていました。でも私たちの中にこの考えを全く持たないものがいるでしょうか。

教会に来ながらも、そして自分でもわかっていながら神の愛に完全に支配されることを許さず、自分の考えに固執していく、それが私たちではないでしようかん。

弟息子が帰ってくる道筋で考えてきた言葉を見てみましょう。「お父さん、私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。」お父さんに対してだけでも十分だと思うのですが、なぜか「天に対しても」という言葉を加えています。それは神に対する挫折と隣人に対する挫折とは切り離せないことを教えています。

私は弟息子にこの時に生まれてきた心が人間として当たり前の心ではないかと思うのです。これは彼が苦しんでその結果つかんだ特別な心情ではなく、私たちがいつも弁えておくべきことではないかと思うのです。人に対して苦しみを与えることは、神を苦しめることとつながっているのです。

また兄も自分の心の貧しさに気付いていかなければならないのです。

どちらかというと弟のような生き方にかっこよさを見てきた傾向がこの世にあるのではないかと思います。自立して、自分の能力をこの世の中で試す。弟の生き方はまさに現代がもてはやす生き方に通じています。

兄のようにただ我慢して黙々と生きて行く生き方は現代ではあまり人気のない生き方かもしれません。しかし、兄のような生き方をおとしめることがこのたとえの目的ではありません。

いずれにしても神を知らなければ、弟か兄のどちらかの生き方をすることになるでしょう。

神は私たちに神の響かせる祝福の中に共に生きることを求めておられます。

最後にレンブラントの「放蕩息子の帰郷」の絵を見ましょう。(スライド)

この絵からは、中央の年老いた父親ががいかに弟息子のことを心配していたかが伝わってくるような絵ではないですか?

しかし、この絵の父親は、一番大きく描かれていませんし、権威や威厳や神々しさとも無縁です。この絵を見ていると、父親は弟息子の悲しみや痛み苦しみと同化しようとしているようにさえ感じられます。弟を心配し尽してやつれ果てた姿を隠すことなくさらされる神だからこそ、私たちは安心してその神の元へ帰っていけるのです。

私たちも日々、このお父さんのもとに帰っていかなければならないのです。

本日の礼拝と説教は私に向けられています。これは私の現在の話であります。私たちはいつもこの兄と弟両者の間をさまよいながらも、しかしいつもすでに赦されている存在であることを感謝しながら歩んで行きましょう。
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2015年
2月8日
   「十字架から語られる言葉」
   
       

『聖書箇所』

12:19 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。

12:20 「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」

12:21 悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。

メッセージの勘所

今私たちは、増悪と破滅に満ちたメッセージに直面させられ言葉を失っています。しかし、だからと言って思考停止していることは許されません。それが指し示す絶望の深さをどんなに辛くても、私たちは想像してみなくてはならいのです。そうでなくては[燃える炭火を、彼の頭に積む]ことはできないのですから。絶望からくる恐怖と怒りに荒れ狂う相手の心を揺り動かし、心の方向を変えていくような言葉を語ることができる方に、今こそ私たちも全力を持って向かい合わねばなりません。

メッセージの要約

復讐、今この言葉を聞かない日はありません。キリスト教に出会う前は、復讐は当たり前の権利だと思っていました。害を加えられたらやり返すのは仕方ないと。

しかし、聖書にであって、そうするのがあたり前という考えは、私の思い込みに過ぎないということに気づきました。「愛する人たち、自分で復習せずに、神の怒りに任せなさい」
この言葉があることが私にとって今どれほど救いとなっているか。

イスラム国が残忍なやり方で人質を処刑するという場面を見せられて、その実行犯に正当な裁きをと思うのは当然のことです。

恐ろしいのは、自分たちは正義の側にいるのだから、復讐することこそ、正義なんだという思い込みが、この日本に浸透していっていることです。

読売新聞社のアンケートで、殺害された後藤さんの件、責任は本人にあると思うかの問いに83%の人が思うと答えたと言われます。自民党の副総裁高村氏が公の場で「どんなに使命感があってもそれは蛮勇というものだ」と言ったこともあり、人々がその影響を受けたとも考えられますが。

そのあとツイッター上に、「後藤さんはヒーローではない」という言葉があふれたことにとても違和感を覚えました。

いったい、後藤さんが何を伝えたかったのか、そのことにはまったく触れることなく、一刀両断にする政府の方針に、お上の言うことに黙って従ってさえいればいいといわんばかりの驕りを感じます。

後藤さんは現場にいる人達の苦しみや悲しみに焦点をあてて来られました。なぜ彼が伝えようとしたことに目を向けようとされないのでしょうか?そこから何ができるかと考えないのでしょうか?

憎しみ、それを糧にして復讐を果したとしてもそれで何が残るのでしょうか?

復讐に身を焦がすことは自分が憎しみにとらわれてしまうということです。

中島みゆきの曲「空と君の間に」の中に「憎むことでいつまでもあいつにしばられないで」というくだりがあります。憎しみは、相手だけでなく、自分自身をしばり、壊すことになります。

勿論自分の家族がそのような目に合えば憎しみを抱くのは仕方ないことです。

でも今日の聖書の箇所には「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」とあります。

考えなければならないのは、今のこの状況では、「戦争は回避するべきだ」、「戦争は絶対にいけない」とただ叫んでも、政府の言う「抑止力を高めて戦争を回避する」、「他国との集団的自衛権を強化して平和を目指す」的な論理の前に歯が立たないし、かえって足元をすくわれるのです。日本では平和への願いが戦争をすることを押しているような状況が広がっています。なぜなら、怖い、理解不能な者がいるから自衛しなくてはいけない。そのためには強い武器が必要だ。それを使って平和を作るんだという志向が回り始めるからです。それを止めなければならないのです。

そういうところからどうやったら抜け出せるのでしょうか。それはやはり後藤さんが見ようとした方向を自分自身も見ようとすることだと思います。

15節には「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」とあります。
泣く人の目線で相手が何を悲しんでいるのか、相手の悲しみを自分自身の心に移すようにしなさいという教えだと思います。それなのに、行為のみを取り上げて、ただ人の迷惑にかからないように、それだけしかないとしたら、逆に自分の人生を生きられなくなってしまうのではないでしょうか。

「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」とはどんな意味でしょうか?相手に親切にしてやってやりかえそうと言っているのではないですよね。
ただずるがしこく相手を敵とみなして、自分の心は何も痛まないでいいのでしょうか。
燃える炭火を彼の頭に積むことになるとは、相手の心を揺り動かす何かが起こるような行為を私たちがするということです。
自分の敵と思える人の痛みに心をあわせようとする、心を抱きしめてあげようとする。そのとき初めて善を持って悪に勝ちなさいという言葉が成就していくのではないでしょうか。その時、相手は自分の行いを恥じ入るようになるのではないでしょうか。

アンデルセンの童話「人魚姫」をご存知でしょうか?
人魚姫は自分の声と引き換えに、足をもらって王子のところに行きます。二人は恋に落ちますが、その後王子は別の女性と結婚してしまいます。王子を短剣でさして殺すことだけが、人魚姫自身が自分の命を救える道でした。しかし、人魚姫は復讐のために王子を刺したりせず、この世での命は尽きてしまいましたが天に帰っていきました。
マッチ売りの少女の話もそうですが、これはただ悲劇の話ではないのです。アンデルセンの信仰が表されています。愛すること、生きることの切なさ、愛することが持つ想像もできないような深さと広さ、愛するとき、人間がどれほど美しく輝くかということが描かれています。
聖書は復讐は神に委ねなさいと言います。復讐をすれば神の子として造られた美しい姿が失われてしまうからです。

今私はこの言葉が私たちに与えられている幸せを思います。

どんな中でもこの言葉を日本に伝えていかなければならないと思います。

武力を正当化する同じ過ちをもうおかしてはいけないのです。

このみ言葉を広げていきましょう。

悪に負けることなく善を持って悪に勝てるように祈っていきましょう。
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2015年
1月18日
   「神はわたしを捨てない」
   
       ローマの信徒への手紙11章1~12節

『聖書箇所』
11:1 では、尋ねよう。神は御自分の民を退けられたのであろうか。決してそうではない。わたしもイスラエル人で、アブラハムの子孫であり、ベニヤミン族の者です。

11:2 神は、前もって知っておられた御自分の民を退けたりなさいませんでした。それとも、エリヤについて聖書に何と書いてあるか、あなたがたは知らないのですか。彼は、イスラエルを神にこう訴えています。

11:3 「主よ、彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇を壊しました。そして、わたしだけが残りましたが、彼らはわたしの命をねらっています。」

11:4 しかし、神は彼に何と告げているか。「わたしは、バアルにひざまずかなかった七千人を自分のために残しておいた」と告げておられます。

11:5 同じように、現に今も、恵みによって選ばれた者が残っています。

11:6 もしそれが恵みによるとすれば、行いにはよりません。もしそうでなければ、恵みはもはや恵みではなくなります。

11:7 では、どうなのか。イスラエルは求めているものを得ないで、選ばれた者がそれを得たのです。他の者はかたくなにされたのです。

11:8 「神は、彼らに鈍い心、見えない目、/聞こえない耳を与えられた、今日に至るまで」と書いてあるとおりです。

11:9 ダビデもまた言っています。「彼らの食卓は、/自分たちの罠となり、網となるように。つまずきとなり、罰となるように。

11:10 彼らの目はくらんで見えなくなるように。彼らの背をいつも曲げておいてください。」

◆異邦人の救い

11:11 では、尋ねよう。ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない。かえって、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです。

11:12 彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう。

メッセージの勘所

現代は欲望の追及を許し、それを良しとしてきました。しかし、そこに多くの人々が参戦してくるにつれて、当然のこととして軋轢は人と人を超えて国同士で争うまでに増大してきました。その圧力は、私たちを本当に興味を持つべきもの、本当に関心を持つべきものから引き離し、私たちは大切なことにふたをしてしまったまま、偽りの眠りをむさぼってきたのです。神はイエスさまを通して私たちをその眠りから覚まそうとなさったのではないでしょうか。
メッセージの要約

曲「ドラゴンナイト」を紹介します。< SEKAI NO OWARI(アーティスト名)の曲>
の歌詞の一部抜粋です。

「人はそれぞれ「正義」があって、争いあうのは仕方がないのかも知れない。
僕の嫌いな彼も 彼なりの理由があると思うんだ。」
「人はそれぞれ「正義」があって、争いあうのは仕方がないのかも知れない
だけど、僕の「正義」がきっと彼を傷つけていたんだね。」

ドラゴンナイトとは長い戦いの末に、つかの間訪れる平和なときとのことだそうです。

今や世界はどこで戦いがおこるかわからない状況です。大事なことは、自分の立場からだけ物をみないこと、つまり心の置き所が大事だと言っているように思います。力には力で、武力では武力でという現状のあり方では決して問題は解決しません。

昨日は阪神淡路大震災1,17の日でした。関西地方連合でも1,17を覚える集会が持たれました。
そこで問われたのは、神戸は被災地だということを忘れてはいけないということでした。
震災後、被災された方の孤独死は今でも続いています。それはなぜか。周りとのかかわりから撤退し、自分で自分を捨ててしまうという悲しい出来事がその人の内で起こっているからだと思います。

本日の聖書箇所では、「神はご自分の民をしりぞけられたのだろうか」という問いがなげかけられています。

それに対して、パウロは神がご自分の民をしりぞけられたことはないといいます。

あの大震災が起こったのがなぜ神戸だったのか、なぜ隣の家は無事だったのに我が家が壊れたのか、なぜ隣の家は全員助かって、うちは家族みなが死ななければならなかったのか。このような問いは3,11日の東北大震災が起こって、ますます、身近なものになりました。

この四年余り必死の思いで被災された方々は生きてこられたでしようが、人間の力ではどうしようもない部分がはっきりしてくるにつけて、放射能の影響を心配し、恐れつつ生きる人もおられます。

それだけではありません。フランスやベルギでのテロに身も凍る思いがします。

イスラム国が力を増し、外国で暮らすイスラム教徒への迫害がいつ起こるかわからないとの危機感もあります。

人間は時にどこに向けていいかわからない悲しみを周りの身近にいる人に向けてきました。

教会にかかってくる電話もそういうことが多いです。

困難な中にある方は、助けてやろうという上から目線を敏感に感じ取られるので、こちらの言葉次第では敵意さえ向けて来られます。

そんな中でたじろがないでいるには、自分は神から捨てられていないという確信が必要だと思うのです。

しかも自分一人ではないという確信が必要です。
それがあれば、あなたは神に捨てられていないと言ってあげられる、その人と共に歩むことができるのではないでしょうか。

パウロは、たとえ神さまが同胞を捨てても、私の献身的な愛で彼らを取り戻して見せますと自分の力を誇示していっているのではないのです。そうではなくて、自分の同胞へのひたむきな愛が支えられるのは、神さまはこの民を捨ててないという確信によっているのだと言っているのです。

パウロは異邦人の方へ行ったけれど、決してユダヤ人を捨てたわけではなかったのです。

沖縄の人達からも、なぜ自分たちはかくも長い間、外側からの力に屈服しなければならないのかといった苦しみの声を聞きますが、決して神は沖縄の方々を捨てたわけではないのです。だから私たちは沖縄の方々と連帯し、その苦しみを分かち合い、それが少しでも軽くなるようにと共に働き続けているのです。

自分に不幸が起こったとき、過去に、悪いことをしたからと思ってしまうことがありますが、神はどんな状況にある人も決して捨てられることはありません。

ルカによる福音書19章「ザアカイの箇所」では、ザアカイは徴税人だったので、ローマの手先といわれ嫌われていました。でもイエスはその人の家に入って客となりました。そしてイエスはこう言われました「この人もアブラハムの子。この人も捨ててはおかれない」と。

捨てられない根拠は、ユダヤ人であることなどではありません。
そう言えるのは、この罪人の頭である私坂田を救われて、牧師にまでされたことからもわかります。私のようなものさえ神は救い、そして用いられるのなら、救われないような人は一人としていないと私は確信をもって言えます。

憎しみと絶望と、敵意をもって電話してくる方の話を聞き続けていけるのは、
この方も決して見捨てられていないと思うからです。それがわかって頂けるまで、私にできることはせめてそういう人の側に立ち続けることしかないと思うからです。

キリスト者はこの2000年、そういう人達のために祈り、伝道し、歩んできました。だから私たちの教会もここに立っています。

神ご自身の子供、イエスを捨ててしまったイスラエル民族でさえ、神は捨てないと言われました。

ですから今も神はまず誰よりも見捨てられたと思われ人のそばにおられるのです。

しかし、今、他者の重荷を背負う力がこの世界から、すなわち私たちの中から少しづつ失われていっているように感じられるのは私だけでしょうか。

信仰を持ち続ける理由は、神はどんな人も決して見捨てられないという神の決意とその実践(十字架)の上に、すべての人が置かれているゆえです。

だからこそ私もかつて、もうダメかなと思ったことがあっても、それでも立ち直って来れました。

神は、私たちに、「自分はもう誰からも、神からさえも見捨てられてしまった」と思っている人と共にいて、「そうではない。あなたは決して見捨てられていない、あなたは一人ではない」とそう言っておられる神の存在を伝えていくことを願っておられるのではないでしょうか。

お祈りしましょう。
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2015年
1月4日
   「命に触れ続けていこう」
   
       ルカによる福音書2章8節~14節

『聖書箇所』

2:8 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。

2:9 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。

2:10 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。

2:11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。

2:12 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」

2:13 すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。

2:14 「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」

メッセージの勘所

羊飼いたちはなぜ出かけて行ったのでしょうか。彼らは仕事の最中でした。世話をしていた羊はどうしていたのでしょう。彼らは天の大軍の合唱を聴きはしました。しかし、『イエスのもとへ行きなさい』とは言われなかったのです。彼らが行ったのはあくまで彼ら自身の決断でした。そもそも救い主誕生という重大な知らせが、なぜ自分たちのような者に告げられたのかと不審に思わなかったのでしょうか。でも彼らは検討し相談し合うこともなく、すぐに出かけていったのです。
メッセージの要約

今日の聖書箇所は子供たちがクリスマスで行いますページェントでもハイライトのシーンの一つでありますが、さらっと読むと大事な点を飛ばしてしまうことになります。

と言いますのは、羊飼いたちは「幼子を見つけに行きなさい」とはひとことも言われていないからです。天の大群の賛美が終わると、静けさが、暗闇が支配したに違いありません。いったい今のこの出来事はなんだったのか?彼らは何も考えずに「さあ、行こう」と声をあげて幼子を探しに行ったということはありえなかったのです。なぜなら羊飼いが大切な、自分たちが生活していくための糧である羊をそこに置き去りにして幼子を探しに行くことは、そう簡単なことではありえなかったと思われるからです。

イスラエルが待ち望んでいたメシアの誕生が誰に告げられると思われるでしょうか?おそらくは祭司や国王、律法学者などその当時のユダヤの指導者に告げられたのち、羊飼いである自分たちに告げられるのは最後の最後であろうと考えたに違いありません。羊飼いは珍しい職業ではありませんでしたが、野獣や盗賊に警戒しつつ荒野をさまよう訳ですから、羊飼いと荒くれ者は同義語だと考えられていたと言われています。

しかし、結果から見ると同じユダヤ人でも東方の博士により知らせられたメシアの誕生の情報にユダヤの王を始め祭司や学者たちといった指導者階級の人々は1ミリたりとも自分がいるところから動きませんでしたが、羊飼いはすぐに会いに行こうと決意しました。なぜでしょうか。羊飼いたちはそのしるしに自分たちの根源を見たからだと思います。彼らにとって飼い葉おけも、そこで繰り広げられる出産の場面もよく見知ったものでした。何であっても生まれたての赤ちゃんといは、命とはいかなるものかという問いの前に私たちを連れ戻してくれます。日頃から命を扱ってきた羊飼いといえど、繰り返される日々の中で、羊の世話や心配で、いのちそのものの輝きや不思議さが見えなくなっていたと思われます。そんな彼らに示されたのは立派な身なりの紳士ではありませんでした。飼い葉桶に寝ている幼子だったのです。それは彼らをもう一度いのちの原点へと彼らを引き戻してくれたのだと思います。

芸能人のタモリという方が、敗戦からの70年を振り返って次のように語っていました。日本人はこの間様々なことを成し遂げてきた。しかし一つだけなさなかったことがある。それが自分自身を見つることだ。目標を追い、繁栄をつくり出すために、自分自身をいつも後回しにし、本当にこのままでいいのか、この道を突き進んだらどこに行きつくのか、そのようなことを自分の責任において考えて引き受けようとしてこなかった。つまり、自分自身を失ってきたのだと。

羊飼いは天のみ使いの言葉を聞いたとき、本来もっとも重要なことを悟ったのではないでしょうか。だからこそ、羊飼いたちはもっとも重要な羊を置き去りにしても幼子に会いに行こうと思ったのではないでしょうか?

天の大群の賛美の中にある、神のみ心にかなう人とは「もっとも大事なことに心をとめていく人のこと」のことではないかと思います。私たちは自分を振り返り、自分の中にどうしようもない空洞があることを正直に認めるべきではないでしょうか?それを見つめるということは私たちにとって恐ろしいことであります。しかし、自分にとって気持ちの良いものではないし手間のかかることだからと言って、また現実の忙しさに血道を上げて同じことを繰り返すのでなく、それを見つめ、自分の中にある重大な欠けを認めて、それは何によって埋められるものなのかを模索し、追い求めていく一年でありたいと願うのです。
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あなたへのメッセージ目次
 (2014年)はこちら
 (2015年)
命に触れ続けて行こう(1/4)
神はわたしを捨てない(1/18)
十字架から語られる言葉(2/8)
無力な神の全能(2/22)
無力な神の全能その2(3/1)
叫び、涙するキリスト(3/15)
勇気ある生き方その2(3/28)
思い出すという生き方その2
(4/12)
イエスを見出す方向(4/26)
神がいる人生といない人生
(5/10)
人間の証明(5/24)
 神に守られて その2(6/14)
 神に守られてその4(6/28)
 神に守られてその8(7/26)
 神に守られてその10(8/9)
 神に守られてその12(8/23)
 神に見守られてその15(9/13)
 荒れ地に川を導く者(10/11))
 何のために苦しむのかその2
(11/1)
 未来を拓くものその2(11/29)
 未来を拓くものその4(12/13)
(2016年)
 本当に生かすもの2(1/17)
 本当に生かすもの(1/31)
 本当に生かすもの6(2/21)
 本当に生かすもの7(2/28)
 本当に生かすもの9(3/13)
 本当に生かすもの11(3/27)
 信仰の力(4/10)
 主の栄光を仰ぎ見る者(4/17)
 固く立って動かされず3(5/15)
 固く立って動かされず7(6/12)
 闇を照らす一条の光(6/26)
 歴史を導かれる神(7/3)
 歴史を導かれる神4(7/24)
 歴史を導かれる神5(7/31)
 歴史を導かれる神7(8/21)
 歴史を導かれる神8(8/28)
 真実には真実をもって(9/4)
 真の人生に踏み出す時(9/11)
 主が私を呼ばれたのです(9/25)
 主の憐みが私を変える(10/2)
 2016-10-23宣教
 神の選びとは(11/6)
 耳を澄ませて(11/27)
 恐れを超えて(12/4)
 神の愛に抱かれて(12/25)
 (2017年)
 幸いなるかな心貧しき者(1/22)
 息苦しさから脱したいなら(1/29)さぁ起きてと叫ぶ声(2/5)
 天国の激変2(2/26)
 
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